第2話 白磁人形の憂鬱1


 蝉の鳴き声が深緑の山々にこだましている。

 短い余生を精いっぱい楽しみたいのはわかるけれど、もうすこし他人の迷惑も考えてほしい。こんなに暑いと、真夏の陽射しも蝉の鳴き声もすべてが憎らしくなってくる。

「あちぃ」

 遠鳴ゆかはひたいの汗を拭うと、スポーツドリンクを一気にあおった。駅の売店で買ったばかりのスポーツドリンクは、もうぬるくなっている。

「こんなに遠いなんて聞いてないよ」

 ゆかはひとりため息をこぼすと、ふたたび山道を歩き始めた。

 テスト休みのある日、忙しい父の代わりに、父の親しい知人にお中元を届けるという仕事を任された。父の口振りでは近所まで届けるような話だったのに、まさか自宅から電車とバスを乗り継いで二時間もかかる場所だなんて予想外だ。

 しかも、バス停から、もうかれこれ十五分以上も坂道をのぼり続けている。

「これでお駄賃三千円じゃわりにあわないよ」

 体力には自信があるつもりだったけれど、この急斜面はかなりきつい。

「ここほんとに東京?」

 東京なんて渋谷や新宿など高層ビル群のイメージなのに、まさか大都会東京にもこんな山々があるなんて。だけど、こんなにいろいろな蝉の鳴き声を聞いたのは何年ぶりだろう。子供の頃に家族三人で旅行して以来だ。

 車が一台も通らない一本道をただひたすら歩いていると、

「あっ」

 ようやく道が開かれ、森の中にひとつの建物が見えてきた。

「わあっ」

 目の前にあらわれた光景に、思わず息をのんだ。

 なんてきれいな場所なんだろう。手入れの行き届いた英国風庭園が広がり、その奥にはゴシック様式の赤煉瓦の建物がある。アガサ・クリスティかコナン・ドイルの作品にでも出てきそうな英国式の古風な館が建っている。

「誰が住んでるんだろ」

 なんだか急に緊張してきてしまう。

 こんな山奥に大きな屋敷を建てるなんて大金持ちに違いない。政財界の著名人の別邸だろうか。ゆかの父は天下の警視庁刑事部捜査第一課の課長だから政財界の著名人とも知り合いだ。そんな相手に、いくら父でも世間知らずの十五歳の娘を使いに出すはずないんだけど。

「も、もうちょっとまともな格好にしてくれてよかったかな」

 ゆかは自分の格好を見た。Tシャツとスポーツパンツというラフな格好。

 お手伝い気分で出てきたのは失敗だったかも。

 どうしたものやら、と考え込んでいると、ふと木製の標識が目にとまった。

 そこには『私立斎図書館』と書かれてあった。

「図書館なの、ここ?」

 こんな山奥の図書館を誰が利用するんだろう。

 一番近いバス停から徒歩二十分以上かかる図書館なんて絶対利用したくない。まわりに民家があるわけでもないし、こんな場所に図書館を建てても役に立つんだろうか。

「でも、本格ミステリにでも出てきそう」

 人里離れた奇妙な館はミステリマニアの心をわかす。風変わりな洋館に集められた奇妙な客たち。その客が次々と殺害され、名探偵がさっそうとあらわれる。それを想像するだけで背中がぞくぞくしてしまう。

 ゆかは期待に胸をふくらませ、さっそく図書館の入口に向かった。

「えっと、誰に渡せばいいんだっけ」

 父からのメモ書きを見ると、〝斎マヤ〟と書かれてあった。

「……斎マヤ?」

 ずいぶんといまどきの名前だ。それとも、かたかなの名前だから大正生まれかも。

 だけど、どこかで聞いたことがある名前だ。代議士か作家か。よく思い出せない。

 扉を抜けて図書館のホールに立つ。外の暑さが嘘のように中はひんやりと涼しかった。ホールを見渡しても誰の姿もなく、ビクトリア朝時代の調度品が並んでいるだけだった。

「ごめんください。どなたかいませんか?」

 ホールで声をあげるものの、響くのはゆかの声ばかり。

 真夏の陽射しから建物の中に入ったため、あたりは薄暗い。誰もいない洋館は不気味な雰囲気に包まれている。だけど、本格ミステリマニアとしては、この謎めいた図書館にますます惹かれてしまう。密室殺人でも起きそうな雰囲気だ。

「勝手に入りますよ。いいですか?」

 こんなに誰もいないなら、本が盗まれてもわからない気がする。

「ほへえ」

 開架展示室に入った途端、目の前に本棚がずらりと並んでいた。

 ゆかの身長の二倍はありそうな本棚が五十棚以上あり、そこには本が整然と並べられていた。しかも、本にはちりやほこりはひとつもない。一般図書はほとんどなく、日本文学全集から洋書までおよそ一般人が読みたいと思う本なんて一冊もない。

『天体地球儀図絵』など触れたら破れそうな古書から、『万有引力論』など読むだけで頭が痛くなりそうな専門書まで所狭しと並んでいる。愛読書のポーやアガサクリスティの本もあったが、原書のまま保管されているので、本を開いてもさっぱり読めない。

「こんな本、誰も読まないと思うんだけど」

 本を手に取りながら、ぽつりとつぶやくと、

「図書館の目的は本を貸すことだけじゃないわ。希少本の保存も図書館の役目よ」

 突然、背後から声をかけられ、本を落としてしまった。

「わっわっ」

 あわてて本を拾いあげ、顔を上げると、ひとりの女の子が窓際の席に座っていた。

 なんてかわいい女の子なんだろう。

 透けるような白い肌と白い髪。真夏なのに幅広の赤と黒のドレスに包まれている。白磁人形に魂が吹き込まれたようだ。年齢はゆかとさほど変わらないだろうに、ずいぶんと大人びた印象を与える子だ。だけど、足が悪いのか電動車椅子に乗っている。

「口を閉じなさい。その間抜け顔、いつまで見せてるつもり?」

「ご、ごめんなさい」

 叱られてあわてて口を閉じる。

「あなた誰? 何の用?」

 端正な眉が不機嫌そうにゆがむが、ゆかは女の子の脇に積まれた大量の本が気になる。

「その本、全部あなたが読んでるの? おもしろい?」

「そんな質問は無意味よ」

「どうして? おもしろい本ならわたしも読みたい」

 ゆかが身を乗り出すと、女の子はため息をつき、

「あたしにとってこの本がおもしろいからといって、あなたにとってこの本がおもしろいとは限らないわ。あなたとあたしとは違う人間だもの」

 あからさまに拒絶されると、さすがにへこむ。

 親しくなろうと声をかけたつもりだったのに、ずいぶん取っつきにくい女の子のようだ。けれど、こんな謎めいた美少女と親しくなる機会はめったにない。仲良くなると決めたら簡単にはあきらめないのが遠鳴ゆかの信条だ。

「でも、もしかしたら同じ趣味かもしれないでしょ?」

「それはないわ」

「そこまできっぱり否定しなくても」

「だって、そのとおりだもの」

「でも、ほんとうにおもしろい本って誰が読んでもおもしろいかもしれないし。試してみないうちにあきらめるのはよくないと思うんだ」

 しつこく食い下がると、女の子は読みかけの本を差し出した。

「わかった。そこまで言うのなら読んで見たら?」

 差し出された本は『樹木崇拝の起源』というものだった。本を開いてみたものの、洋書のためになにが書いてあるのかさっぱりわからない。

 万年成績表が英語二の女子高生は、一行目から挫折した。

「こ、これはさすがにちょっとむずかしいかも……」

 女の子はため息をこぼした。ゆかは立つ瀬がなくなり、本で顔を隠していると、

「届け物があるなら、さっさと出しなさい」

「えっ? どうして届け物だってわかったの?」

 思わず目を瞬かせていると、女の子はゆかの背中を指さした。

「あなたの背中のリュック、長方形にゆがんでる」

 えっ、とゆかは背負っていたリュックをおろした。

「リュックの形がゆがんでいることで、なんで届け物があるってわかったの?」

「ゆがんでいるってことは、あきらかに無理して箱を詰めてる証拠。リュックが型くずれを起こすかもしれないから、ふつうは中の物は出して詰めるでしょ? なのに、箱のまま入れているということは、誰かに届けなければならない大切な物が入ってるってことじゃない」

「すごい。よくわかったね。名探偵みたい」

 最初に出会ったときにワトソンが軍医だと見抜いたホームズみたいだ。

「つまらないこと言ってないで、さっさと中味を出しなさい」

 感心してほめたのに、冷たくあしらわれた。

 ゆかは渋々お中元の箱を取り出してテーブルに置いた。

「斎マヤってひとを知ってる?」

「斎マヤはあたしよ」

「えっ? あなたいくつ?」

「十四よ。それがなに?」

 十四歳ということは、ゆかよりも年下だ。こんな大人びた口調の十四歳もめずらしいが、十四歳の女の子に父がお中元を渡すというのもおかしな話だ。

「他に斎マヤさんっていないの?」

「ここに斎マヤはひとりしかいないわ。あなたの名前は?」

「えっと、遠鳴ゆか」

 茶褐色の瞳が大きく見開かれる。

「もしかして、あなた、警視庁捜査一課の遠鳴十護警部の娘のゆか?」

「マヤちゃん、うちのお父さんのこと知ってるの?」

 ミステリ小説では警視庁捜査一課はよく登場するけれど、実際の警視庁捜査一課の課長の名前を知っているひとはめずらしい。それがよりにもよってこんな女の子が自分の父の名前と役職を知っているだなんて、よっぽどの事情があるに違いない。

「どうして? どうしてお父さんのこと知ってるの?」

「あなた遠鳴警部からなにも聞かされてないの?」

「聞くってなにを?」

「知らなければ話すことなんてないわ」

 冷たく言うと、女の子・マヤは本へと戻っていった。

「ねえ、どうしてなのか教えてよ」

 ゆかは食い下がるものの、マヤは答えようとしなかった。その手はわずかに震えていて動揺しているようだった。マヤを見ているうちに、ひとつのひらめきが頭を走った。

「そうか。わかった。マヤちゃんって、お父さんのあたらしい恋人の娘さんね」

「……はっ?」

「そっかそっか。ごめんね、気づかなくて。そうだよね。お母さんが死んでから五年も経つんだもんね。再婚の話があったって、おかしくないよね。わたしこれでも理解があるつもりなんだ。前々から兄弟がほしかったし、こんなかわいい妹なら大歓迎だよ」

「違うわよ! 遠鳴警部には昔事件を解決するのを手伝ってもらっただけ!」

 マヤが声を荒げる。ゆかはきょとんとした。

「昔事件を解決するのを手伝ってもらった?」

 しまった、という顔をして、マヤはあわててゆかから顔をそむけた。

「ねえ、事件を解決するのを手伝ってもらったって、どういうこと?」

「なんでもないわ。気にしないで」

「でも、お父さんに協力して事件を解決したんでしょ? どんな事件を解いたの?」

「別に。話すことのほどじゃないわ」

 急にマヤの態度がまたよそよそしくなり始めた。

「ねえ、せっかくこうして知り合いになれたんだし、どんな事件を解決したのか教えてよ」

「いやよ。用が済んだんなら、さっさと帰って。もう二度とここに来ないで」

「そんなあ」

 相当嫌われたみたいだ。そんなに気に障るようなことをしたつもりはないのに。けれど、父と昔事件を解決した女の子だなんて物語から出てきたみたいな子だ。

 せっかくそんな子と知り合う機会を得られたのに、簡単に帰るわけにはいかない。

「だったら、図書館のお客さんとしてここにいる分にはかまわないでしょ? マヤちゃんはひとりで本を読んでてかまわないから。ね?」

 マヤの目の前で笑顔を広げると、さすがに根負けしたらしく、

「勝手にすれば」

 と本へと目を向けた。

 どうしたらこの子に興味を持ってもらえるような話ができるだろうと考えていると、ふと最近学校で起きた事件が思い浮かんだ。この子ならなにか事件の解決を導く手がかりや発想を見つけてくれるかもしれない。そんな奇妙な確信があった。

「あのね、最近、学校である女の子の失踪事件起きたの。興味ない?」

「興味ないわ。どうせ誘拐か家出のどちらかでしょ?」

 マヤは大した問題でもないように言う。

「でもね、とっても奇妙な事件なのよ」

「奇妙?」

 マヤが本に目を落としたまま聞き返す。ゆかはうなずいた。

「わたしがその事件を知ったのは一週間前なの」

 そうして、ゆかは学校で起きた奇妙な事件について話をはじめた。

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