オレンジ灯の迷宮

八島えく

第1話:霞子とオレンジ灯

 ふと気づくと、目の前はオレンジ色に染まった景色で囲まれていた。


 霞子は首を傾げる。自分は確か、お屋敷の部屋で寝ていたはずだ。あの畳の匂いに満ちた広い寝室で。


 冷えた空気が霞子の肌をなでる。世話係のジョーが言うお外、とは、こんな風なところなのか。




 改めて周囲を見渡してみる。周囲はオレンジ色の他には真っ暗だ。明かりといえば、目の前にそっと立つ外灯しかない。その外灯がオレンジ色の光でまわりを満たしているんだ。




 足の裏にはごつごつした感触。お屋敷のお庭の土や盛り上がった石とはまるで違う。足の裏を冷気が伝う。




 しばらく足の裏の感覚と、見たことのない光景にふけっていたが、霞子はしだいに焦燥を覚えていった。


 勝手にお屋敷の外に出てしまっていた。このままの状態でいると、いずれお屋敷のお母様にしれてしまう。


 お屋敷の外にでてはいけない、ときつくいいつけられているのに。




 何とかしてお屋敷に帰りたいが、霞子はこのオレンジ灯に満ちたお外の空間がどこであるか知らない。『お外』というものがどんなものか、本やジョーから教えてもらっても、実際に目で確かめたのは今回が初めてだった。ゆえに帰り道を知らない。




 喉のおくから何かがこみ上げてくる。霞子はそれをぐっと飲み込んだ。首に下げているお守りを無意識に握りしめる。




 かといってこのまま立ち往生していてはいけない。とにかくお屋敷に帰らなければ。霞子の頭の中は、それでいっぱいだった。




 そのとき、ふとひと凪ぎの風が霞子の頬をなでた。とっさに後ろを振り向いた。切りそろえた黒髪が揺れる。そこには暗闇が広がっており、風を吸い込んでいる。




 今度は鈴の鳴る音が幽かに耳に響いた。視線を前方に戻すと、さらなる暗闇のむこうから、何かが近づいてくるのに気づいた。




 じっと耳を澄ませてようやく聞こえる鈴の音が、少しずつ鮮明になってくる。冷えた風が霞子の足首を通り抜けた。


 淡い黄色の光が浮かび上がってくる。何かの輪郭が現れてくる。


(あれはなに?)




 次第に鈴とは違う音が混じってくる。何かが地をはいずっているような音だ。


 光の球は無数に宙でちらばり、オレンジ灯の空間を照らしていた。


 そしてその光の球を従えるようにして、次第に姿を現したものがひとり。




 長い髪が地を引きずっている。前髪で顔が隠れてしまっている。その肌は青白い。薄紅の着物はきれいに整っている。水仙の花が黄金色に刺繍されていた。胸部がわずかにふっくらしているのをうかがうに女だろうか。その手には赤い傘が握られていた。




 次に霞子の目を奪ったのは、女の下半身だった。


 人間の足は二本だということは霞子にもわかる。


 だが女の足は二本ではなかった。そのうえ人間の足かどうかもうたがわしい。


 鋭い脚が八本、図鑑で見た覚えがある形だ。蜘蛛の足に似ている。




 かすみこ、と名前を呼ばれた気がした。


 耳を澄ませてもう一度聞こうとしてみる。




 ーー霞子。


 その者は確かにそういった。




 上半身は人間の女、下半身は蜘蛛の、人間とも蜘蛛とも呼べないその者が、ゆっくりと霞子に近づいてくる。


 鈴のなる音が、その者が歩く旅に聞こえる。




 霞子の背中に寒気が走った。足が縫いつけられたように動かない。


 お守りを握る手の力が強くなる。




 ぴったりと、その者が霞子の頬にふれた。


 氷を押しつけられたように、その者の手はひどく冷たかった。


 顔を覆う冷気に霞子はすくむ。




 いったいだれなの?


 そう問いかけようにも、声がでない。口は開いても、ひゅっと冷気を吸い込むしかできなかった。




 その者の手が、霞子の頬から首に伝っていく。ひどい冷気が体を這っている。霞子は小さい悲鳴を押し殺した。




 その者の顔が近づいてくる。花のような甘い香りが冷気に乗って漂ってくる。


 長い前髪で顔が見えない。その者の正体を霞子は知らない。だけれど、どこかで懐かしいきもちがこみ上げてくる。瞬きもわすれた。




 ーーかすみこ




 その者の口端がまっすぐつり上がる。


 白い歯がむき出された。歯の先はとがっている。


 その者の手が霞子の背にまわる。着物越しに背筋を冷たい指先でなぞられ、霞子の体がびくんとはねる。


 冷たくも温いその者の胸中に、霞子はすっぽり抱き入れられた。冷たい指は背中をつたい、霞子の下半身へとうごいていく。その感覚が霞子に痛いほど伝わる。唇を閉じていないと、おかしな声が飛び出てきそうだった。




 その者の手が霞子の足を伝うかと思ったとき。


 ふたりを分かつように、黒々とした何かが割って入った。




 霞子は思わず後ろへ一歩下がる。その者は弾き飛ばされたかのように吹っ飛んだ。


 地面に体をたたきつけられ、鋭い八本足で体勢を立て直そうとしている。


「あぶなかった」


 霞子でもその者でもない、また新しい声が、霞子の隣で響いた。


「!」


 灰色のぼろ切れを頭からまとっているため、顔が伺えない。黒い前髪は目をかくしている。背丈は霞子とおなじほど。


 いつの間にかぼろ切れの者は、霞子の左手をしっかりと捕まえていた。




 霞子は状況が飲み込めず、八本足の者とぼろきれの者を交互にみやるしかできなかった。


「こっちへ」


 ぼろきれの者が霞子にそう話しかける。霞子が何かを発するまえに、ぼろきれの者は行動に移っていた。




 霞子はぼろ切れの者に連れられ、八本足の者からだんだんと離されていった。






「危ないところだった」


 ぼろ切れの者は、フードを目深にかぶりなおした。


 改めて霞子はぼろ切れの者の声をきちんと聞く。声変わりがしていない。少年の声にも聞こえるし、少女の声にも聞こえる。


 前髪とフードの隙間から、青黒い瞳が伺えた。ぼろ切れで身を隠してはいるが、下は動き回りやすい装束でかためられているのが霞子にはわかる。


「危ないって、なにが?」


 霞子は首を傾げてそうたずねる。あきれるでもなく怒るでもなく、ぼろ切れの者は冷然な声色で答えてくれた。


「あれは異形だ。君は異形によって食われそうになっていたんだ」


「いぎょう。いぎょう……聞いたことある、ジョーが言ってた」


 霞子は従者に教えてもらった知識をうすうすと思い出す。


「異形というのは人間をたべる、要するに化け物だ。君はあれに食われそうだったけど、もう大丈夫。僕が君をお屋敷に帰してあげる」


 ぼろ切れの者の声は淡々としていたが、どこか暖かい。


「ありがとう。わたし、お外のこと何もしらなくて、ここがお屋敷から近いのか遠いのかもわからなかった」


「それは、とても不安だったろうね。でも安心して。僕が来たから」


 じゃあいこう、とぼろ切れの者は霞子の手を引いて歩きだそうとする。


 それを霞子がとめた。


「まって! ひとつお願いがあるの!」


「なに」


「お、お母様には内緒にしてくれる……? わたしが、お外にでてしまったこと。お母様には、お屋敷から出るなっていわれてて、言いつけを破ったことがしれたら、叱られる……」


霞子は申し訳なさそうに視線を地に落とす。


「いいよ。僕は君の味方だから、君のお願いは聞いてあげる。君がここに来たこと、誰にも言わない。内緒にする」


「ほんと?」


「うん、約束する。代わりに僕の頼みも聞いて」


「何?」


「君をこの空間から出してあげる。そのかわり、僕の顔をのぞかないこと。いいかな」


「いいよ!」


 よかった、とぼろ切れの者は、霞子の右手の平をそっととる。


 ぼろ切れの者が空いている手で糸を紡ぐような仕草をすると、霞子の手のひらに何巡かの赤い糸が巻かれた。その糸をたどっていくと、ぼろ切れの者の左手首につながっている。糸はじんわりと薄く照っていたが、じょじょに糸がふっと消えていった。


「これは……」


「離れないためのおまじない。目には見えないけど、この糸がある限り、君は僕と一緒。お屋敷に帰れたらほどくから、窮屈だろうけど辛抱して」


「ううん、ありがとう! あのね、わたし霞子っていうの。あなたは?」


「僕はレウ。それじゃ霞子、いこう」


 ぼろ切れの者ーーレウに連れられ、霞子は歩き出す。

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