第20話 エピローグ② 「流れる雲」


 生物部の敷地から校舎へと向かう途中で、朝の練習を始めようとする陸上部員たちの姿を見かけた。


 そのなかには、ポーフィック・モルフィアスの姿もあった。

 入念にストレッチを行う彼の姿をまじまじと見る。

 男の俺が言うのもなんだが、精悍そのもの、といった風貌だ。短く刈り込んだ銀髪に、絞り込まれた身体。もしも俺が女だったら、見てくれだけをとっても惚れずにはいられないだろう。


「生物部の活動か、朝から熱心だな」と、ポーフィック。


「まあな」と、俺は応じる。「でも、俺から見れば陸上部は全員練習魔だよ。今日はどれだけ走る気だ?」


「朝だから、軽く身体を温めるだけだよ。ただの一時間走だ」


「…………」


 ポーフィックたち陸上部員の一時間走。ほぼ確実に、十キロ近い距離を走りきることだろう。かれらはそれができるだけのトレーニングをこなしている。

 俺が思わず言葉を失ったときに、背後から涼やかな声が響く。


「あらまぁ。毎日まいにち飽きもせず、自分の身体をいじめるのに熱心なことね」


 その声を聞いたポーフィックの眉間に、困ったような皺が寄る。


「イミナか……」


 振り向いて、俺は声の主の姿を確かめる。


 イミナ『アルルカン』エックハルト。子猫のような笑みを浮かべる彼女は、まったく、冗談めいたような服装をしていた。

 他校の制服に改造を施すことで、まるでステージ衣装のように仕立てている。いくら平常時の服装指定がないからといって、これはやりすぎだ。だが、その華美な服装は、似合っていないと言えば嘘になる。ちなみに、二つ名の『アルルカン』は、ただの自称だ。


 そんな彼女は、小さなお手玉を上手にさばきながら器用に話しかける。


「ポーフィック。今日、授業が終わったら……なにか、よっ……甘い物……おっと……食べにいかない?」などと、寄り道の提案をしている。


「部活がある。終わってからでいいか」


 ポーフィックの返事は、無粋そのものだったが、イミナは笑ってうなずいた。


「それでいいわ。楽しみにしてるから」


 そして、空中に投げ上げた幾つかのお手玉を、一挙動ですべてつかみ取った。

 もしこの学校に『奇術部』というものがあったら、イミナはそこに収まっていたのかもしれない。もちろんそんな部活はないので、彼女は授業が終わると、いつも校内をぶらぶらとしている。


 真面目そのもののポーフィックと、変人と呼ばれるイミナ。まったく対照的な二人だが、なぜか気が合うようだ。

 そんな二人のことに、桐香は興味津々な様子だ。


「ね、ね! そういえばさ、ポーフィックとイミナって、なにがきっかけで付き合ってるの? 訊いたことなかったよね?」


 あまりにも直接的な質問に、ポーフィックは恥ずかしそうに、ぷい、と横を向く。大柄な男には、あまり似合わないしぐさだ。その一方で、イミナは面白そうにポーフィックの顔を見つめていた。


「ねぇ、なんで?」


 桐香はさらに訊く。すると、ポーフィックはそっぽを向いたまま、答えた。


「俺たちは、幼なじみ……だったから」


「はあ?」


「子供のころから……ずっと一緒に、遊んでいたんだ。それで、自然に」


「なーんだ、案外普通だったんだね。訊いて損した」


 ドラマを感じさせない返答に、桐香は失望したようだ。だが、イミナはなおもポーフィックの表情を面白そうに眺めている。

 そのとき、陸上部の誰かが、ぴーっ、と鋭い笛の音を鳴らす。集合の合図だ。


「それじゃあ、俺は行くからな」


 これ幸いとばかりに、ポーフィックはグラウンドへと駆けだした。そんなかれを見送るイミナに、俺は訊いてみた。


「二人とも、雰囲気はまるで違うのに、ずっと友達でいられたんだな」


「それはね、彼がやさしいからよ」と、イミナ。「ほら、私は子供のころから見ての通り『痛い子』だったから、友達なんてひとりもいなくってね――」


 そう言いながら、彼女は改造制服の、胸元のリボンをつまむ。


「でも、ポーフィックだけは、私のことをずっと気にかけてくれてたわ。女の子と遊ぶのなんて退屈だったでしょうに、それでも、ずっと傍にいてくれたの。……私が手品のたぐいが好きなのも、ポーフィックが私をなぐさめるために、やってみせてくれたから」


 傍らで聞いている桐香は、ふんふんと頷いている。


「へえ。で、ポーフィックの手品って、なんだったの?」


「ハンカチやコインを使うかんたんな手品よ。でも、彼ってば不器用だから、よく失敗してたわ」


「失敗してたって言う割りには、ずいぶん楽しそうに話すんだな」


 俺がそう言うと、イミナは、もちろんよ、笑顔で答えた。


「手品っていうのはね、成功するから面白いんじゃないの。演じる側が『見ている人を楽しませよう』って思っているからこそ面白くなるのよ。それに、失敗してうろたえるポーフィックの姿、私は大好きよ」


「好き、か。ストレートな言葉ね」と、桐香。


「こういう時だけよ。彼のいない所でならいくらでも言えるんだけどね」


 そう言って、イミナは照れ隠しの微笑みを浮かべた。普段の華やかな目鼻立ちに、花開くようなやさしい表情が宿る。あまり友達を作らないイミナの、とても魅力的な一面だ。


「それじゃ、私は教室に戻るね」


 イミナはそう告げると、軽くジャンプして花壇の縁石に飛び乗る。


「――あ、っと……」


 珍しくイミナが姿勢を崩す。転びそうになる彼女の手を、俺はとっさに掴んでしまった。


「大丈夫か?」


「ええ、ありがとう。……でもね、彼氏のいる女の手に、そんなに簡単に触るのはどうかと思うわ。ねえ、桐香さん」


 すこし悪戯っぽい表情を浮かべているイミナ。だが、その表情がふいに消える。


「……あれ、こんなふうに喋ったこと、前にもあったかしら」


 既視感。


 どこか別の場所で――ここではありえない、どこかで――言葉を、交わした。

 記憶には残っていない。ただ、空に放たれた言葉が消えていくときのあの感覚だけが、たしかに残っているのだ。


 だが、そんな感慨に浸り続けることはできなかった。


「……ちょっと! いつまで、イミナの手を握ってるのよ!」


 桐香の手が、俺の頬を思い切り捻った。まなじりを思い切りつり上げて、桐香は俺を睨みつけている。


「痛っ、痛ぇってば!」


「当たり前でしょ! かわいい子がフラッとしたら、間髪入れずに手を握るの? そういうとこだけは抜け目ないんだから!」


 そんな俺の姿を見て、イミナはくすくすと笑った。


「まあ、当然の帰結ね。それじゃあ、私は行くから」

 そう言って背を向けようとしたが、イミナはふいに俺に向き直ると、淡い笑みを浮かべて、言った。

「私の『とびっきり』は、ポーフィックだけど、あなたはどうかしら。……桐香さんを、だいじにね」


 そして、スカートの裾をふわりと翻して、イミナは去っていく。


(イミナ、俺はどこかで、君と言葉を交わしている――)


 見送る俺の頬を、桐香はずっとつねりつづけていた。


「……だから、痛いって。離せよ」

「やだ!」



+ + +



 そして、俺たちも教室に戻る。


 始業までは、まだすこし時間がある。

 室内では朝練のない生徒たちが、談笑したり、本を読んだりと、思い思いに時間を過ごしている。


「朝から賑やかね。ま、いつものことだけど」と、桐香。

 こういう光景が嫌いでないのか、さっきまでのむくれ顔から、うって変わって穏やかな顔をしている。


「……いつものこと、ね」


 なぜだろう。きょうは、なにもかもが新鮮に感じる。


(こういう教室なら、俺も好きになれるかな)


 ふいに浮かんだ言葉に、俺はちいさな違和感を覚える。


 ――じゃあ、どんな教室が嫌いだったんだ?


 下らない自問には、さあね、とだけ答えておけばいい。

 だが、心の奥底で、何か映像のかけらのようなものが、ほんの一瞬だけ現れてすぐ消える。

 それは、夕暮れの教室。誰もいない、まるで静止した時間のなかに取り込まれてしまったような光景。


(なんだろう……この景色は)


 目を何度も瞬かせる。いま見ているのは、たしかにいつもの賑わいを見せる朝。

 馴染んだはずのこの景色。そのなかで、無意味な思い込みに囚われるのは、もしかしたら疲れのせいなのかもしれない。


 俺は、鞄を机の上に置くと、そのまま席を立った。


「あれ、どこいくの?」と、桐香が訊く。


「ごめん、ちょっと用事」


 もちろん、用などはない。ただ、なぜか一人になりたくなってしまっただけだ。


「……もう、変なの」


 不思議そうな桐香の視線を感じながら、俺は教室を出た。



 ――屋上。


 朝のさわやかな風が、ゆっくりと過ぎていく。

 柵の手すりに体重を預けて、俺は空を見上げている。

 流れる雲、どこまでも広がる無窮の空。地べたに貼り付いて暮らしている俺たちのちっぽけな感傷を、どこかに持ち去ってくれそうな、そんな空だ。


 しばらくここでゆっくりしていけば、落ち着いた気分になることだろう。

 そう思いながら、眼下にひろがる街並みを眺めていると、「――海堂君、どうしたんだい?」と、声をかけてくる者がいた。


 声の主に向き直る。そこに立っていたのは、アトカース。見知った顔だ。かれの後ろには小柄な女生徒が付き従っている。ラズルーカだ。ふたりとも、この学校の文芸部に属している。


「いや、授業がはじまるまで少しのんびりしようと思ってね。そっちは?」


「僕は、部活で出す作品のアイデア出しをしているところだよ。教室でやってると気が散っちゃってね」

 そう答えるアトカースの横で、ラズルーカが頷いている。彼女の手には、小さな手帳がある。それはきっと、彼女のアイデア帳なのだろう。


 青空の下で、アトカースの藁色の髪がきらきらと輝いている。背が高く、端正に制服を着こなしたその姿は、こう言ってはなんだが、やさしい顔をした、のっぽのかかしのようだった。


 ラズルーカは、制服の上に素朴な外套を羽織っている。今日はさほど寒くはないのだが、彼女の好みなのだろう。小柄な身体に赤銅色の髪。雪原のように白い肌、赤い木の実のようなつぶらな瞳。率直に言って、とても可愛らしい。ラズルーカと一緒にいられるアトカースに、ちょっと嫉妬してしまいそうになるほどだ。


 俺の視線に気づいたのか、ラズルーカは、ぷい、と横を向いた。きまり悪くなって、俺も視線をアトカースに戻した。


「アイデア出しって、どんな作品を書くつもりなんだ?」


 俺がそう訊くと、アトカースはうれしそうに頷く。


「ぼくはもっぱら詩を書いているよ。公募があるから、そこに詩集として応募したいね」


「ふーん、詩、ねぇ。難しそうだな、テーマとかはあるのかい?」


 軽い気持ちで出した質問に、アトカースは妙に深刻そうな顔で考え込んでしまった。よくあることだが、すこし申し訳なくなる瞬間だ。


「テーマか……。僕は、『諦め』について考えることが多いな」


 まるで、自分に言い聞かせるかのように呟くアトカース。


「こう言っちゃなんだが、辛気くさいテーマだな。でも、なんだか気になるよ」


 そう俺が言うと、アトカースはうれしそうに笑った。


「僕はこう思うんだ。人間の精神は『無限』には耐えきれないし、それを求めていくと、きっと滅びてしまう。際限のないものをきちんと『諦める』そして受け入れることでしか、人間はそういうものとは戦えない。……そうだと、僕は思う」


「なるほどね、簡単に言えば『足るを知る』ってことになるのかな」


 俺の呟きに、アトカースはわらって頷いた。


「そういうことさ。……ま、僕についてはそんなところだね」


 話が一段落すると、かれはラズルーカのノートに目をやった。その視線に気づいてか、ラズルーカは困ったような顔をしている。


「で、ラズルーカはどんな作品を書いているんだ?」


 俺がそう訊くと、ラズルーカは、すん、と鼻を鳴らしてから、呟くように答えた。


「ひとことで説明できるくらいなら、わざわざ長い小説なんか書かない」


「……確かに、そうだな」


 つっけんどんな答えだったが、さすがにそれで話を打ち切るのは悪いと思ったのか、ラズルーカはもごもごと話し始める。


「……でも、私にとってのいちばんの興味は……『別れ』。いろいろなお話を考えてみたいと思っているけど、どうしても……これについてのお話になってしまう」


「別れ、か。よくあるテーマだとは思うけど、やっぱり後ろ向きだなあ……」


 俺の率直な感想に、ラズルーカはこくりと頷いた。


「そう思う。明るくて前向きなテーマも考えようとはするんだけど……でも、どんな人にとってもこれは不可避のテーマ。人は、人と別れ、世界と別れ、そして自分自身とも別れてしまうのだから」


「さよならだけが人生だ、ってやつか。あまり考えたくはないけれど、でもそのことについての態度を決めておかないと、すごく苦しみそうな気はするな。だいじな事だと思うよ」


「そう受け取ってもらえると、私も、嬉しい」


 いつも気むずかしそうなラズルーカ。だが、いま浮かべた微笑みは、とても可憐だった。


 そのとき、予鈴が鳴った。

 授業開始の五分前を告げる、鐘の音。


「それじゃ、僕たちはここで失礼するよ」と、アトカース。


「……また、話をしたいと思う。よかったら、また文芸部の部室に遊びに来て」と、ラズルーカ。


 俺は手を振って二人を見送った。

 そして、屋上でひとり、空と街並みを眺める。


 どういうわけだろう。今日はなにもかもが、新鮮でありながら、懐かしい。

 このことが、嬉しくもあり、どこかさびしくもある。

 穏やかな、だが得がたい平和な日々。この時間が、盤石のものであってほしい。


 だけど、ただ、心がざわめく――。


(……今日は、授業を受ける気分じゃないな……)


 俺は、このまま時間の流れに身を委ねていようと思った。

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