故郷は心のすまう場所
第58話57.思慕 1
「奥方様には何か御不自由はないか?」
さぁさぁと静かな雨音が静かな部屋を満たしている。
秋雨のしのつく露台を眺められる大きな窓辺に、二人の人物が向き合って座っていた。昼間だというのに外は薄暗く、霞みが立ち込めたようで、まだ秋も間もないこの時期にしては、湿って肌寒い大気が屋敷内を侵食している。しかし、少なくとも重厚な装飾がなされた年代物の様式が施されたこの部屋には、屋外の湿気の入る余地はない。
室内は赤々と暖炉が焚かれ、あちこちに置かれたランプの灯が放射状に部屋を明るく照らしていた。
「いいえ。このようによくしていただいて何の不安もございません。この頃は大分落ち着いてきましたし」
落ち着いた声が、先の問いに穏やかに応じた。その応えに軽く頷いたのは――。
もうすぐ二十歳になるノヴァゼムーリャの領主、レーニエ・アミ・ドゥー・ワルシュタールであった。
領主はゆったりした木綿の服を身につけていた。
相変わらず女物の服は身につけないが、淡い日光のような色をしたそれは柔らかく細い肢体にまとわりついて室内の灯を投影し、長い白銀の髪と共に彼女の周りを柔らかい光で満たしている。
「それならよいが……」
レーニエは向き合って座る若い婦人に微笑みかけた。眼鏡の奥の瞳は柔和その物で、鼻の頭に散るそばかすでさえ、彼女の優しい雰囲気を引き立てる装身具のようにレーニエには思えた。婦人は手に編み棒を持ち、細い糸で小さく優雅なおくるみを編んでいる。
彼女はナディア・ドゥー・オーフェンガルド。
先年、この地に着任した国境警備隊長の妻で、歳は二十五、現在六月の身重であった。
なんて尊い姿なんだろう……。
レーニエはそっと溜息をついた。
大好きな人の子どもをお腹に宿し、自分の手で小さな命を包むものを作っている。
私にそんな日が来ることがあるのだろうか?
「……どうかなさいました?」
ナディアが編み物を手を止めて、心配そうにレーニエを覗き込んだ。レーニエはさっと笑顔を作る。こんな事にももう慣れてしまった。
「いや……本当に素晴らしいお仕事をなさると思って……私は不器用だから針すら持ったことがない」
「それはそうですわ。こんなにきれいなお指に針など似合いません」
「仕事ができない手など役に立たぬだけだと思う」
「レーニエ様はご自分に厳しすぎます。皆がレーニエ様を慕っておりますのに」
「……」
レーニエはつまらなさそうに自分の指先を見ていたが、ふとその目が無意識にお腹を撫でるナディアの手に向けられた。
「撫でてもいい? もし……お嫌でなければ」
「勿論でございます! どうかこの子に触ってやってくださいませ」
「ありがとう」
レーニエは恐る恐る手を伸ばしてかなり目立ち始めたナディアのお腹に触れた。温かく不思議な感触。だが、レーニエはすぐに手を引っ込めてしまった。
「ふふふ……変な感じでしたか? たまに動くようになったのですが」
「ううん。変とかではなくて……嬉しいんだけど、なぜだか少し悲しくなってしまったんだ……女の人は偉いんだと思って」
「レーニエ様だって、女性ではありませんか」
女性? 私は女じゃない……何もない、ただのレーニエだ。
「……」
ナディアはレーニエの儚い微笑みを見て、胸が痛んだ。
この人はいつも泣いているみたいに笑うのね。
「さぁ、身ごろができました。ねぇ、レーニエ様? 飾りの部分は何色の糸がいいと思いますか? レーニ様はご趣味がいいからご意見を聞かせてくださいませ」
ナディアはうっすらと知るレーニエの事情を思ったが、優しい姉のような言葉をかけることしかできなかった。
時は初秋。貧しいノヴァゼムーリャの大地が夏の恵みをようやく手にできる季節だった。
先年、前任の国境警備隊長であったヨシュア・セス・ファイザルが南方の戦場に呼び戻されてからすでに一年。
それより先に、彼女の可愛がっている小姓のフェルディナンドが都の士官学校に行ってしまったから、レーニエにとってこの一年は大層辛く寂しいものになっていた。子どもたちと遊んでいても、リアム号で駆けていても、まつわりつく哀しみを振り払う事ができない。だが、領主は気丈にそれに耐えた。
自分も戦うのだと、あの人にそう告げたのだから。
そんな日々の中に、僅かでもレーニエを慰めるような出来事がいくつかあった。
一つは去年、彼女が思いついて栽培を始めたリルアの花を使った入浴剤を持ち帰った商人のドルトンが、これはよいものになると、レーニエにもう少し大がかりな栽培を勧めたことである。リルアは香水や染料としてもいい素材だと、詳しい分析結果があった。
それを受け、この冬に村の娘たちを組織して荒野に花畑を作ろうとレーニエは計画した。そこでキダム達、ノヴァの主だった
話を聞いたキダム村長は最初は驚いていたが、ドルトンより送られた王立科学院の試験結果や報告書を見てはううむと唸るしかなかった。
報告書に寄るとリルアは、この地の冷涼で乾いた気候と地質を好む植物で、他の場所では花がつきにくいとか、咲いても小さくて色みのないものになってしまう等、如何にこのノヴァゼムーリャの地がリルアの生育に適しているかが詳しく述べられていた。
「まさかこんなどこにでもあるような花が役に立つなんて。あまりに身近にありすぎて分からなかったのですかな?
子どもたちがこの花を使って爪を染めたり、匂いがいいので、女どもが乾燥させた花を袋に入れて衣装箪笥に入れたりしているのは知っていましたが」
「そうだな、そうかもしれない。今までこの地の人々は、身を飾ると言う事をあまりしてこなかったから」
自分のことは棚に上げてレーニエは頷いた。
「なんにしても、村の収入源が増えるのは喜ばしいことでございます。レーニエ様のおかげでございます」
村長達とレーニエはそれから長いこと話をして、この冬は空いている荒野を使って大々的に栽培をすることを決めた。
栽培と言ってもリルアは多年草の野草で世話をする必要が殆どなく、ただ荒地の灌木や精の強い雑草を焼き払い、その灰を肥料がわりに種をまけばいいだけの話で、村人にそれほど負担をかけないと言うのも魅力であった。
もし僅かでも収入が出たら八割を村人たちで分配し、残りを領主館で使う事も決まった。
レーニエは自分に収入は不要だと固辞したが、キダムやアダンが是非にと勧めた。そしてセバストも領主が収入を得、それを気前よく使えば、結局村人に還元される事になると妥協案を示したので レーニエもやっと同意したのだった。
そして冬の終わりに試験的に作った様々な品々を、ドルトンの使者を通じて都に持っていき、春から夏に向けて彼の伝手を使って王都の市場や、貴族ご用達の商人たちに販売を依頼したところ、都のご婦人たちを中心に評判がよく、もっと大々的に商品化してみては? と言う、嬉しい評価を得られたのだった。
そして、いま一つの喜ばしいことは、厳しい冬が終り鮮やかに春を迎えた頃、新指揮官のオーフェンガルドの妻が懐妊したことであった。
彼女はこの地に来た当初、セヴェレ砦の奥に部屋を貰ってそこで暮らしていた。
しかし、日頃は夫と二人の侍女の他に話し相手もいないし、女っ気を断って厳しい訓練や教練に勤しんでいる若い兵士達に遠慮もあって、砦内をそうそう出歩くことも憚られた為、都から来た彼女はすっかり|塞(ふさ)ぎこんでいたのだった。
彼女も夫と同じく、大した家柄の貴族ではなかったが、その分親しみやすい家風で育ったため、閉じこもって暮らすのは性に合わなかった。
そのことを夫に話すと、オーフェンガルドの方も女人禁制の基地に若い女が数人とはいえ、常に存在することはよくないと思っていたらしく、村の空き家を借りて改造し、そこに彼女達を住まわせることにした。
それがファイザルが去って一月ほどした頃のこと。厳しい冬を迎えようとする節だったのである。しかし、冬のノヴァゼムーリャは、初めてこの地で暮らす者には厳しい場所である。
いくら数日おきに良人が返ってくるとはいえ、いったん吹雪になれば、通いの下男がいるだけの女ばかりの家では心もとない。
オーフェンガルドがそのことで頭を悩ませていた時、レーニエの方から館には使っていない部屋がいくらでもあるから、春まで奥方をこちらで御預かりしようという申し出があったのだ。
「妻をご領主様のお屋敷に?」
着任して一月。砦の様子を伺いたいという名目でレーニエは新任の警備隊長を屋敷に呼び出し、様々な報告を受け、最後に彼の個人的な話を聞いた後に領主はその提案をした。
オーフェンガルドは前任の警備隊長であった友人のファイザルと恋仲だった(であろう)この不思議な少女を見つめた。彼の出立の際の別れの場面は、彼にとっても度肝を抜かれるほど印象的であったのだ。
「それは大変ありがたいですが……ご領主様にはご迷惑では……」
「レーニエで構わない。そう、この館は古いが造りがしっかりしていて、真冬でも安心して暮らせる。その上城壁が高いから、あまり雪が吹き込むこともないし。奥方様さえよければ、お気持ちが落ち着かれるまで、ここで暮らしたらよろしかろう」
領主は侍女を通じて奥方の悩みを聞いたのだという。
「願ってもないお申し出ではございます……しかし、本当によろしいのでしょうか? ご、レーニエ様」
「うん。見ての通り、二階は左の棟を私が使っているだけで、右の棟は空き部屋が並んでいるんだ。少し手を加えれば、奥方も侍女の方々も十分暮らせると思う。食事なども運ばせるし。だから、どうかな?」
「ありがたくお受けいたします。お心遣い痛み入ります。ナディアも大喜びでございましょう。あれはご領主様にお会いして以来、レーニエ様の事ばかり話題にしております故」
透きとおった赤い瞳にまっすぐ見つめられて、オーフェンガルドは我知らず、どきどきしながら礼の言葉を述べた。
「どぉして?」
レーニエは彼女の癖である、小首を傾げる仕草でオーフェンガルドを見上げた。
「いや、その……何と申しましょうか、レーニエ様があまりにおきれいで、面白いお方なのでもっと親しくなりたいなどと申しておりまして……」
「私が面白い?」
意外な事を言われたようにレーニエは紅玉の目を見張る。オーフェンガルドはますます口ごもった。
うわ……そんな目でこれ以上俺を見つめないでくれ。なんだか妙にケツの据わりが悪くなる。何なんだこの人。俺は新婚なんだ。くわばらくわばら……そうか、ファイザルの奴め、これにヤられたんだな。畜生、このお姫様、いったい何者なんだ?
「どこが?」
「しっ、失礼な事を申し上げました! 申し訳ありませぬ」
早くこの会見を切り上げなければ。
オーフェンガルドは何か口実はないかと必死で頭の中を探すが、気の利いたセリフは一向に浮かんでこなかった。
「ん? 何で謝る? 私は自分の事を、面白いなどと言われたのが初めてだったから。そして、一遍そんな風に言われてみたいものだと思っていたもので理由が知りたいと思って」
オーフェンガルドの動揺などまったく気にも留めず、レーニエはお気楽に答えた。
「は、はぁ」
秋口だと言うのに、オーフェンガルドの脇の下がじっとりと湿る。
「いや、ええと、ですから」
「うん、まぁそれはともかく。わが方の支度は整えておく故、奥方のご準備が整い次第、こちらへ引っ越しされるがいい。あまり寒気がひどくならないうちにね」
「は……ははっ! 奥にはそのように申し伝えまする」
オーフェンガルドは立ちあがると、深々と騎士の礼を取った。生真面目にレーニエはそれを受け、ほうほうの体でオーフェンガルドは会見を切り上げた。
そしてそれから五月後の春。
領主館で無事冬を越し、陽気も暖かくなったのでそろそろ住まいを村に移そうかとオーフェンガルドが思っていた矢先のナディアの懐妊。彼女にとっても初めての経験だから不安に思っていた時、またしてもレーニエがいっそ出産までここに留まれば? と言い出したのだ。
ここなら経験豊富なオリイもいるし、自分も常に注意を払っていられる。レーニエはそう言って、再び汗を流して恐縮するオーフェンガルドをやんわり説得した。
「いいんだ。私はヒマだし、ナディア殿が好きだから。そして、お腹の赤ちゃんにも、その……興味があるし。あ、興味なんて言ってごめんなさい。だからその……あなたたちが嫌でなければ、是非私と一緒に暮らしてほしい」
可愛らしく照れながらも熱心に勧める領主に、指揮官夫妻はあっけなく陥落し、領主館に居候を続けることとなったのであった。
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