しろぎつね

前河涼介

狐がおじゃまします

 スーツの襟を崩した男たち、髪の乱れを気にしない女たち、家路を急ぐ人間の群れが改札口からどっと吐き出され、ロータリーをぐるりと囲うように列が伸びていく。まだ途切れない。一体どれほどの人数があの列車に詰め込まれていたのだろう。

 そのうち群れの中に彼女の姿がちらりと見えた。

 

 白い狐は腰を上げる。ロータリーの中州にある花壇のレンガから下り、車道のアスファルトを渡る。たったったっと軽い足取りで人々の脚の間を縫い、時々顔を上げて彼女を探す。モスグリーンのコートを着たセミロングの女性、黒い革のショルダーバッグ。

 そして追いつく。一度前に出て気を引こうとしたけど、残念ながら彼女の視界には入っていないみたいだった。ちょっと上を向いているせいだ。狐は仕方なく後ろに下がり、人の足で二歩ほど離れてぴったり歩幅を合わせた。彼女はまだ気付かない。少し顎を上げて黄色い街灯に群がる蛾を眺めている。通り過ぎたらまた次の街灯へ目を移す。狐はその様子を下から注意深く見ている。

 バス停に被さったアーケードを抜け、ロータリーを右手へ迂回する。シイの並木の下を歩き、青白く光る駐輪場の階段を上る。スチールの踏み板に狐の爪がカチカチと鳴る。

 彼女はその音でようやく振り向いた。目を丸くして、けれどまるで見知らぬ人と目を合わせてしまった時のようにそっと正面に向き直って歩き続ける。中二階の踊り場を回って階段を上る。書類のようにぎっしりと並んだ自転車の列の間に入り、自分の自転車を見つけていつも通り籠に鞄を乗せる。サドルに手をかけて後ろに人が居ないか確かめる。すると人間は居ないけど狐が居る。やっぱり居る。避けられない。

 狐は立ち止まって彼女の一連の動作をじっと見上げていた。その目に天井の蛍光灯の冷たい光が映っていた。

 彼女は少し苛立ったふうに短く息をついて、そして小さな声で狐に話しかける。周りの人目を気にしたみたいだ。

「ねえ、きみ、わたしについてきてるの?」

 狐は背筋を伸ばして座ったまま何かを期待するように相手の顔を見つめ、太い尻尾をゆっくりとメトロノームのように振っている。右、左、右、左、右。

 返事なんかするわけないよね、といったふうに彼女は唇を斜めにすぼめる。狐の首の下と上をそれぞれ覗き込んで首輪をしていないか確かめる。でも見たところ狐は首輪をしていない。彼女はまた唇をすぼめる。そして架台から自転車を下ろす。後輪が鼻先にぶつからないように後ずさりする狐を尻目に、ブレーキを握りながらスロープを下り、建物を出て少し歩いたところで振り返る。

「わたしは自転車だけど、それでもついてくるの?」彼女は訊いた。外に出た分、先ほどよりいくらか大きな声だった。

 狐は肯いたように見える。

「うちはアパートだから動物は飼えないんだよ」

 すると狐は口を大きく開けた。白く鋭い牙が揃っているのが見える。それから縄跳びでもするみたいに足を揃えてその場で何度か小さく飛び跳ねた。

 彼女は頬に手を当ててしばらく考え込む。狐の動きが一体何を表現しているのか、それとも、家までついてきたらどうしようかと考えていたのかもしれない。どちらにしろ確信には至らなかったようだ。一度ちょっとした閃きでもあったように手を浮かせたが、すぐ頬の上に戻ってしまった。それで結局彼女は何も言わなかった。諦めて自転車に跨る。ライトの発電機を車輪に当ててギアを合わせる。

 途中、道が直線になるところで彼女は度々後ろの様子を窺っていたけど、その度狐はだいたい同じ位置につけていた。自転車の速さにもしっかりとついてくる。白い毛並みが風圧でぴったりと後ろへ撫でつけられていた。

 それでもアパートの駐輪場に着いた頃には狐の息はずいぶん上がっていた。長く薄い舌は口からべろんと出ているし、胸は膨らんだり萎んだりしていた。

 彼女は階段を上がり部屋のベルを鳴らす。姉が中から鍵を開ける。扉が開いた時、狐はきちんと息を整えて愛想良くしていた。

「どうしたのこれ」姉は訊いた。

「わかんないよ。駅からついてきたんだけど」と彼女――妹は答える。「わたし生肉の匂いでもする?」

「駅に居たの?」姉は靴下のまま土間に下りたので踏み出した方の爪先をもう一方の足首の内側にこすりつけて埃を払った。

「さあ」

「この辺って動物園あった?」

「動物園? イヌじゃないの、これ」

 姉は玄関の上にしゃがんで狐と目線を合わせる。妹も靴を脱いで姉の横に並ぶ。二人の顔立ちはよく似ている。

 狐は玄関の扉に尻尾を挟まれないように土間に入る。座って大人しくしている。

「キツネよ」と姉。

「キツネ?」と妹。

「だって尻尾が太いし、この頭を見てよ。イヌよりずっと薄っぺらい」

「キツネ?」と妹は繰り返す。

「エキノコックスが心配だな」

「何、それ」

「キツネが媒介する病気だって。だから野生のキツネには近づいちゃいけないんだ」

 それを聞いて妹は部屋の奥へ引っ込んだ。

「でも、野生だったらこんなに人慣れしないよ、普通。どっかのペットが逃げ出してきたんじゃないの」

 姉はそう言うと恐る恐る手を伸ばして狐の額に触れ、それが平気だとわかると首の辺りをまさぐって首輪を探した。しかしもちろん手応えはない。狐は姉に触られたのをいささか嫌がる。

「あ、やっぱりキツネだな。この瞳の形。イヌだったら真ん丸でしょ」姉は部屋の奥へ呼びかけるように言った。

「なんて?」妹はコートの前を開けて、マフラーを外した時に乱れた髪を直しながらリビングに出てくる。髪の隙間で静電気がぱちぱちしている。

「瞳が縦長だからイヌじゃないでしょうって」

「ああ、確かに、そうかも」とは言うものの妹は近づいて覗き込んでみるなんてことはしない。イヌとキツネの違いにはさほど興味がないようだ。

「どうするの、これ?」姉はまだ狐のことを触りながら訊いた。

「お姉ちゃん飼いたかったら飼ってもいいよ」と部屋の奥から返事。

「だってさ」と姉は狐の顔を見て言う。「おなか減った?」

 狐はイヌがやるみたいに舌を出した。

「飲み物が先か」姉は立ち上がって冷蔵庫から牛乳を出して皿に開け、電子レンジにかける。雑巾を濡らして足を拭いてやる。何度か爪が引っ掛かる。「上がってもいいよ」

 狐はまた何かを期待するように斜めに顔を上げていたが、姉が手招きをすると廊下に入った。

「ちゃんと人の言葉がわかるんだね。えらいね」姉は狐に目を合わせてにっこり微笑んだ。

「姉ちゃんさ、落ち着いてるよね」妹はコートをハンガーに掛けて台所で手を洗う。作り置きのグラタンをテーブルに置いてラップを取る。それはすでに一人用の耐熱皿に取り分けてある。具はマカロニの他にイカ、エビ、ブロッコリーが見える。ピザチーズをかけてトースターに入れる。

「触ったことあるからね」と姉。

「彼氏?」

「いっぺん蔵王に行った時に、ほら、あるでしょう、キツネ園」

「ふうん」と妹。ふうん。何か反応しなきゃいけないけど、決してそれ以上ではない、といった返事。

「あら、面白かったわよ」姉は電子レンジから牛乳の皿を出して床に置く。

 狐は一度姉の顔を見てから口をつける。

「今晩はどこで寝ますか」姉は続けて狐に訊いた。

 狐は顔を上げない。牛乳を舐めている。

「ベランダに出しとこうよ」と妹。トースターの前でグラタンが温まるのを待っている。

「寒くて死んじゃうよ」

「病気持ってるかもしれないんでしょ」

「でも、こんなにふさふさしてるし、きっと平気だよ」姉は狐の横にしゃがんで背中や脇腹の毛皮に手を沈み込ませてみせる。

「何の理屈?」

「うん。じつを言うと、ふさふさしているかどうかは関係ないんだ。ヒトがエキノコックスにやられるとしたら、口から卵が入るんだよ。卵の出所はフンなの。だからフンの片付けと、口とか食べ物に触る前の手洗いね。体についているかもわからないから、これからお風呂でごしごし洗ってやるけど、あとはこっちにタオルケットで寝床を作って、私たちは向こうで寝る。それでいいでしょう?」

 トースターのベルが鳴る。

 妹は何も言わずに目を細めて狐を見下ろしたあと、もう一度石鹸で手を洗って、まるで手術用のラテックス手袋でもするみたいに鍋つかみを手にはめた。

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