第25話24.領主の役割 11

「フェルは元気にしているだろうか……?」

 すっかり晴れ渡った荒野を馬で駆けながら、レーニエは横を行くファイザルに尋ねた。雪はまだうず高く道の両側に残っていたが、それでも昨日よりかよほど嵩を減らしている。

「先ず間違いなく」

 前方から視線を離さずにファイザルは答えた。

「そうそう、奴はしっかりしてますよ。俺たちが雪の中から掘り出した時も、寒さで歯の根は合っていませんでしたが、決して怯えちゃあいませんでしたからね! 大丈夫」

「そう……」

 ジャヌーも請け合うので、レーニエは馬車を御すサリアを振り向いた。サリアも大きく頷き返す。

「そうですわ、レーニエ様。あの子なら大丈夫です。きっとレーニエ様を見て飛び出してくるに違いありませんから、どうぞこっぴどく叱ってやってくださいまし」

「あ……ああ」

 なんで叱らなければいけないのかよくわからなかったが、とりあえずレーニエも頷いた。森を掠めて砦の基地はもうそこだ。セヴェレの流れが聞こえてきた。

「あの吹雪の後、どんどん風が柔らかくなってきましたね。春が来るんだわ」

 歌うようにサリアが呟く。

「しかし……雪解けが急で川の水嵩が増しているのではないか? このあたりの治水は?」

「セヴェレの流れは深いですから大丈夫でしょうが、リーム川の方は十年ほど前に大氾濫があったと記録に」

「今回はどうなのだ?」

「水嵩には常に注意を払っていますし、念のために堤防の低い所に土のうを積んでおくように指示は出しています。川岸の一方は周囲は畑ですので、万が一氾濫したら土壌が流されるでしょうから」

「堤防が決壊した時、近くに住む者たちへの伝達手段や避難経路は?」

「抜かりなく整えてあります」

「そうか」

「レーニエ様も、すっかりご領主様らしくなられましたわね」

 ファイザルとのやり取りを聞きながら嬉しそうにサリアは言った。優しい姉の顔つきである。

「……そお?」

「ええ、私なんて単に春が来るから嬉しくなってるだけのに、そんな難しい事までお考えになって……だったら、やっぱりちょっぴりでも税金いただいた方がいいんじゃないでしょうか?」

「そんなことはない。皆は都に作物や材木、そして労働という高価な税を既に国に収めている。新たに税金など徴収しなくとも、私がひっそり暮らすのに不自由はない」

「天領の治水は国の事業ですからね」

 冗談を真に受けて、生真面目に返答するレーニエに倣ってサリアも頷いた。道はぬかるんでいるが馬はあまり気にする風もない。右手に森を見ながら行程はどんどんはかどった。

「さぁ、お二方。着きましたよ」

 砦の城壁が眼前に迫ってきていた。


「レーニエ様! 姉さん!」

 城壁の門を抜けるとすぐ、待ち切れない様子でフェルディナンドが駆け寄ってくる。

 皆が受けあったとおり元気そうで、後ろにはヒューイや、二人の父親達も皆並んで立っていた。

「フェル! 心配したのよ?」

 いち早く馬車を飛び降りたサリアだったが、弟を抱きしめようと伸ばした手をぐっとこらえた。フェルが唇を引き結んで、レーニエを見上げていたからだ。

「主様、申し訳ございませんでした……」

 フェルは膝が融けかけた雪で汚れるのも構わず、レーニエの前に膝をついた。

「私の判断の誤りで、ヒューイや大勢の人たちを危険に巻き込んでしまって……レーニエ様にもご心配をお掛けして……どのようなお叱りでも受ける所存でございます」

「フェル……フェルディナンド」

「どうぞいかようにも罰してください」

「フェル……もういい……いいの。こうして無事だったのだから……」

「そうよ……あんただって好きで迷子になった訳じゃあないんだし……」

 サリアはさっき言った事と逆のことを、何の疑念も持たずに口にした。弟の無事な姿を前に泣きそうになっている。彼女もオリイも、それはそれは心配していたのだ。

「フェル……よく顔を見せて」

 レーニエはぬかるみでマントが汚れるもの構わず、腰を屈めてフェルディナンドを立たせた。その時、レーニエはフェルディナンドが自分の背丈とほとんど並んでいることに気がついた。

「無事でよかった……私のフェル」

 つややかな黒髪を引きよせる。

 少年も主の背中におずおずと腕をまわした。レーニエはもう少しで失うところだった、幼い頃からの友人をしっかり抱きしめてその冷たい頬を撫でた。

 周りの人々から歓声と拍手が静かにわき起こった。


 帰路は取り立てて何もなかった。砦で昼食を取り、村に引き返す頃には午後も盛りで、朝から吹き続けている柔らかい風のせいで雪はどんどん水っぽさを増している。ぬかるんだ別れ道で別れを告げ、アダンとヒューイはそのまま馬車を借りて村まで帰っていった。

「じゃあな」

「ああ、またな」

 まるで一人前の男のような挨拶をして、二人の少年たちはいったん別れた。この五日間、砦の兵士達と生活を共にして、彼等はなんだか大人びたように見えた。

「フェル、あんた、なんだか背が伸びたんじゃない?」

 サリアは荷馬車の御者台の隣に座る弟を見てしみじみ言った。父親のセバストは荷台の方に腰かけている。

「なんだよ、たった五日しか経ってないのに、そうそう背が伸びてくれたら苦労はしないよ」

「そうかなぁ……そうだよね。だけどなんだか……雰囲気が違うような……」

「砦では何をしていたの?」

 轡を横につけてレーニエも尋ねた。

「はい。剣の稽古をつけてもらったり、戦術の講義に参加したり……あとは雑用などをしていました」

「私は昔、軍にいたことがありますが、フェルにとってはまったく新しい環境でしたから。私も好きにさせておりました」

 セバストも感慨深げに呟く。サリアと違い、フェルは幼い時から王宮で暮らしていたのであまり外の世界を知らないのだった。

「お父さんは何をしてたの?」

「私は、アダンさんや他の将校さん達と将棋をさしたり、本を読んだり。つまらないことばかりしていたな。何しろ外は大吹雪だし」

「なぁんだ」

「なぁんだとは言い草だな、サリア」

「砦の様子はどうだった?」

 レーニエも尋ねる。

「さすがはファイザル指揮官様が統べる部隊だと思いました。あれだけの人数を擁しながら、指揮官が留守でも若い兵士にまで統率と規律が行き届いている。ふつうはもう少し弛みが出るものですが」

「……そうなのか?」

「あの駐屯地は新兵の教育と訓練をも担っているのですが、厳しい環境で鍛え上げられ、一年を過ぎたころには皆立派に兵士の顔になっているそうです。そうして他の部隊に配属されるようで……」

 そうやって、皆別れて行くのだろうか? 

 レーニエは心に重いものを感じた。


「父さん、俺、都の軍の学校にはいっちゃダメかな?」

 その夜、仕事を終えたフェルディナンドは、私室で一人書見をしていたセバストに向かって言った。父はゆっくりと顔を上げて息子を見た。

「そう来ると思ったよ。お前の顔を見ててな。今頃はヒューイも同じことをアダンさんに言っているのだろう?」

「うん……二人で話したんだ。ダメかな? 俺……ちゃんとした男になりたい」

「軍に入らなければちゃんとした男になれないのかい?」

「そう言う訳じゃないけど……」

「レーニエ様のことはどうする?」

「それは……俺にとってはレーニエ様はすごく大事なご主人で……だけどこのままじゃぁ、非力すぎてお守りすることもできないし……軍人になりたいと言う訳ではないけれど俺、もっと強く、賢くなりたいんだ」

 青灰色の瞳は真剣な色を浮かべている。セバストは、これはきちんと聞かなければならないと感じた。

「今までだって、父さんがいろんな事を教えていただろう? 学問も剣術の基礎も」

「うん、それはそうだけど……もっと他にいろいろ勉強することがあると思って……」

「ふうん」

 セバストも実のところはよくわかっていた。

 フェルディナンドとさほど年も違わない少年兵士達が、剣術や体術、そして希望や適性に応じて様々な分野で学んでいる姿をみて、フェルが何かを感じていたことを。

 軍は地方出の平民の若者達の重要な教育機関でもあるのだ。

「父さんはお前がある程度の年齢になったら、レーニエ様にお願いして、都の学校にやろうとは思っていたんだが……」

「……そこはある程度の身分の奴らが推薦されて通うところなんだろ? 甘やかされた貴族のお坊ちゃん達と気が合うとは思えないなぁ」

「……そうだな」

 負けん気が強い息子の心情はよく分かる。

 この子は賢くて、誇りが高い。いくらレーニエの推薦があったとしても、実力がないのに身分を嵩にきて人を見下す、貴族の子弟達の中でうまくやっていけるとは思えなかった。

 それならばいっそ、実力や適性でどんどんふるい分けられ、場合によっては科学院へも進むことができる、軍の教育施設に入ることの方がフェルディナンドにはむしろ向いているかもしれなかった。

「そうか、お前ももう子供じゃないんだし……わかった、私からレーニエ様に話してみよう。しかし、そうなると数年間は都に行かなくてはならないぞ。レーニエ様をおいて」

「わかってる。俺、努力をして出来るだけ短い期間で卒業してみせる」

 父親の許しをもらっても、フェルディナンドは浮かれるでもなく淡々と答えた。

「ふ……いい根性だ」


「んん……」

 レーニエはリルアの花を浮かべ、薄紅色に染まった湯の中で手足を伸ばした。

 浴室は階下の厨房の大きな炉とつながっているため、水を張ればすぐに湯が沸く。寒い地方の知恵のようでレーニエは大変気に入っていた。さほど広くもない室内には、リルアの花の香りと湯気が満ち、寒さなどみじんも感じない。

 サリアはレーニエの髪を洗い終え、寝室の様子を見に行ったようで、レーニエはのんびりと一人湯に浸かっていた。

 少しは肉がついたかな

 自分の白く、華奢な体が好きでない彼女は、腕を曲げても出ない力瘤を出そうとしながら、昼見た兵士たちの様子を思い浮かべた。

 みんなよく食べて、よく動き、まだ冬の終わりだというのに既に半袖で走り回っている者もいた。そう言えばフェルも最近どんどん大きくなってきて、背などもう少しで追いつかれそうになっているのだ。

 私もたくさん食べて、もっと大きくならないと……

 根本的に性差があることをすっかり忘れたように、レーニエは自分の体を撫でた。大体において、レーニエは見かけの大きなものや豊かなものが好きなのだ。

 胸が少し膨らんできたように思う。これは自分が女なのだからしようがないとしても、もう少し肉付きのいい体になりたいと思った。

 幼い頃、塔の中に閉じ込められ、日光を浴びることが少なく、栄養も行き届いていなかった痛手がまだ癒えていないのかも知れない。

 両手で乳房を覆って見る。片方の手のひらで包み込めるそれは、とても豊かとはいいがたい。脇腹だってまだ骨が浮いている。

 しかし、これでも都で暗澹あんたんと暮らしていたころよりは、マシになったのだ。空気が良いのと、馬に乗ったり、村を歩いたりして運動をしているせいで、前よりたくさん食べるようになったからだとレーニエは思った。

 あの人はいろんな事を知ってるのだろうな。私と違って色々な場所や物を見て、経験を積んで。

 だって大人なのだもの。きっとたくさん女の人も見てきたに違いない。私のことは、手のかかるだけの、つまらない貴族と思ってるんだろう……。

「あ……」

 不意にあの吹雪の夜の口づけを思い出し、湯に浸かっているはずのに体が震えた。

 自らの唇を押さえ、体を抱きしめても、痛みとも疼きとも解らないものが下から這い上って来る。

 レーニエは身を竦め、正体のわからない疼痛とうつうに耐えた。

 長く湯に浸りすぎたからだ。そう思ったレーニエは勢いよく立ちあがる。傍らの布で体を拭おうとして、彼女は妙なことに気がついた。

「なに……?」

 足の間を湯ではない、何かがつたい流れている。

 下を見ると、リルアの花で染まった湯の上に、さらに赤いものがくるくると渦を巻いていることに気がついた。

 そしてその赤いものは自分の足の間から流れている。

「……!」

 レーニエは思わず指を伸ばして、自分のその部分を触ってみた。

 明らかに湯と違うぬるりとした感触があり、指を引き出して見ると、それは真っ赤に染まっていた。

 バシャンと湯が鳴り、飛沫が浴室に飛び散る。

「どうなさいました!」

 物音を聞きつけてサリアが飛び込んでくる。レーニエは布にしがみつくように浴槽にへたり込んで縮こまっていた。

「サリア、サリア……何か変だ……私はどうしたんだろう……」

 真っ青になった主のただならぬ様子に動転しながらも、サリアはレーニエの握っている布に血が付いているのを見た。そして、湯に流れた痕跡も。

「レーニエ様、お気を確かに……これは病気でも何でもありませんのよ。レーニエ様の体が成長されているしるしなのですわ」

 ノヴァゼムーリャ領主、レーニエ・アミ・ドゥー・ワルシュタールは、その日、遅い初潮を迎えたのであった。


 七日の後。

 ほぼ雪が消えた荒野を見下ろす丘の上に、レーニエとファイザルは立っていた。

 ようやく萌えだした足もとの新芽を二頭の馬たちは大人しく食んでいる。

「春ですね」

「ああ……春だ」

「これからレーニエ様は何をなさるおつもりですか?」

 ファイザルは今すぐのことを言っているのではない、レーニエにはそれがよくわかった。

「……まだよくわからない。だけど、村の子ども達にお願いしてリルアの花の種を集めてもらっている」

「ほう……それは?」

 いったいこの姫君は何を始めようとしているのか、口元に微笑をたたええながらファイザルは聞いてみた。

「あの花はこの地にしか咲かない。なのに、この地では荒れ地でもよく育つ普通の雑草だ。だから今で誰も顧みなかったが、香りもよいし、おそらく薬効成分があると思う。少し栽培してみていろいろ試してみようと思って」

「ああ……風呂に……」

「うん。香りがいいし、体を温める。保湿作用もある。もしかしたら染料としても使えるかもしれないし……」

「あなたは……商いを始めようと言うのですか?」

 彼は非常に驚いた。こんな娘がそこまで考えるとは思いもよらなかったからだ。

「いや、そこまではさすがに。でも何か付加価値が見つかれば、もしかして……」

「この地方の特産品に?」

 レーニエは何か自分が途方もなく変なことを口走ったような気がして口ごもったが、ファイザルは容赦なく切り込む。

「さぁ、そこまでの商品価値があるとよいが」

「それなら春の市にやってくる商人に聞いてみたらどうでしょうか?」

「そうだな、そうしよう。乾燥させた花だけでなく、生花からうまく抽出すれば、もしかするとよい香水ができるかもしれない。これも専門家に聞かないとわからないが……」

「この地によい産業が出来るかもしれませんね」

 珍しいものを見る目で、ファイザルは傍らの一見世間知らずの貴族の娘を見た。自分の思いつきが余ほど奇妙に思われたのだろうかと、引っ込みじあんな領主は恥ずかしそうに俯いてしまった。

「……全然思いつきなのだけれど、試してみるのもいいかもしれないと思って。私が勝手にやる分には誰にも迷惑はかからない」

「あなたは……まったく風変りな方ですね」

 伸びた前髪をかきあげながらファイザルは微笑んだ。

「ひどいな……」

「俺は好きですが」

 好き。

 そんな言葉が自分の口から自然に漏れたことに、ファイザルはいささか怯んだが、もう遅く、レーニエは、はっと顔をあげて自分を見ていた。

「好き……?」

 小首が傾く。これは彼女の癖だと言う事をファイザルは既に知っている。彼は仕方なさそうに相好を崩した。

「はい。そのおきれいな顔の下で、思いもよらぬことを考えておいでになる、あなたのことがとても好きですよ」

「私を?」

「ええ」

 ファイザルは、微かな風に髪を遊ばせているレーニエを見た。

 透きとおった赤い瞳に、数日前には見られなかった柔らかな光がある。


 薄青い空を背景に立つノヴァゼムーリャの領主は、そこに希望を見出そうとするかのように、ひたむきにファイザルを見つめていた。

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