鶸と関山
平日の午後、姉妹の姉の方が大学前の喫茶店でコーヒーを飲んでいる。奥のテーブル席。細かなバラの模様のついた黒いかっちりとしたブラウス。隣の椅子に置いた鞄の上に畳まれた赤いウールのショートコート。テーブルにはウィンナーコーヒーの分厚いカップ。しっかりとした密度の高いホイップクリームはまだほとんどが残されている。ひと口かふた口、クリームの端っこを味見程度に食べてみただけ。そんな具合だ。
姉はテーブルの上に本を置いて平易な小説を読んでいる。会話や改行が多く画面の下半分が上半分に比べて白っぽい。詩的だ。姉は一ページにほとんど時間をかけずに読み進める。左手で頬杖を突いて右手の人差し指と中指の間に本の表紙の方を挟み、親指と人差し指だけで器用に捲っていく。彼女の右手はまるで小雨の時のワイパーのように、止まっては動き、止まっては動きを繰り返す。あまり内容に集中している様子ではない。時々目を上げて店のレジや出入口を見ている。誰かを待っているようだ。
やがてそこに水色のダウンを着た小柄な女が歩いてくる。姉は目を上げる。
「あなたが――」
「ヒワです。はじめまして」相手は愛想よく挨拶する。
「どうぞ、座って」姉は栞を挟まずに本を閉じ、鞄に仕舞う。
「私からお願いしたのに、遅れてしまってすみません」ヒワはダウンを脱ぎながら言った。中に白い丸首のセーターを着ている。少し緊張している様子だ。
「授業が伸びたんでしょう? それに、ここにしようって言ったのは私の方だ。大学の中でも全然いいんだろうけど、場所に困ると嫌だから」
ウェイターが注文を取りに来る。ヒワは無難にオリジナルブレンドのコーヒーを頼む。メニューを差す指がわずかに震えていた。
「そう、君がセキヤマくんの言っていた彼女か」と姉。
「私の話もしていたんですか」ヒワは少し目を大きくして答える。
姉は何度か肯いた。「嬉しそうに話してたよ。とても」
「本当に?」
「本当に」
ヒワは目だけを俯けてほんの少し微笑した。
「彼、私には話しづらかったみたいで」とヒワ。
「私の妹のこと?」
「ええ。それもあるし、きっと深く考えている様々なことを私には言わなかった。それは思ったことを口にしないのとは違うんです。そういう点では彼は素直な方でした。ただ、それを詳しくは説明してくれなかった。どういうことなのか自分でもよくわからないって。本当に言葉にできなかったのかもしれないけど、それは私に伝えるための言葉にはならなかったという意味かもしれないし、とにかく私はそこには立ち入れなかった」
「立ち入りたかった?」
「どうでしょう。立ち入るべきじゃなかったのだろうと思うことはできますけど」
「うん。私はそう思う、というか、少なくとも彼が君に求めたのはそういうものじゃないんだと思う」
「もっと言葉の要らないもの、もっと感性に満ちたもの。たぶん自分の穢れのようなものを私には見られたくなかったし、心配されたくもなかった」ヒワは姉の言葉に続けるように言った。
「そうね。私の方が聞かされていることもあるようだけど、だからといって私が彼の心の埋め合わせになれるわけじゃない」
ヒワはしばらく俯きながら鞄の中に手を入れて封筒を取り出した。飾り気のないクラフト紙の封筒。宛名は姉の名前である。住所の類はない。舌も開いたままだ。
「彼から頼まれていたものです」
「君は読んだの?」姉は封筒を受け取って一度両面を確かめてから目を上げた。
「いえ。なんだか怖くて」
「そしたら、あまり厚くもないようだし、ここで読むよ。黙読する。君に教えた方がいいことも書いてあるかもしれない」
「やっぱり怖いなあ」
とは言いつつもそれが根っからの拒絶ではないと察したのか、姉は便箋を開いて小さな文字を読み始めた。読んでいる間にヒワにブレンドコーヒーが届き、姉のウィンナーコーヒーは少しずつ冷めていった。
そして最後の一文字が読まれる時、ヒワは両手でカップを持ち上げてその縁に唇を触れていた。中身はまだ残っているが啜っているわけではない。飲むよりは気持ちを落ち着けるためにそうしていたようだ。
姉は顔を上げてヒワがカップを置くのを待った。
「やはり妹のことをいかに愛そうしていたかという話だね。それはいつしか好意から執着のようなものに変わってしまった。その執着が彼を苦しめ、彼女を傷つけた」便箋を元通りの形に戻しながら言う。「その愛はこれを書いている時点ですでに過去のものだ」
「そう、それはよくわかっています」ヒワはゆっくりと小さく頷いた。「彼はなぜ死ななければならなかったんでしょう」
「それはここには書いてない」
「どう思いますか」
姉は答える前にウィンナーコーヒーをひと口ごくりと飲んだ。
「よくわからない。ただ、この世に絶望したわけじゃないし、まして死後の世界に何か希望を見出したわけでもない、という気がする」
姉はしばらく相手の顔を見つめたあと、横に手を突いて姿勢を崩した。
「ねえ、犬は好き?」
突然話が変わったのでヒワはきょとんとして瞬きした。
姉が会計を済ませて喫茶店を出る。裏通りを歩いてコンビニの駐車場に出る。端の駐車スペースにグレーのワゴンが駐まっている。それは姉のボーイフレンドの車だ。姉はその運転席に合図してから後席のドアを開く。中で丸くなっていた狐は顔を上げて体を起こした。
ヒワは戸口の前に立って狐の顔の前に両手を差し出す。狐はその掌に下顎を擦るように頭を差し込んで彼女の胸元に額を押し当てた。その反応は姉や妹の時とは違う、もっと親しみを含んだものだった。
ヒワを車で駅まで送り届けたあと、ボーイフレンドはその足で姉妹のアパートへ向かった。二人は車の中でこんな話をした。
「人間が一生の間に負わされる苦しみって、質とか量とか総合的に見て、他の動物より重いものなんだろうか」助手席で姉が訊いた。
彼は車線変更で右手やミラーを確認していて車がまっすぐになるまで返事をしなかった。少しずつ、着実に夕闇が広がりつつある。ライトを点けた車と点けていない車が入り混じって走っている。
「人間だって動物だ」と彼。
「でも同類でしょう」
「一種と一種ならわかるけど、一種と他全てというのは比較として微妙だな。主観的というか、ある種の特殊性が前提になってしまっている気がする。どこが特徴的かというのは言えるだろうけど、量的な比較はな、尺度が合わない」
「別にアカデミックな答えを求めてるわけじゃないの」
「うん……」彼は低い声で答えてまたしばらく黙った。
姉は席の間から後ろの様子を窺った。狐は後席の座面と背凭れの間のところにぴったりと収まって丸くなっていた。ハーネスは外してある。
「人間の特徴はさ」と彼は口を開く。「システマティックな役割分担をして、飢えとか、冷気とか、捕食の危険からほとんど解放されているところじゃないかな。でもそれはたぶん他の動物でも、野生か、飼育されているか、という違いがあって、飼育されている場合には人間とそんなに変わらないだろうね」
「というと?」
「例えばね、飼われている動物ってやきもちを焼くんだよ。飼い主が他のペットを可愛がっていると、構ってほしいって思うんだ。僕自身のことじゃないから、たぶんだけどね。なぜって、構ってもらうだけの暇があるからだよ。狩りに時間を追われることもないし、外敵もいない。もちろん野生だったら絶対にやきもちを焼かないとまでは言い切れないけどね。暇ができるとそういう感情が露わになる。肉体的な危険は減るけど、その代わりに精神的な問題が生じてくるわけだ。人間も同じだよ。命の危険はほとんどないけど、他者との軋轢に苦しんでいる。それは生存競争の段階では生きるために必要な関係か否かという基準だけで取捨選択されていた問題かもしれない。さほど複雑な問題ではなかった」
フロントガラスが曇り始めていた。姉が先に気づいてセンターコンソールにあるデフロスターのボタンに手を伸ばす。エアコンがごうごうと風を吹き出して霜を追い払っていく。
「ペットも人間と同じような精神的問題を抱え得るのかしら」姉はついでに吹き出し口で指先を温めながら言った。
「と思うよ。躾けられて本能を抑える。抑えることで飼い主から褒められる。それは本能に従って得られるものより複雑な悦楽じゃないかな」
「逆にいえば、社会のシステムの中で生きている人間は飼われているとも言えるの」
「そういう考え方は人々の自尊心を傷つけるかもしれないな」彼は苦笑した。「つまりね、質問にできるだけきちんと答えることにすると、苦しみの重い軽いというのは、種の異同よりも、環境や立場の異同なんじゃないかな」
姉は腕を組んでしばらく目を瞑った。それからサイドミラーの中に狐の姿を探して呟いた。「彼は野生のものになりたかったんだろうか」
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