第100話99.帰還 4

 女王は急に大きな声を上げて背後を振り返った。

「随分待たせてしまいましたね。さぞやじりじりしていたのでしょう? もう入ってきていいですよ。レーニエや?」

 すると待っていたかのように奥にある小さな扉が開かれ、そこから小さな人物が顔を見せた。

 ファイザル思わず立ち上がり、よろめくように一歩下がったが、一拍遅れて胸にふわりと白く柔らかいものが飛び込んできた。

 普段の彼ならば、例え部屋の外であっても隠れている人物の気配を察し、警戒していたであろうが、王宮であることと、女王の御前と言う事でかなり緊張していたのか、まったく気づかなかったのだ。

「レナ! レーニエ様! 陛下、これは……」

 狼狽しながらレーニエを抱きとめ、ファイザルは、瞳を輝かせ愉快でならないように二人の様子を見守っている女王に問いかけた。

「見ての通りですよ。おや、この子は……これ、レーニエや、そのようにひしと取りすがっていては、ファイザル殿がお困りになるだろう」

 言葉もなくファイザルが見下ろしてもレーニエは彼の胸に顔を埋めたまま、離れようとしない。華奢な両手で軍服の厚い生地をぎゅうと握りしめたまま。そんな娘の姿を珍しそうに母が見ている。

 気がつくと、彼女はいつもの黒い男物の服ではなく、淡い草色の簡素なドレスを纏っている。肩甲骨のすぐ下で結ばれた帯が腰までふわふわと広がった柔らかい絹。

 長い髪はおろしていたが両脇だけ編み込まれ、真珠の付いたピンが所々に挿されていて、まるで朝露に濡れる若葉のような姿であった。

「レーニエ様」

 ふわりと抱きしめる。髪から良い香りが立ち昇り、鼻腔をくすぐった。

「待っていたの……ずっと……ヨシュア」

 押し殺したような声が胸のあたりから漏れる。

「……とまぁ、こんな具合です。ファイザル殿。この子はもうずっとあなたに会いたがっておりました」

「陛下」

「この子はあなたの他には何も要らぬと申すのです。まったく似た者同士ですね。あなた方は」

 そう言って彼女は首を竦めた。やれやれと言う呈である。

「……」

「花嫁衣装は私が用意します」

 断固とした宣言。

「陛下!」

「……?」

 ようやく顔を上げてレーニエは彼女の母を見つめる。強かな母は、娘に向かって片目を眇めて見せた。

「それと、式は王宮内で上げるように。無論、内輪で済ませることになりましょうが」

「母上!」

 ソリル二世アンゼリカは、深い頬笑みを浮かべて頷いた。

「それから、どうせノヴァゼムーリャに帰りたいとか言いだすのでしょうが、とりあえずあと一月はここで私と過ごすこと。それと、一年に一度は都に戻ってくること。これが条件です。どうですか?」

「はい……はい」

 こくこくと顎が下がる。母はそのなめらかな頬に指をすべらせた。

「可愛いレーニエ。あなたの幸せだけがこの母の願いです。今まで辛かった分までファイザル殿に幸せにしてお貰い」

 そう言ってソリル二世は微笑んだ。

「母上!」

 レーニエは身を翻すと、今度は母親の胸に飛び込んだ。

 自分に対して常に遠慮がちであった娘が、よもやこのような振る舞いをするとは思っていなかったアンゼリカは、非常に驚いていたが、やがてしっかりと腕を回す。

「まさかあなたから抱きつかれるとは思ってもみませんでした。先ほどファイザル殿にそうした時も驚きましたが、ノヴァの地は本当にあなたにいろいろな事を教えてくれたようですね。ああ気持ちが良いこと」

 すっかり母の顔に戻った女王は、うっとりと愛し子をその胸に抱いた。

「はい……あの地で私は、自分の心に素直になることを学びました」

 レーニエは泣くまいとしたが、それは難しい事だった。母の首を抱きしめながら頬に熱いものが伝うままに任せる。

「そう……、そのようですね。彼の地で得た縁を大切にされるがよい」

 母は優しく娘の背中を撫で、指先で涙を拭ってやる。

「可愛い子。あなたもすっかり大人になられましたね」

 そう言うと、女王はまだ湿っている娘の白い頬に唇を寄せた。

 そして娘を抱く女王の鳶色の瞳がファイザルを捉えた。その明確な意思に彼は大きく頷くと、胸に拳をあてて深々と腰を折った。女王が娘の肩に両手を置いて優しく振り返らせる。ファイザルはレーニエの前で片膝をつき、その白い手を取った。

「姫。レーニエ姫、俺はあなたを愛している。この世の何よりも。どうか我が――我が妻になってください」

 静かな、しかし強い眼差しがまっすぐにレーニエを見つめている。赤い瞳が万華鏡のようにざわめいた。


『運命など変えてみせる』


 木枯らしの吹くノヴァの地で誓った言葉はこの時に繋がっていた。

 いや、もしかしたら二人が出会ったその日からこうなることは決まっていたのかもしれない。様々な出来事を布石として。

 ――愛している、愛している。

 レーニエはよろめくような思いで彼の言葉を受け止めた。

「はい」

 白銀の髪が揺れた。


 運命は確かに変わったのだ。




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