第85話84.障壁13

 ふらりと廊下に出たレーニエは、そのままゆらゆらと歩きはじめる。廊下は薄暗く、相変わらず人影は見えなかったが、正面扉まで来ると護衛の兵士達に戸惑ったように呼び止められた。

「これは大使閣下! どちらへ参られます?」

「外には出ない方が……いえ、今のところ何もありませんが」

 兵士たちは、普通なら声も掛けられないような高貴な人物が一人でふらふら歩いているのを見て、相当驚いたようであった。

「……そとへ……」

 ぼんやりとレーニエは答える。その時正面扉の横の脇の小さな戸が開き、食事をとっていたのだろう交代の兵士達が休憩を終えて帰って来た。

「おやぁ? これはこれは」

 先頭に立ってやって来たセルバローが目聡めざとくレーニエを見咎める。

「王女殿下」

 続いてジャヌーや他の兵士達も入って来た。

「こんなところで何を?」

 驚いたジャヌーが進み出る。レーニエはジャヌーすら目に入いらぬ様子でゆらりとよろめいた。

「レーニエ様!?」

「あ……」

 がっしりと肩を支えられ、空虚だったレーニエの頭の中が僅かに回りはじめる。この場を取り繕うために何か言わなければいけない。

「いや、あの……する事が何もないので……」

「はあ」

「少しだけ外に出たいのだが……」

「外に?」

「勿論護衛はしてもらって……問題があるのなら無理は言わないが……」

 弱々しく視線が避けられ床に落ちる。

「あ~、私からは何とも……あ、そうだ。司令官殿に聞いてみますね」

 どうも様子が変だとジャヌーがファイザルの部屋へ行こうとした刹那――

「ダメ!」

 突然激しい勢いでレーニエはジャヌーを遮る。これにはジャヌーの方が驚いて唖然と主君を見やった。

「は?」

「い、いや、その……ファイザル殿は、ええと……来客中で……」

「来客ぅ?」

 セルバローがジャヌーに聞き返す。

「あ! そうでした。なんでも昔司令官殿が世話になったことがあるという、市民の方がいらっしゃる予定で、俺は外すように言われてたんでした」

「ふぅ~ん、世話にねぇ。女だろ?」

 にやりとセルバローは笑った。

「あっ、それはそうですが」

 ジャヌーはレーニエに遠慮があるため言葉を濁す。

「なんでも、その方は酒場を経営されていて、いろんな裏の稼業の人達をご存じなんだとか。ドーミエの残党について何か情報が得られるかもしれないという事でした。でもなぜレーニエ様がそのことを御存じで?」

「え? えっとえっと……たまたま小耳にはさんで……」

「へぇえ~成程。それで、殿下、外へお出ましに?」

 セルバローはレーニエを見つめながらちょっと考え込んでいたが、また唐突に元に話題を戻した。

「あ、いや……できればだが……こちらに来てから殆ど屋内にいるので、気晴らしにと……」

「じゃあね、俺……私が護衛致しましょう」

「えっ! 大佐殿」

「いくら大使閣下だって、こんないい天気の日にお部屋で缶詰じゃあ気持も|塞(ふさ)いでしまわれるだろ? それにさっき俺たちが見た限りじゃあ、市中に特に不穏な様子はなかった。少しぐらいならいいでしょう」

 セルバローはそう言ってレーニエに片目をつむって見せた。

「しかし……司令官殿に一応報告を」

「俺では頼りないかい?」

「いえっ! 決してそう言う訳ではっ! じゃあ、俺もお供いたします。それとお前とお前、ついてくるように」

 ジャヌーはてきぱきと指示を出してレーニエの先頭に立ち、ゆっくりと脇の扉を開けた。


 元市庁舎正面の高い石段の上から見るウルフィオーレの街は、そこここに無残な傷跡を残しながらも薄暮を吹き飛ばす活気にあふれている。

 数日前に市民の前で和平の調印式が行われた広場はたくさんの人たちが縦横に行き来していた。すぐ傍にセルバロー、少し離れた後方にジャヌー達が付き添っている。

 ノヴァの地を出て以来、久しぶりに見る市井しせいの人たちの様子だった。

 敷石はところどころ剥がれ、場所によっては大穴があいている。しかし、円形をした広場に沿うような形で小さな露店が幾つも並び、おかみさん達は夕餉の買い物に余念がない。

 上から見るといろんなものが実によく見えた。

 ガラガラガラと音を立てて驢馬が引く荷車が行き交ってゆく。

 皆、逞しく働いている。戦争で辛い思いをしてきただろうに……。

 レーニエは石段に向ってゆらゆらと進んだ。

 きっと私などとは心の出来が違うのだ。

「王女殿下?」

 頭の真上から声が降ってくる。セルバローであった。この男にしては珍しく、後ろに立つジャヌー達には聞き取れないくらいの囁き声だった。

「ん?」

 ぼんやりとレーニエは答えた。

「王女殿下には何かご屈託がおありで?」

「屈託?」

「ええ、私にはなんだか殿下がとても寂しそうに見えます」

「……」

 風が長い髪を揺らした。

「セルバロー殿と言われたか……」

 レーニエは眼下を見下ろしたまま静かに尋ねた。

「ええ、それが俺の名前です。俺の名が何か?」

「セルバロー殿には欲しても手に入らなかったものはあるか?」

「手に? ん~、私は欲しいと思ったら、あらゆる手を尽くして大抵のものは手に入れてきたから……うん、それでもまぁ、できる事とできない事の区別くらいはつくんで、結果として手に入らなかったものもありますよ」

 赤毛の男は機嫌よくざっくばらんに応じる。

「そう……あらゆる手を尽くして……」

「ええ。ですが、それがどうかなさいましたか?」

「いや……私もそう思って少しは頑張ってみたんだけど……やっぱり駄目だったようだ」

「へええ、殿下が何を望まれて?」

 意外そうにセルバローが腰を折って白い顔を覗き込む。レーニエはじっと広場を見つめたままであった。まるで独り言のように言の葉が紡がれてゆく。

「昔は何にも望まなかった……望んでも仕方がないと思っていたから。だけど、一つだけどうしても欲しいものがあって。だけど唯一願った事が叶わないのなら、やっぱり願わなかった方が良かったのかもしれない……」

 睫毛が伏せられ、薄い隈の浮いた目元に更にかげを重ねる。

「でも本当は嘆く必要はないのかな。元々私の物ではなかったのだから」

「そりゃ、違うと思いますよ。何かを欲すると言う事はつまり、生きると言う事です。何にも欲しがらない人生なんて馬鹿げていると俺は思いますがね」

 それは彼の生き様である。意外そうにセルバローがそう言うのへ、レーニエはやっと顔を上げた。

「……そうかな?」

「そうですよ」

「……」

 娘は初めてまともにセルバローを見た。大きな瞳に満々と哀しみを湛え、それでも微笑もうと口角を上げようとする。

「殿下のご屈託とはあいつの事ですか?」

 何の前置きもなく彼はレーニエに問う。彼の言葉は何時も唐突に齎されるのだ。

「あいつ?」

「ファイザルのことです」

「セルバロー殿は少将殿をご存じなのか?」

「まぁ、昔から腐れ縁でね。嫌と言うほど知っています。残念ながらね」

「そう……あの方はご立派な方だ。何十年も続いた戦争を終わらせられた」

「それはまぁ、そうです。この一年、奴はかれたように手柄をあげる事に拘泥していた。以前とは大違いだ。俺にはあいつが――あいつも何かを欲しているように見えたんですよ」

「欲して……それは?」

「さぁ? 興味がないので聞いてはいませんが、俺の考えでは、それはある女の事ではないかなと」

 セルバローはレーニエの様子を注意深く見守りながらそう言った。

「お……んな?」

 相変わらず茫洋ぼうようとした様子でレーニエは呟く。

「推測ですがね。俺のカンは滅多に外れません。それが自慢で」

「では、そうなのだろう。どうやらファイザル殿は望みのものを手に入れられたようだ」

「え!?」

 意外な答えにセルバローは珍しく眼をみはった。

 この子は一体何を言っているんだ? この娘こそがあいつの――

「私は……」

 レーニエは前に踏み出し、石段を一段おりる。だからその表情はセルバローには伺えなくなった。

「殿下?」

「この役目を終えたら、私は元通りあの北の地に帰ろうと思う」

「北へ?」

「そう、なるべく早く……遠い懐かしいノヴァの地に」

 次第に小さくなる声は、昼間の微風にさえ攫われるようにか細く消えてゆく。

 ふん……やっぱり何かあったな。王女様かなんだか知らないが、この子はまちがいなくいい子だ。こんないい子をこれ程哀しませて、奴は一体何をしてたんだ。……女だと言ってたな。成程、読めてきたぜ……気障な事をしてくさる。

 セルバローは思い切り眉を顰め、ふんと鼻を鳴らす。

 その時、可愛らしい声が広場近くの路地から聞こえてきた。レーニエはそちらに顔を向けると声に誘われるようにゆっくりと二十段ほどある石段を降りて行った。

「あ、レーニエ様」

 不思議に似会う二人に遠慮して少し離れていたジャヌー達も慌てて後を追う。

 レーニエは石段を下り立ち、広場を横切っていった近くの路地に目をやると、五、六人の幼い子ども達が遊ぶ姿があった。ぼんやりとそちらへ足を運ぶ。セルバローが脇に従う。

「レーニエ様、あまり狭い場所へは……」

「ああ。ここで見ている」

 ジャヌーが心配そうに声をかけるのへ頷き返し、レーニエは路地を少し入ったところで足を止め、子ども達の遊ぶ様子を眺めた。

「あれは……何をして遊んでいるのだろう?」

 子ども達は敷石に小石を投げ、その小石が入った敷石を避けるように片足で跳んでいる。

「ああ、ケンケンですかね? 俺も昔はよくやったもんです」

 セルバローが屈託なく答えた。

「ケンケン?」

「ええ、ああやって小石を投げてですね、小石がある敷石には入ってはいけない約束があって……ああやって片足で飛び越えていくんです」

「へぇ~我が北の領地では見かけない遊びだな」

「そうでございますね」

 ジャヌーも相槌を打つ。

「よく見て覚えて……帰ったらマリ達に教えてあげようか……」

 ふ……とレーニエは笑った。その微笑みが何故か酷く切なそうで、ジャヌーは胸が締め付けられた。

「うん、そうだ。そうしよう」

 レーニエがもう少しよく見ようと、子ども達の方へ向き直ったその時――


 ガラガラガラ


 広場の方からやって来た荷車には珍しく驢馬ではなく、馬が繋がれていた。

 ジャヌーがさっとレーニエを脇に庇おうとしたが、その荷車は路地に入ることなく通りすぎてゆき、人々が気を抜いた時――

 広場に面した一番手前の壊れかけた店舗の裏口から数人の男たちが剣を片手に飛び出してきた。馬車で路地をやり過ごしてから、建物を通って路地に侵入してきたものと思われた。

 男たちは市民の恰好をしていたが手に手に得物を持っている。六、七人はいるだろうか? 荷駄の中に隠れていたのだろうか。何れにせよ、広場への出口は完全に塞がれてしまった。

「なんだ! 貴様ら!」

 外側を守っていた兵士が素早く剣を構えたが、相手の斬り込みの方が僅かに早く、足を斬りはらわれてしまう。

「うあ!」

 斬られた兵士は堪らずによろけ、そこに更に踏み込もうとする敵に別の兵士が駆けつけ、すんでの所で敵の剣を受けた

「ダナン!大丈夫か!?」

 助けた兵士もあっという間に戦闘に巻き込まれ、そこへセルバローがずいと割って入った。

 味方は四人、対して敵は七人。しかし、雷神は少しも臆してなどいなかった。

「ふん、舐めるなよ。俺は『雷神』だ!」

「おおお! 雷神! 仲間のかたきぞ!」

「相手にとって不足なし!」

 敵も決死の覚悟の者たちなのだろう。殆どの者は勇躍して剣を構えなおす。

「俺は大いに不足だがな!」

 セルバローは陽気に叫んだが、味方の四人中、一人は既に負傷しているのに対し、相手は市街戦に適した完全武装の七人。

 いかなセルバローでも長剣の大振りが利かない路地の中では、相手を先に進ませないので精一杯かと思われる。

「逃げろ! 子ども達!」

 レーニエが叫んだ。

 呆然と斬り合いを見つめていた子ども達は、わっと路地の奥に散っていった。が、一番小さい子が敷石の出っ張りに蹴躓けつまづいて転んでしまう。レーニエが駆けより、子どもを助け起こした。

 ジャヌーが子どもを助けたレーニエを背後に庇いながら路地の向こうへ逃れようとする。その時、奥の建物の隙間からも二人の男が現れた。

「何!?」

 更に敵の数が増える。これで退路も絶たれてしまった。

「『掃討のセス』の部下とお見受けする。奴を出せ」

 新手の内の一人が、ジャヌーに凄むが、彼は動じない。

「司令官閣下なら市庁舎の中だ。こんなところで子どもの遊びを邪魔している暇があったら、勝手に踏み見込むがいい!」

 右手の方で斬り結ぶ音を気にしながらジャヌーは奥の二人の男と対峙した。

 こんな奴らがファイザルに向かって行っても何ほどの事はないが、レーニエを傷つけられるのはなんとしても回避せねばならない。

「そいつはなんだ? エルファランの使者か? なら都合がいい。そいつを虜にして、奴を引きずりだせ!」

 男たちの一人がジャヌーが庇うレーニエに目を付けて叫んだ。途端に背後で戦っていた男たちの数人が駆けつける気配を感じ、ジャヌーの腕に力が籠る。

「させるか!」

「ぎゃああ!」

 セルバローが払った剣に背中を斬られ、男の一人が仰け反って倒れた。石の壁にざっと血飛沫がかかる。ジャヌーの前にも二人の男が立ちはだかっている。

 彼は壁を背にしたレーニエの前で二人の男と同時に斬り結んだ。

 凄まじい金属音。おめく男たちの声。

 レーニエは壁に張り付いたまま声も出せない。背中に子供を庇って立っているのがやっとのありさまだ。子どもは恐ろしさで声も出せずに泣いている。

 人が斬り合うところを見るのは以前領地で脱走兵とファイザルの立ち合いを見て以来だった。あの時は実力に差がありすぎ、あっという間に決着がついたが、今回は味方の方が人数が少ないのだ。

「でやぁ!」

 ジャヌーの鋭い突きが、一人の男の胸を貫く。男は血を吹き上げ、ものも言わずにその場に倒れた。休む間もなくジャヌーはもう一人の男に向き合う。

 この男の方が腕は立つようで、ジャヌーは突きを避け切れず腕に浅い傷を負った。

 しかし、怯むことなくジャヌーは応戦する。腕力では彼の方が上のようで、次第に敵は押され、路地の奥の方へと足場を移していった。

「ジャ……」

 不意にレーニエの腰に何かが当たり、どさりと落ちた。見るとそれは人間の手首だった。まだ剣を握っているかのように指がぴくぴくと握りしめられている。

 切り口から血が流れ出、レーニエの服の裾を汚した。

「あ……」

 思わず顔を上げたレーニエの視界の隅にもう一人の男が映る。二人の男たちが出てきた建物の隙間に彼はじっと立っていた。ジャヌーはやや斜め前方で戦っているのでレーニエの前には今誰もいない。男は薄く笑ってレーニエの真正面で腕を上げた。上げた腕に小型の弓のような物が仕込まれているのが分かった。

 射られる、とレーニエは思った。だが声は出せない。ジャヌーもセルバローも彼女の左右で敵と戦っている。ヘタに声を上げれば、彼等はすぐにレーニエを守ろうと身を翻すだろう。

 その隙を突かれ、背後から攻撃を受けてしまうかも知れなかったからだ。

 レーニエはまっすぐに男を見た。男が腕に仕掛けられた弓を引き絞る。こんな時乍ら彼女は長衣を着ているせいで、背後の子どもがすっかり隠れていて良かったと思った。

 よい、射よ。私の――

 レーニエはまっすぐに男を見た。周囲の音が遠ざかってゆく。

 命をやろう……。


 ビィン!


 激しく弓が鳴る。

 同時に―――レーニエは何も見えなくなった。


「……は」

 気がつくと視界が何かで酷く遮られている。それは―――

 それは広い背中だった。

「お怪我はっ!?」

 諸手に剣を握ったファイザルが振り向く。その肩に―――

 ぐさりと矢が刺さっていた。黒い軍服がじわじわと濡れていく。

 レーニエは見た。気遣わしげな青い瞳が近づいてくるのを。そして、突然その目が驚愕に見開かれるのを―――

「ヨ――シュア」

 それきり何も分からなくなった。





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