消えない過去

 ルクアから連絡があってからしばらくの間、フィアは考えを巡らせていた。本当にルクアは、自分たちを見つけることができるだろうか。頼りになるとするならラトゥールくらいだがラトゥールはあまり、頼れるタイプではない。


 もしもルクアにも誰にも見つけられずに、アドルフという男の言う通り、ハートの女王の城に連れて行かれてしまったら。おそらく自分たちの命はないだろう。


 そんなことを考えながら、鏡の1つに目をやる。アドルフの言葉によってか、ティアシオンの過去の記憶と思われる映像が、はてしなく流れている。フィアは一目見ただけで、この映像がティアシオンにとって嫌な過去であることは分かった。当の本人は、鏡を視界に入れないよう、うずくまって目を服の裾で覆ってしまっている。


 向こう側ではおそらくベンジャミンが走り回る音、アリスが怒鳴る声が響いている。向こうでもどうやら同じ状況になっているであろうことは、彼女にもなんとなく想像できた。


 その時扉が開き外の光が入ったかと思うと、すぐに扉が閉まり鍵のかかる音がした。そして、声が聞こえてきた。


「うわぁ、勝手にドア閉まったんだけど。ゲームとかでよくあるよね、勝手に閉まるドア」


 聞き覚えのある声に、フィアは安心する。


「ルクアさんっ!!」

「おー、フィア! 数時間ぶりだね。でもごめん、私も閉じ込められちゃった」


 助けに来たつもりだったんだけどねー、とルクアが笑いながら言う。すると、足元で猫が一声鳴いた。


「ごめんねー、猫。アンタも巻き添えだわ」


 ルクアが少し申し訳なさそうに言う。その時だった。鏡のうちの数枚に再び波紋が広がる。そして、そこにティアシオンの過去とは別の映像が映し出された。その映像を見て、フィアがルクアに言う。


「ルクアさん、これって……」


 ルクアは、自嘲気味に笑う。


「なるほど、この鏡は嫌な過去を流す鏡なんだね。前の本といい、どうして人の心をえぐってくる内容ばっかり出てくるかな」


 そう独り言のように言ってから、彼女は答えた。


「そう。……丁度、昨日フィアに話した話」


 映像には、一匹の猫と幼いころのルクアが映っている。薄暗い路地裏。そこに一人と一匹はいた。幼いルクアが、皿に入れた牛乳をそっと猫の前において去っていく。警戒したまなざしで、ルクアの後ろ姿を見送る猫。そして彼女が見えなくなったあと、猫はゆっくりと牛乳を口にした。そんな日が、何日も続く。


 ある日、風がとても強い日。路地裏に置いてある荷物の大半が倒れ、大量の雨風が猫を襲う。風で飛んでくる物体があるため、下手に動くことができず猫は身動きできずにいた。そこへ、ルクアがやってくる。今日は、牛乳の入った皿ではなく、丁度猫が収まれそうな大きそうな籠を両手で抱えている。ルクアは、強い目で猫を見つめると言う。


「台風が止んだら、また野良猫として外へ出て、戻ってこなくてもいいから。だから、とりあえず今日は家に来て。このままだと、あなたの命が危ない。お願いだから分かって。……あなたが籠の中に避難してくれるまで、私もここを動かないから」


 ルクアと猫は長い間互いをにらみ合ったまま動かなかった。しかし猫が先に目をそむけ、ゆっくりと一歩一歩、籠の方へ歩を進める。そして、籠の中にすっぽり収まった。


 ルクアはそれを見届けてから、籠を持ち上げて家へと籠ごと持ち帰った。その後、家で泥だらけの猫をお風呂に入れてあげる。泥や汚れで黒ずんでしまっていた毛色は、美しい桜色へと変貌を遂げた。


 猫は、台風が去った後もルクアの傍を離れなかった。ルクアと猫は、それから楽しい毎日を送る。しかしある日、ルクアの友人の頼みで犬を預かることになった時、状況は一変する。ルクアは、猫を自分の祖父母のところへ預けることにした。ゲージの中へ入れられ、不安げに鳴く猫に、ルクアは優しく言う。


「大丈夫、友達が旅行の間、預かるだけだから。一週間後に迎えに来るから、それまで待っててね」


 猫の悲しそうな声を聞きながらルクアは、家を出る。しかし約束の一週間を過ぎても、ルクアは現れない。猫は、それでも待ち続けた。しかし三週間後、ルクアが迎えに行ったとき。既に猫の姿はそこにはなかった。


 ここで映像は途切れ、また最初から映像が流れ始める。ルクアは黙って、その映像を見つめていた。フィアは戸惑いながら言った。


「おばあちゃんから猫がいなくなったことを聞いたルクアは、この後一生懸命辺りを探すんだよね」

「そう。……近くは全部探した。最初に出会った路地裏も。1か月くらい。ふらっと戻ってくるんじゃないかと思って。雨や風の日は、あの子どうしてるだろう、怪我したり、体調崩したりしてたらどうしようって考えてた」


 猫が一声鳴いたが、ルクアは無視して続ける。


「……あの一件以来、私は動物を一切飼ってない。いや、飼えなかったんだ。いつかあの子が帰って来た時、他の動物を可愛がってる私を見たら、あの子どう思うだろうって。十数年前の話だけど、未だに私は引きずってる」


 ルクアの悲しそうな声。その声に、フィアは言った。


「でも仕方なかったじゃないですか。預かっていた犬の飼い主の、入院中だったおばあちゃんの容体が急変して、家族がおばあちゃんの対応で忙しくて犬の面倒みられないからって延長で面倒見ることになって……、おばあちゃんのお葬式とかでさらに延長されて……。迎えに行きたくても行ける状況じゃなかったんですから」


「それでも。そのことをちゃんとあの子に説明しに行ってあげるべきだった。ただあのころは自分で車を運転することはできなかったし、小遣いも預かられてた。お母さんに相談しても、待っていてくれるよの一点張り。小遣いの保管場所は分かってたんだから、電車でおばあちゃんの家に行って、直接ちゃんとあの子に話をすべきだった。きっとそれだったら、あの子は分かってくれたと思う」


 そう言ってから再びルクアは、嘲笑する。


「……いや、あれでよかったのかもしれないね。きっとあの子は私のことが嫌いになっちゃったんだよ。だから私に愛想をつかして出て行った。きっともっと素敵な飼い主さんが見つかって、幸せに暮らしてると思う」


 フィアは、そんなことはないと首を横に振る。ルクアは、足元にいる猫に言った。


「あなたには分かるかな、私の言葉。……あなたは、私が昔飼っていた猫によく似てる。その猫はとても賢くて、私はその猫をとっても愛していた。……だからお願い。今だけ、あなたを私の飼い猫だった猫だと思わせて」


 そう言ってから、ゆっくりと猫の視線に合うように屈む。猫は、今度はルクアから距離をとろうとはしなかった。ただ黙って、ルクアを見上げる。その猫の目をじっと見つめて、ルクアは穏やかに言葉を紡いだ。


「……あなたと一緒に過ごせた時間は、本当に幸せな時間だった。あなたとの思い出は、一度だって忘れたことはないよ。最後にあんな形でお別れすることになったこと、それだけが心残り。ごめんね、幸せにしてあげられなくて。最後まで一緒にいてあげられなくて。私は、あなたを捨てたわけじゃない。ちゃんと言いに行ってあげられなかったけれど、理由があって引き取りに行くのが遅くなってしまっただけだったんだ。だから、それだけは分かってほしい。あなたと過ごした時間は一生の宝物。ありがとう」


 猫はルクアの言葉を黙って聞いていた。聞き終わると、一声鳴いた。その声に呼応するように猫とルクアの映像を流していた鏡にひびが入る。猫は、ひびの入った鏡の一枚に体当たりした。……ように見えた。しかし実際は、猫の体が鏡に激突する前に、姿が消える。


「え……? どういうことでしょう……?」


 フィアが不思議そうに猫の入っていった鏡に触れる。すると、まるで鏡が空洞であるかのように手が、空を掴む。それをルクアに伝えようとフィアが振り返った瞬間、大きな音がしたかと思うと背後にあった壁が消え、アリスとベンジャミンが現れる。


「あら? フィアさんにルクアさんですわっ! 壁がなくなったのですわっ!」

「ルクアさん、アリスさん、この鏡通り抜けられそうです!」


 フィアの叫び声に、ティアシオンがようやく顔を上げる。そして呆れた声で言う。


「鏡を通り抜けられるなんてそんなこと、あるわけねぇだろ」

「信じる者が救われるんだよ、ティアシオンくん」


 ルクアは言って、さっと鏡を通り抜ける。フィア、アリスが続く。そして何が何だかよく分かっていないベンジャミンが続く。最後に残ったティアシオンは、大きく溜め息をつきそれに続いた。


 一行は、鏡の箱から脱出し外へ出た。夜風が一行の髪をなでる。鏡の箱から出た先に、猫が座って待っていた。ルクアを含む全員が脱出できたのを見届けると、猫はさっと走り出し、夜の闇に紛れてすぐ見えなくなってしまった。

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