第34話 戸辻さんの想い
いつもの病院の玄関や待合室の生け花の交換ついでに新田の様子を今日も若店長は見に行っていた。
新田はあと一週間後に肺の手術を控えている。
この手術を無事に乗り越えればガン細胞は全て体から除去される。そうすれば必ずまた元気になって病院を退院出来るはずだ。
あともう少しの辛抱だ。
そう思いながら病院内をウロウロしていた若店長はいつも「画家の花屋」を利用してくれる常連客の戸辻夫人を見かけた。
バタバタと慌ただしく廊下をかけて行く。
血相を変えている、その表現がぴったりな程、彼女は脇目も振らず個室の一室へとすべり込んで行った。
(何かあった?……、公也くんに?……)
咄嗟にそう思い辺り夫人の入って行った個室の前まで来てしまう。ふと戸辻夫人が来店されたのはいつだったろうと考える。
たしか、五日前に会ったばかりだ。その時もたくさんの花を買い上げて貰った。
(公也がね、いい香りがすると花があるって分かるのよ)
そうお決まりの台詞。
戸辻夫人の優しさに溢れた笑顔。
この秋も変わらず金木犀の香りが街中に溢れているから、少し窓を開けてベッドを起こして外を見せてあげるのよと話していた。
(目で喋ってくれるのよ、嬉しいって笑ってくれるの)
夫人自身も笑って、そう話してくれた。
看護士の女性が扉の前で躊躇している若店長に気付いて寄って来た。
「若店長……、入院されている方、お知り合い?」
「ああ、お客様だけど……」
「そう……、言っとくけど、一応面会謝絶だからね。関係者以外立ち入り禁止だからね」
そう言って点滴の袋を持って中へ入って行く。その後から若店長も中へ入る。
「部外者〜」
迷惑そうに看護士が文句を言ってくるが、それ以上は何も言って来ない。
戸辻夫人がいきなり入って来た若店長を見て驚いた顔で見上げてきた。
「店長さん……」
「すいません、先ほどお見かけして、つい……」
若店長はベッドの隣まで来て初めて見る彼を前に立ちつくす。
「この子が……」
「はい、公也です」
ベッドには酸素マスクを口元にはめられ、身体中にいくつもの管をはめられた小さな、少年のように小さな、年の頃は若店長と同じはずの公也くんが眠っていた。
腕や首すじは後は骨と皮を残すのみというくらいに枯れ木のように乾き、いく本もの細いすじが浮き出ている姿は木乃伊にも似て痛々しい。触れるのさえ躊躇われるほどに痩せ細っている。
色白のその頰には僅かに艶があり、穏やかに呼吸を繰り返す。十年寝たきりの青年は死の寸前で時が止まったままを生きてきた……、そんな感じだった。
「公也くんにはウチの花をずいぶん長い間見て貰って、お礼も言ってなかったので……、出会えて良かった」
パイプ椅子に座っていた夫人がこの数日で更にやつれて細くなった体を折って頭を下げた。
「ありがとう店長さん。来てくれて……」
穏やかに、無理をしながらでも笑顔を作ろうとしていた。
「何時からこちらへ入院されたんですか?」
「……一昨日かしら、私が気付いた時にはもう意識が無くて……、お医者様は肺炎を起こしているとおっしゃたの」
チラリと看護士が若店長の顔を見てすぐ視線を外した。手早く点滴を取り替えた彼女は一礼して部屋を後にする。
「自発の呼吸が難しくなってるって……、このままだと一生入院生活だろうって……」
眠り続ける公也くんは息をしているのかも疑われるほど静かに人工の呼吸を繰り返している。意識は一昨日から一度も戻ってはいなかった。
「私がいけないの。
金木犀の香りがするからと窓を開けておいたから……、お天気も良くて……、でも、思った以上に冷気が入り込んでて、その日の夕方に口をゴロゴロ言わせていると思ってたら……、私が付いていながら……、こんな………」
戸辻夫人は静かに眠っている公也くんの細い手を握りしめていた。
事故が元で体の機能が失われ感情を表に出す事も出来なくなった息子を見守り続けてきた夫人の強さは他人が思う以上に強くしなやかだった。
「覚悟を決めて下さいって言われているの。主人とも話しあった結果は………、もう二日後には終わりにしようって………」
ゾクリと背筋に寒気が走る。心臓に重い鉛をぶち込まれたような痛みを感じた。
「あら?」
ふと戸辻夫人が床に置かれたままの画家の花屋の藤カゴを見つけて声を上げた。その中には昨日紫が作ったテーブルアレンジの花束がまだ二つ残っていた。一つは例のごとく新田の所へ寄った帰りに置いてきた。
「花束ね」
「ええ、良かったら貰って下さい。公也くんの所なら大歓迎です」
「あら、頂けるのかしら?」
花束を手渡した時に触れた夫人の手は骨ばっていて、いつもより遥かに年老いて見えた。
「公也が気付くかしら?」
そう言うと夫人は眠っている公也くんの手を花束に触れさせ始めた。
「公也ー、いつものお花よ。今日はね、画家の花屋の店長さんが持って来てくれたのよ。ほら、ここにいらっしゃるのよ。公也ー、とても綺麗な花束よー」
夫人は公也くんの手に花冠を擦り付けていく。もう感覚を失なった彼の手が自発的に動く事は無いのである。その指先には何も伝わる事は無いはずである。
それでも、夫人は息子に何かを伝えようと何度も何度も彼の手を花に添えていく。
しばらく公也くんの酸素マスクをかぶるままの呼吸音がやけに大きく響く。
しかし、何分たとうが彼からは何の反応も見られはずもない。
夫人が泣いていると気付いた時には、花束はすっかり潰れてしまっていた。
彼女の手から花束を取り上げ座らせる事しか若店長に出来る事は何もなかった。
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