第109話108.刹那 4
その夜——
「戻ってきたか」
相変わらず執務室に詰めて報告書に目を通していたファイザルは、ぶらりと入ってきたセルバローに冷たい視線を向けた。
雷神は既にどこかで一杯やってきたらしく、大変ご機嫌である。しかし、ファイザルは知っている。例えば今この瞬間に斬りかかっても、この男に傷一つつけられないことを。技量も力も負けないと思う。だが、この男の剣は読めない。その心の内と同じように。
「いいご身分だ。あやかりたいね」
「これでも途中で切り上げてきたのさ。お前が俺の事を痺れを切らして待ち焦がれていると思ったもんでな。感謝しろよ」
「別に貴様なんぞ待っちゃあいないさ。だが言え、どんな段取りになった?」
「別にどうという事もない。目立たないように街中の娘っ子の服を着せて、目抜き通りを案内するだけだ。まぁ、姫君が望まれるのなら、食事ぐらいはさせてあげてもいいかと思ってるだけさ」
「そうか」
意外にもファイザルは異を差し挟まなかった。
「だがくれぐれも店を選べよ? 分かっているだろうが、あのお方の身に万一」
「ああ、ああ、皆まで言うな! 俺はよく分かっている。昔お前がさんざん浮名を流したような店には絶対連れて行かないから」
「お、おい!」
雷神の言葉にファイザルは慌てた。
「あの頃の女の子たちもすっかり老けただろうなぁ。案外いい女将さんになっていたりしてなぁ……いや、やり手婆ぁか?」
気持ち良さそうに半眼になって回想に
「お前結構ワルイことしてたよなぁ……あの子に言ったら驚くだろうなぁ……いや、あの子のことだから案外面白がるかなぁ」
「……いい加減にしろよ。やっぱり一度痛い目にあうか?」
「そんなの何回もあってらぁ。脅しにもならないね」
「食堂にお連れするのは許してやるが、絶対妙な店には連れて行くなよ」
「あいよ」
セルバローは気楽に請け合う。
「ここらが一番気になるな。あの方のことだから……食堂の周りは幾重も守りを固め、客はあらかじめ決めておくように。あと出来るだけ人目に触れないように個室をとって」
「はいはい。可愛いあの子をその辺の若い男の目に晒さないようにね。過保護なこった」
「過保護で丁度いいくらいだ。何かあったら貴様の首が飛ぶくらいでは済まないんだぞ」
「俺の首の話ならどうでもいい。別段安くもないがな。けどなぁ、お前もさ、ちょっとは可哀相だと思ってんだろうに」
「仕方がない。あの方も聞きわ訳がない人じゃないからな。ここにいる限り窮屈なのが日常だとちゃんとわかっておられる。いずれノヴァゼムーリャに帰ったら少しは息抜きができる」
ファイザルは考え深く言った。
「とにかく何事もなく、数時間の町歩きを楽しまれたらそれでいい」
「何事もなくねぇ……というか、既に何かあったんじゃないの? あの子が急にあんなに色っぽくなったのはさ。今日久々に会って俺はびっくりした」
「……」
「既にどなたかが手をお出しになったのかもなぁ?」
「貴様……」
「すごいよなぁ。そいつ、度胸あるわ〜、俺よく知らんけど、だいっぶ雲の上のお姫様なんだろうに」
セルバローは一連の出来事から既に大体のことは察している。
「お前も因果な娘っ子に惚れたよなぁ」
「ふん」
「けどわかるわ。あの子すっごいいい子だもん」
「言ってろ」
「あ、照れてるなお前」
「照れてない」
「じゃあ言えよ。姫君のお味は?」
「味とか言うな! 無礼者」
「ひゃあ! こらぁ本格的に惚れてるな。してみると、よっぽど良かったんだな。しかし。お前がオボコにかき乱されるなんてなぁ。人生はわっかんないな」
芝居じみてセルバローは頭を振った。緋色の髪が豊かに揺れる。ファイザルは忌々しそうにその様子を眺めた。
「お前こそさっさと身を固めるがいい。その方が世のためだ」
「いや〜俺はお前のようにたった一人を選ぶなんてできないなぁ。生まれたての赤ん坊から、しわしわの婆さんに至るまで、女はみな可愛い。可愛くてえらい。そんで俺を愛してくれる。誰か一人に絞るなんて、そんな非道な事」
「それを卒業しろって言ってるんだ。大体守備範囲広すぎだろ! その内刺されても知らないぞ」
「俺にはそんなコワイ女はいないの。だけどお前……実のところ、俺なんかよりお前の方が怖いんじゃないの?」
「え?」
一瞬、セルバローの言った事が理解できないようにファイザルは言葉に詰まった。
昔から彼の言葉は何も考えていないようでいて、時として心の死角に
「俺が怖いって?」
「怖くないの?」
「……ああ、確かにそうかも知れん。俺は怖いな」
ファイザルは鋭い朋友の視線から逃れるように目を逸らした。
「聞いてやるよ」
雷神は面白そうに先を促した。
「俺のような男があの方を手に入れて……本当に幸せにできるのかどうか」
「なんだ、そんな事か」
「そんなこととは何だ」
「約束したんだろ」
「それは無論」
「なら遂行しないとな。崇高な任務と思って完遂しろよ。肝に銘じろ。これは命ぜられてするものではなく、望んで行うものだってことをな」
「……」
「愛してるんだろ?」
「ああ」
答えは簡単なものであったが、セルバローはそれがファイザルの初めて認める感情だと知っている。
「ならできるさ。お前が密かにぐずぐず悩んでいる罪とやらも全てあの子が洗い流してくれる」
「そうかな?」
「なんだ、あの子はそうは言ってくれなかったのか?」
「ああ。だが、レナは俺の罪など全て受け入れてくれているのだろう」
「この野郎、早速
「惚気になるのか?」
「なるわ! 腹たつ!」
逞しい胸にぼすんと音を立てて拳がめり込んだ。
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