第16話15.領主の役割 2

 その年の冬は雪の深さも、吹雪の日数も、今のところ平年並みに過ぎゆこうとしていた。

 吹雪は一度だけ、三日間ほど何もかも埋め尽くすかと思われるほど荒れ狂った。その間中レーニエは領主館に閉じ込められ、ハラハラしながら白一色の世界を眺めて暮らしたが、吹雪が止んで村の様子を見にゆくと、人々は疲れたような顔をしながらも当然のように、屋根の雪を下ろし、道をかきだし、日常のたつきを営んでいた。街道や、公共の場所の雪かきは軍の兵士が行うのだが、それでも重労働なのは間違いない。しかし、彼等はもくもくと働いていた。

 領主館の雪かきは、ファイザルが寄こした兵士たちが抜かりなくやってくれている。レーニエは暫く物珍しげに見守っていたが、自分が役立たずだと言う事をよく知っていたので彼らの邪魔はぜず、大人しく部屋の露台から彼らの仕事を眺めていた。遠くの民家でも人々が懸命に働いているのが見て取れる。

 そう。王宮での閉じ込められた暗い退屈な冬と違い、北のノヴァの地ではこんな時でも春に向けて、家の中でも外でもすることが山のようにあるのだ。

 先ずは畜産。大概の家畜は冬の終わりに仔を生むので、財産でもある貴重な家畜の世話に追われる。時には牛や馬の出産に夜通し付き添わねばならないこともある。

 天気の良い日は氷切り。厚い立方体に切られた湖に張った氷は森の中の洞窟に作られた氷室に運ばれ、おが屑にくるんで保存し、夏まで保たせる。

 他にも獣脂ローソクを作ったり、農機具を手入れしたり、布を織って服を作ったりするのも冬の仕事で、天気の良い悪いにかかわらず、一家総出で働いている家が多かった。

 領主館では、村の若い娘を何人か新しく下働きに雇い、オリイやサリアが館での仕事と共に、婦人の立ち居振る舞いなども教え、村娘にとっては良い働き口となっている。また、力仕事などはファイザルの計らいで、警備に当たる軍の兵士が手伝ってくれるからセバストも大いに助かっていた。

 そんなこんなで領主館は若い男女が立ち働く場所となり、主の知らないところで意外に華やいでいるのだった。

 冬は峠を越えようとしている。

 積もった雪の嵩は減ったが、その分重くなった。後一月もすれば溶けだすだろう。日差しは輝きを少しだけ増し、春の訪れが近いことを示していた。

 しかし、まだまだこの地は「冬」なのだ。


「お久しぶりです。レーニエ様、ただ今戻りました」

 案内されて入ってきた男は、軍用の黒い外套を着ているせいで、いつもよりさらに大きく見えた。

 光は強くなり、日はほんの少し長くなったが、外はよほど寒いと見え、布が凍りかけてごわごわしている。軍人らしい直線的な深礼をゆっくり戻し、ファイザルは静かな眼をレーニエに据えた。

「……」

 どういう訳か、レーニエは一瞬、回れ右をして隣の寝室に駆け込みたい衝動に駆られた。

 これは一体どういう事だろうか? 彼が帰ってきたら、いろんな話をしたいと思っていた筈だったのに。

 不思議な動揺を持て余している自分がいる。

「レーニエ様?」

 ファイザルは怪訝な顔をしながら、大股で近づいてきた。

「あ……」

 おかしい。どうしてこんなに心臓が飛び跳ねているのだろう。会えるのを楽しみにしていたはずなのに。

「え、えっと、ファイザル指揮官。お勤めご苦労だった無事で何よりだ……向こうで何か変わったことはあったか」

 なんとか威厳を取り繕い、身振りでコートを暖炉のそばの椅子にかけるように示したが、やはりなんとなく気恥ずかしくて、レーニエは視線を逸らした。この男と会うのは、ほぼ一か月ぶりだった。

「いえいえ、いたって平穏で。確かにひどく寒くはありましたが、職務的には大変穏やかでした。鉛色の海を毎日眺めていましたよ」

 軍の厩舎でもぼちぼち出産する馬が出始めたり、村々の雪かきに駆り出されたりするので、冬でも軍の仕事は結構ある。しかし、ファイザルは兵士百人と約二十日間、基地から更に北の砦に出向していたのだった。

 この任務は、若い兵士たちにはあまり嬉しくない物だったが、この地の国軍最高責任者であるファイザル自ら最前線に出向くことにより、北の国境を預かる兵士たちの責任感と士気を高める効果があった。

 冬の一番厳しい時に、任務に就くことを彼は選んだ。

「少し……痩せたのではないか」

「そうでしょうか? レーニエ様は少し大きくなられましたか?」

 彼は青い瞳に優しい光をたたえてレーニエを見た。微笑むと眼尻に少し、しわができる。それが精悍な顔立ちを和らげる役目を果たしていた。

「そ、そうかな?」

 ファイザルにそう言われ、自分の様子を確かめる様は年よりも幼く見えた。白銀の髪がさらさらと流れ、その秀でた容姿と共に、久しく女性を見なかった彼を楽しませる。

 着ているものはいつもの黒装束だが、確かに以前より頬の線が柔らかくなった印象を受けた。

 そして、例の仮面は今は外されていた。未だ、人が多く集まる場所ではなかなか仮面を外す事が出来ないレーニエだったが、館の中や遠乗りでは素顔でいられる時間も増えてきている。

 ファイザルはジャヌーからそう報告を受けていた。

「ええ。レーニエ様には、今でも毎日遠乗りに?」

「天気の良い日は」

「この地は寒さはお身体に障りませんか?」

「大丈夫のようだ。寒い方が性に合うらしい。ジャヌーには世話になった」

「彼はまだレーニエ様のことに気付かないのですね……困ったな」

 ジャヌーはもうほとんど、フェルディナンドと同じくらい近くでレーニエに仕えている。職務に忠実で、模擬戦闘では明敏な彼だが、盲目的に思い込んでいる事に対しては、どうも鈍ぶ過ぎるようだった。

 その時扉が開いてお茶が運ばれてきた。

 既に屋敷にも使用人がいるのに、この役目は絶対に譲れないとばかりに、フェルディナンドが給仕をする。暖かい室内に茶の良い香りが漂った。

 茶うけにオリイご自慢の焼き菓子が添えられている

「気づかぬ振りの腹芸ができるような奴ではないし……どう思われます?」

「さ、時々妙な顔をして私を見ているから、もしかしたら気が付いているのかも」

 思いがけない質問に、レーニエはちょっと目を丸くし、首を傾げて考え込む。赤い唇がほんの少し丸くつぼめられた。

 おいおいおい、これはまた、たまらんな。美しい事も美しいが、こんなに無防備に可愛らしい仕草をされる方だったのか……ジャヌーも気の毒に、さぞ複雑な思いでお仕えしていることだろうよ。

 フェルディナンドが慇懃いんぎんに一礼をし、盆を持って下がってゆく。出ていく時にちらりとファイザルに冷たい一瞥いちべつをくれるのを忘れない。二人はしばらく黙ってお茶を飲んだ。

 一か月近くも砦を空けていたため、戻っても様々な雑務や、巡察でなかなか領主館を訪問する暇がなかった。やっと時間を作って、帰還の報告にこの館を訪れたのは戻ってから三日目の事である。追従の者は不要だと、駐屯地から馬を飛ばしてきたのはファイザルだけだった。出迎えたセバストとサリアの挨拶もそこそこに、外套を預けることも失念してレーニエの待つ部屋へ急いだ自分に、ファイザルは笑いを禁じ得ない。

 彼が受け取った多くの報告の中には、勿論この一か月の領内の様子もあり、彼は特にこの領主村の出来事を興味を持って目を通していたのだ。

 それによると、領主は足繁く村々に通い、なんとか住人と打ち解けようと、いろいろ涙ぐましい努力をしているようなのだった。とはいえ、本人は相変わらず控え目で、大人っぽく見えるよう、慎重に言葉を選んで喋っているようなのだが。

 そのようなレーニエの物腰も、このような辺境の住人には珍しいのか、それとも重々しい態度の裏には、意外に照れ屋な面があることを人々が見抜いたのか、報告書の中のご領主様は、なかなか人気者のようだった。

「何か?」

「え?」

「何を笑っておられる」

 レーニはまた少し首を傾けた。これが癖らしい。

「これは失礼を。レーニエ様の印象が、初めの頃とずいぶん変わられたと感じ入っておりました」

「私が?」

「ええ、柔らかくおなりに」

「……」

「お会いしたころは、少し堅苦しくて、自分で自分をどうしていいか、分からなかったご様子でしたが今は」

「今は?」

「今は……そうですね。この地の空気に溶け込んでいらっしゃるというか……馴染まれつつあるというか……申し訳ありません。私は口ベタでうまく申し上げられなくて……」

「……」

 紅玉の瞳をじっと見返してファイザルは言葉を探した。が、うまくいかなくて結局、花のような顔を見つめるだけになってしまった。彼の強い視線に耐えかねたのか、みるみる内に白磁の頬が淡く染まっていく。

 普段きりりとした真面目な表情をあまり崩さないレーニエが、最近になって見せる様々な様子が珍しく、ファイザルはついその動きを追ってしまうのだった。

「……何を二人して、見つめ合っておられるのです」

 そこへお湯のお代りを持って入って来たフェルの詰問に、二人はまったく同じ仕草で振り返った。

 まったくもう。

 なぜだか黙り込んでしまった二人に眉をしかめながら、フェルディナンドはてきぱきとお茶を取り換え、額に一筋流れ落ちていたレーニエの髪を、ファイザルに見せつけるように丁寧に整えてやった。レーニエはおとなしくされるがままになっている。

「……エヘン、それはそうと、もう少ししたら森での仕事が始まります」

 つんつんして出てゆく少年を苦笑して見送ったファイザルが、おもむろに違う話題を切り出した。

「ああ、ジャヌーもそう言っていた。そうか、森で材木の伐り出しが行われるのだな」

「ええ。春が近づくと木は樹液の流れが盛んになります。その直前、木の眠りが一番深い頃に伐り出すのです」

「大変そうだ」

 以前は事故で人が死ぬこともあったという。以前キダム村長から聞いた話を思い出し、レーニエは難しい顔をした。

「ええ、私たちはともかく、村人たちは大変忙しくなるでしょう。男たちは伐採に駆り出され、女たちはその世話をします。そして、伐採の時期が終わると、今度は樹液を集めて砂糖を作ります」

「木から砂糖が取れるのか!?」

 驚いてレーニは声を上げた。

「ええ、砂糖と言っても、粉末のものではなくて、蜂蜜のようなものですが。ご存じなかった?」

「知らない。どうやって作る?」

「ある種の広葉樹の幹に穴をあけ、筒状の道具を差し込んで、そこから伝って流れ出た樹液を下に置いたバケツに溜めるんです。そして集めた樹液をとことん煮ます」

「……」

「驚くでしょう? 私もこの地に来るまでは知りませんでした」

「見てみたい」

 レーニは好奇心を見せて行った。

「ええ、いつかご覧にいれましょうね。レーニエ様には、ここの長い冬をよく御辛抱されましたから」

「……そんなに負担でもなかった。それにまだ冬だ」

 優しい光を滲ませた青い瞳から逃れるように、レーニエは視線を泳がせた。

 どうもこの男といると調子が狂う。

 なるべくしっかりした様子を見せたくて、彼の前では普段より一層言葉の数を減らし、勿体ぶってふるまっているのに、深い青い目に見られると、自分のつまらない虚栄などガラス細工のように見透かされるような気がする。

 だから、見たくない。

 けれど、どうしてもこっそり目が追ってしまう。無造作にかき上げられた鉄色の髪、厳しい線で縁取られた顔、服の上からでもわかる逞しい筋肉の動きなど、自分にないものばかりを持っている、この大人の男を。

 ああ、やはり仮面をつけていればよかった……。

「そ、その伐採の話だが、何か私に手伝えることはないか」

 そんな思いを悟られぬように表情を整え、レーニエは尋ねてみた。これはジャヌーにその話を聞いた時から考えていたことであった。

「手伝う? レーニエ様が?」

「私では何もできないか? 斧は使った事はないが、教えてもらえれば……これでもレイピアは多少使えるのだ。」

「ふふふ……まぁ、無理でしょう。木を伐る仕事はとても危険で、経験がないと大の男でも危ないものです。大きな木は、大の男が三人手を伸ばしても足りないくらい太い。第一、あなたには斧を持ち上げることすらできないでしょう。お止しなさいね」

 それにその指にかすり傷一つでもできたら、あの小姓に殺されかねない。無論自分もそんなことには我慢できない。だがレーニエはがっかりして肩を落とした。

「……そうか。少しならできると思ったんだけど」

 ファイザルは身の程を知らない大真面目な申し出に、再び笑いをかみ殺した。

「ええ。ですが……そうだ。後方支援ならば可能かと」

「後方支援?」

「ええ、伐採の時期は女たちも忙しく働きます。男たちの食事を準備して運ぶとかですね。ですから、この館の厨房を使わせていただいて、皆の食事をまとめて作ってしまうとか……勿論大変な作業ですから、軍の料理人を何人か遣わせます」

「ああ、それなら無論協力できる。セバストとオリイに話をしておこう」

 普段は一部しか使われないが、この館の厨房は相当な広さがある。大鍋を使えば、大量の温かい食物を準備することもできる。

「だけど、私は? 厨房でも私は役立たずだ。オリイは炉のそばにすら近づけてくれない」

「ふむ」

 そりゃあ、そのような美しい髪や指を焦がすわけにはいきませんからね、というもっともな感想を呑み込み、ファイザルは考え込む。

 なにか、危険の伴わない、それでいて領主の威光を伴うような役割はないものか。

「それでは、レーニエ様には馬で食事を届ける荷車のお目付を。昼の休みにねぎらいの言葉をかけてやってくださいませ。皆、大いに発奮することでしょう」

「いいのか?」

 人形のような顔がぱぁっと輝く。

「お願い申し上げます」

 自分にも出来ることがあると知り、少し照れながらも嬉しそうな様子の領主に、ファイザルは心が暖かく満たされるのを感じていた。




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