想像妊娠する男と、死の誕生

綾上すみ

プロローグ

 香菜(かな)の分娩が始まったという知らせを、男は電車の中できいた。男は妻の早すぎる分娩について、予めその可能性を指摘されていたので、動揺することなく、むしろ運命への虚無感を、蚊に刺される程度に感じたのみで、すんなり受け入れた。瑣末なことだった。期待感がそれに勝っていた。

 その瞬間から、男は隣の車両のことが気になり始めた。女性専用車に、これから堂々と乗ることを自分に許す日がきたのだ、そこへ対する興味というものが俄然沸いてきたのである。女性だけに立ち入りを許されたその領域は、しかしずいぶん昔から自分のものでもある、と思い込んでいた。これまでそれを心に蔵匿していた、ただそれだけだ。男はなおも女性専用車のほうを見ていた。向こうの若い女性と、目が一秒程度あった。男は小顔で色白、脚も細かった。毎朝化粧品での肌のケアを欠かさず、スキニーの女もののデニムを履きこなして職場に通っていた。彼は女性と言って通じる風采をしていた。大量の食事によって着実に膨らんでいる腹を抱えている。ゆったりとした、ほぼワンピース丈のジップアップパーカーが好みで、その日もグレーの者を着用していた。

 女性は男の目を見つめ、またその下へ視線をやったりしながら、気の毒そうな、また不思議そうな表情を送っていた。が、やがて向こうから目線をそらした。向こうからすると、比較的すいていて、妊婦の優先座席に座れる女性専用車に来ないのを不思議がっているかのようだった。

 男はしかし、それをするのを、今日という日が来るまでしないことと決めていたのだった。

 自宅最寄駅の一つ手前で、男は電車を降りた。改札を抜けてその足で、徒歩五分のところにある総合病院に足を運んだ。産婦人科の分娩室に、名前を告げて入る。

 香菜が、ぐわんぐわんと悲鳴を上げていた。彼女の膣口は、器具で人工的に広げられていた。

 しばらく、男は自分の性器が気になって仕方なかった。自分に男性器が付いていること、そのこと自体を否定したくなったのは、香菜を妊娠させたときからだった。

「もう少しで産まれます」

 男がその事実を受け入れられず、佇立しているように見て取った看護師が、彼に厳粛に声をかけた。男は取り繕うように、

「お気遣いありがとうございます」

 と応答した。まさかこの日を待ちわびていた、などと言えるはずもなかった。

 少しずつ、香菜の膣から赤い塊が出てくるのが見えた。見えただけだった。鳴き声が、隣の分娩台から聞こえてくる中、死産児は、無機質に香菜の膣からずる、ずると出てきた。体のすべてが外の世界にあらわになっても、鳴き声一つ上げなかった。主治医が、険しい顔をして何やら手元の紙に書いた。

 ふたりが亮(りょう)、と名付けていた死産児を、看護師が抱きかかえた。火葬するまでの冷凍保存の準備を整え始めた。

「待ってください」

 香菜は声を上げる。一度も亮の顔を見ていない。死産になった場合、顔を見ないつもりだったのだが、気が変わったのだろう。今が、その手にあたたかいまいを抱ける最後の機会なのだと思いなおしでもしたのだろう。

「赤ちゃんの顔を見ると、きっとおつらいですよ」

「いいんです。私はこの子を、腕に抱いておきたいんです」

 痛みから解放された香菜の目はうつろだったが、その意思があることはくみ取れた。看護師が彼女に亮を手渡ししたのか、香菜が無理やりひんだくるような形で胸に抱いたのか分からなかった。

「かわいいお顔だねえ……」

 つい先日まで香菜の腹の中で生きていた亮は、鮮やかなピンク色をしていた。亮をあやすように胸のうちでゆすりながら、香菜は、確かにわが子を抱けた喜び、また別れの辛さの入り混じった複雑な笑みを浮かべていた。

「あなたも、抱く?」

 男はためらいなく、むしろ進んで香菜の腕から亮を受け取った。手に、ぬるい感触が伝わった。同時に、自身の体内に変化が起こるのを感じた。

 今、確かに、男は自分の胎内の子が動いたのを感じた。気が狂いそうなほどの喜びが、男の脳を駆け巡った。男は奇声を上げる。男性器が忌々しくて仕方なく感じられた。自分の性器がどんどんとしぼんでいくのを感じた。俺は間違っていなかった! 目の前にある、できかけの寮の性器を思い切り握りしめた。そのまま、引き抜いてやろうと思ったのだ。そこで看護師が男の手から亮を奪った。看護師は男をとがめなかった。主治医たちにも、男の行動は一時のパニックだと解された。

 我に返った男の頭に、しかし自分の腹に子ができたという感覚は残っていた。彼は、もうベッドで落ち着いている香菜にだけ聞こえる声でささやく。

「お前が産めなかった子を、俺が産んでやるからな」

 口をぽかんと開けたまま香菜はうなずいた。しかし、うなずいたように見えたのは男の妄想だった。

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