これからの俺たちあたしたちは
「あたしは……」
あたしは。
後に続く言葉は。
「…………わかんない……かな!」
見当たらなかった。
って事にしておこう。
「わからない、ですか」
「うん! わかんない! 確かにあたしは世界一可愛いけど、そういう経験はまだないの! なんだかお恥ずかしいなあ!」
ほら。嘘が必要になっちゃった。
ほら。後悔してるじゃん。
このあたしが、忘れるわけなんかないんだから。
思い出さないように。思い返す事すら難しい深い深い所へ沈めたのに。
「本当ですか?」
「ほんとほんと! っていうか、このあたしに見合うだけの男がいないみたいな!? そんなだからあたしは」
「でも東雲先輩」
「何!?」
「苦しそうな顔してます」
「……え?」
くろちゃんこと、黒井優ちゃんがあたしに向ける眼差しは、なんだか悲しいものを見てしまったみたいな、そんな風で。
「そんな顔してる?」
「してます」
「む、むむぅ……」
「ほら今も」
「そ、そう? 別にそんな…………おかしいなあ……」
少し冷えた秋風にペシペシ叩かれてている自分の顔を摘んでみたり引っ張ってみたり。やっぱいつも通りじゃないかな、あたし。
自分ではそう思うのに、くろちゃんの表情は暗いまま。なんでそんな顔してるの? あたしに何を言おうとしてるの?
「なんだか……今にも泣き出しそうな」
「そんな顔してない!」
「っ!?」
「…………あ! ごめん! いきなり大っきな声出して……」
「い、いえ……」
驚いて丸くなったく目をババっと伏せちゃうくろちゃん。そりゃ驚くよね。ごめん。あたしも負けじと驚いてるから許して欲しい。無理か。だよね。
ムキになる必要なかったじゃんね。何やってんだあたし。空気悪くなっちゃったじゃんアホちん。アホちゃうわ。もうなんでもいいわ。
「…………正直に言うね」
「え?」
「昔の事思い返してたら…………ママの事思い出しちゃったの」
嘘で取り繕うって行動は変わらないんだから、もうなんでもいいの。
「東雲先輩のお母さん、ですか」
「うん。あたしのママ、あたしが小学一年の頃にどっかに……」
ストップ。ストップあたし。
違う。違うんだ。違うでしょ? もう知ってるんだ認めてるんだ。逃げるな、あたし。向き合え、あたしっ。
「……一年の頃に亡くなっちゃってさ。だからちょっと色々ね……」
「そうだったんですか………」
「話してなかったっけ?」
「山吹先輩と同じお宅に住んでるって事を知っていたくらいで……」
「そうそう。ママが死んじゃって、隣に住んでた奏太のとこに引き取られたの」
「そうだったんですか…………えと……出過ぎた事を聞くようですが……東雲先輩のお父さんと暮らすという選択肢は……も、もしかして……東雲先輩のお父さんも……」
「生きてる生きてる。あたしの父親、東雲朝陽って言ってさ、俳優やってんの」
「東雲朝陽!? あの!? ほ、ほんとですか!? クソ陰キャな私でも知ってる超有名人じゃないですか! ほんとに!?」
「ほんとほんと」
おお、こはるんとそっくりな反応だ。
「マジですか……びっくり……神奈川県出身だっていうのは知ってましたけど……」
「っていうか川ノ宮高校のOBだよあいつ」
「ええ!? し、知らなかった……」
「結構有名みたいだよー。あたしもあいつも隠してないし。聞かれたら答えるってスタンスだから。今日だって普通に文化祭来てらしいよあいつ。アホかっての」
「い、いやあ……びっくりの連続過ぎて何が何やら……」
「初めて聞いた時はあたしも驚いたよー。ママと二人で住んでた頃は父親の事なーんにも知らなかったんだよねー。あいつってばずーっと海外で仕事してたらしくてさー。どこまでほんとなんだかなー」
嘘。疑ってない。だってママが言ってたんだもん。あたしのパパは海外でお仕事頑張ってるんだよって。寂しいの我慢して頑張ってるんだよって。
ほんとに寂しかったんなら、帰って来ればよかったじゃん。アホじゃん。
「……出過ぎた事を聞くようですけど……」
「なになにー?」
「お父さんと……あまり仲良くなかったりしますか?」
「うん。だってウザいんだもんあいつ」
「う、ウザ?」
「そうなの! ちょっと聞いてよくろちゃん! あいつさーあたしにちょーベタベタしてくんの! そりゃああたしが可愛いから仲良くしたいってのはわかるけど鬱陶しいもんは鬱陶しいの! ウザい離れろって言っても離れないし人の話聞かないし! こっちの都合ガン無視で急に会いに来るし! しかもファッションセンスゴミだし! それに」
「あ、はい。もう大丈夫です。なんか色々理解出来たので」
「そ、そうなの? っていうかくろちゃん、なんで笑ってんの?」
「なんとなくです、なんとなく」
なーんか腑に落ちないけど……くろちゃんの笑顔が可愛いからなんでもいいや!
こんなに可愛い女の子をフったバカな男がいるらしい。
何考えてんだろね、ほんと。
昔っから、バカのまんまだ。
「ねえ東雲先輩。今度はですね、お母さんの話を聞かせ」
「聞きたい!? ママの話聞きたい!?」
「うわわ……めっちゃ食い付きいいじゃないですか……ビックリしたぁ……」
「いいよ! いくらでもしてあげる! あたしのママ、凄いんだから!」
そう! 凄いんだよ! 何が凄いって、何もかも凄いんだから!
「東雲先輩に凄いって言われるって相当ですね。俄然興味湧いてきました」
「でしょでしょー!? じゃあ聞いて聞いて!」
あたしは、あたしが産まれてからの六年と少しのママしか記憶していない。それ以前のママはケイトやお父さんお母さんたちや、あいつから聞いた話しかわからない。
それが、悔しい。
ママはあたしにとって、たった一人のママであり、一番の友達だったから。
もっとたくさんの事を知りたかったなー。もっと教えて欲しかったなー。もっと一緒にいたかったなー。
最後に、あいつと会わせてあげたかったな。
今更強請ったって仕方ないけど。
あいつがママに会いに来なかった事をどうこう言うつもりはない。それはあたしが言うべき事じゃない気がするし。
けど。モヤモヤする。もっとなんかあったんじゃないかって。一緒にいる方法とか、そういうのが。
不器用なんだろうね、あいつも。ママとおんなじで。
とにかくっ。あたしはするよ、これから。くろちゃんに。
「世界一可愛いあたしより可愛い、あたしのママの話!」
友達自慢を!
* * *
「あの…………後悔とかしぶへぇ!? 痛えし! なんでデコピンされたの俺!?」
「お前が野暮ったい事言うからだ。なっちゃねーなー元気は。篤と柚珠にクレーム入れとかねーとなー」
「だからってデコピンしなくてもいいじゃん……おーいてー」
赤くなったおでこを摩る松葉先輩の目には涙が浮かんでいる。川原町団地出身の方、デコピン強者多過ぎでは?
「楽しい昔話に水を差すんじゃないぞバカチビ。大体なあお前は…………って! あーもう! 調子狂うなあ!」
「うるせえ。デカイ声出すな」
「急に何よ」
「アレだよアレ!」
山吹先輩のご両親から飛んでくる冷めた視線は完全スルーで、東雲朝陽さんは何処かを指差して…………あ、あれ? 指、こっち向いてません? それとも私の隣に座っている白藤先輩に向いている? どっちだろう? っていうかなんでだろう?
「なんで夏菜と子猫ちゃんはガチ泣きしてるのかな!?」
「う、うえぇ……」
「ら、らっへ……」
ああだからか。だから私と白藤先輩なのか。
って、無理。申し訳ない限りですけど無理でしょ。あんなん泣くわ。正直、急に泣き始めた白藤先輩からもらったってのもあるけど、やっぱ泣くわあんなん。
なんですかほんと。長々と語ってくれた朝陽さんやエミーさんたちの青春物語は。どんだけ波乱万丈で破天荒な人生送って来たんですかこの俳優さんとその奥様は。
朝陽さんの事だけでも密度ヤバヤバのヤバなのに、エミーさんの事も超濃密に語られちゃったし。それこそ出会いから……お、お別れ……まで…………あ無理。泣く。泣いてしまいますわよこんなのバカアホドジマヌケ。
「泣かせるつもりない所で泣かれるとなんかなーなの! なんかなーな感じになっちゃう感じがするの! わかる!?」
「ぷぁ、ばかりゃなひれしゅ……」
「ぼべんばぱい……」
「わからないです!? ごめんなさい!? いいやわかって!? わかって欲しいの俺! なんか変な感じになるって事を!」
「うるせえっての」
「あんたこそあたしたちの言ってる事理解しなさいよ、ねっ」
「痛ってぇ!? 脛! 思いっきり脛蹴ったぞこの人妻!」
「この子ら泣かせたあんたが悪い」
「いやそれ理不尽だろ……大体なんでそんな泣くかな……悲しい話をしたつもりは微塵もねーんだけど……いてて……」
「だ、だって……」
「だって何? 言ってみ夏菜」
ぼろぼろと涙を落とす両目を両手で隠しながら。
「えっちゃん……大好きだった……から……」
震える声で、白藤先輩は言った。
それを見てや、浅葱先輩も桃瀬先輩も松葉先輩も、なんと表現していいのか難しい表情になりました。
笑っているように見えるけど、それ以上に泣いているように見える、不思議な表情に。
「みんなみんな…………えっちゃん大好きだから……だから……っ……ぐすっ……」
「おーそうか。けど負けねえぞー夏菜。夏菜より俺の方がもっともっともーっと! エミーが好きだった! あーごめん! 今のやっぱなし! 間違えたから言い直す!」
「ふぇ?」
何杯目かもわからないハイボールをぐびーっと飲み干し、朝陽さんは言いました。
「今でも! いつまでも! 誰よりも! 世界で一番あいつの事が大好きなのは、この俺だ!」
満面の笑みを浮かべながら。わざわざ聞くまでもないだろう事を、大きな大きな声で。
「って事」
「……し……」
「し?」
「知ってましゅ……」
「おうそうかそうか。よく知ってるじゃんかー偉いぞー夏菜ー」
「あぅ……」
身を乗り出し腕を伸ばして、白藤先輩の頭を撫でる朝陽さん。
照れなのかなんなのかわかりませんが、その姿からはなんだか不慣れな感じが漂っていて、なんとも言えない気持ちにさせられた。
「ねえ千華パパ。やっぱ聞かせて欲しいんですけど」
「なんだー?」
「後悔、してない?」
松葉先輩が、もう一度踏み込んだ。それを受けた朝陽さんは、さっきみたいにデコピンとはせずに、長年の汚れを溜め込み変色してしまった天井を見上げて黙考し始めた。
「…………ねえな。してねえ。あいつの事で後悔してる事なんて、何一つねえよ」
「本当に?」
「本当だっつの」
「その…………何年も会えないまま……そういう事になっちゃったわけでしょ? それでも何も?」
「ああ」
「……そっすか……」
「まあよ、俺も人間だからよ、後悔一つない人生なんて過ごせるわけねえからよ。だから何かしら後悔を感じながら墓石の下ですやぁする日が来るんだろうよ。けどな、それは絶対エミーの事じゃねえ。つーかよ、マジでエミーの事で何か後悔を覚えてんだったらここにはいれねえし。それによ。そんな姿、あいつに見せるわけにいかねえんだよ」
あいつ。エミーさんか東雲先輩のどちらかなんでしょうか。
いや。お二人に、でしょうね、やっぱり。
「そういうもんすか」
「おうよ。マメチビ元気にはまだわかんねーだろけどな」
「マメチビは酷くない!?」
「女々しい事言いやがるお前が悪いんだぞマイクロチビ。器の大きさときたらマクロ級まであるぞお前」
「余計酷い!?」
「じゃあ聞くけどよ」
「あん? どした玲」
「千華の事ではないのか。後悔ってヤツ」
「…………ねえよ」
多分。
さっきまでと打って変わって小さなボリュームで添えられた一言が、やけに重たい。
「つーかよーもっと千華と仲良くしてえんだよなーどうすりゃいいんだ俺はー」
「嫌われてるもんねーあんた」
「待ーった由紀さんそれは待っただ! 嫌われてはいねえぞ! 多分!」
「根拠は?」
「ウザいだなんだと頻繁に言われるけどよ、嫌いだって言われた事一度もねーもん」
「…………なるほどなあ……」
「な、なんだ玲。何がなるほどなんだよ?」
「いやあ、千華は健気な子だと思ってよ」
「なんだそりゃ?」
「千華はよ、あいつのお願いを叶えようとしてるんだろうなあ、ってさ」
考える。そして思い出す。山吹先輩のお父様が語ってくれた、エミーさんと東雲先輩の最後に触れ合った日の事を。
嫌いにならないで欲しい。好きになって欲しい。でしたね。
あ。ヤバ。また泣く。泣いちゃう。けど我慢っ。小春は強い子元気な子っ。
「ち、ちかぢゃぁん……!」
白藤先輩ボロクソ泣き再開しちゃったけど私は我慢よ我慢するのですほんとにっ!
「ほーん。やっぱ可愛いよなあ! 俺の娘はよお! なあ玲!」
「ま、俺らが育てたんだからな」
「知ってるー! お前やっぱいいヤツだよなー!」
「お、おい絡むな! 酒臭いんだよヘナチョコ役者!」
「あんだとこらー! プロポーズも同棲の提案もぜーんぶ由紀任せだったフニャチン野郎にヘナチョコ呼ばわりされたくねーなあ!」
「ばっ……! こいつらの前で余計な事言うんじゃねえクソ朝陽!」
「懐かしいねー。どんな服装で行っていいかわかんなくてサイズの合わないお義父さんのスーツで両親とこ挨拶来てゲラゲラ笑われたのも随分昔の話になっちゃったねー」
「お前まで要らん事言うな!」
「照れるなよーバカ玲ー」
「うっせーぞアホ朝陽!」
ジョッキ片手に持ったまま押し合い圧し合いを始める大人二人。
「変わんないねーあんたたちは。いつまでもクソガキのまんまだ」
「クソガキじゃねーし!」
「クソガキじゃねーし!」
「あ!?」
「あ!?」
仲良しな二人を見やり、山吹先輩のお母様が心底楽しそうに微笑む。
確かに、朝陽さんの言う通りかもしれません。
朝陽さん。玲さんに由紀さん。誰かがエミーさんの事を後悔していたら。というか、後悔を引き摺っていたとしたら、こんな光景は産まれていなかったのかもしれませんね。
後悔なんてしてないと言い切れる朝陽さんと、同じ思いだろう玲さんと由紀さん。皆さんのご両親。
そして、エミーさん。
私は、皆さんにお礼が言いたいです。
「結局いつものノリじゃん」
「ダウナーな雰囲気は似合わないからね、この人たちには」
「バカ騒ぎし過ぎるのも考えものだけどな。歳考えろっての」
「お、お店には迷惑掛けないで……欲しいな……あぅ……」
皆さんが出会い、触れ合い、築き上げて来た全てが、私の兄のような姉のような、この先輩方を作ってくれたのです。
私如きが何を言ってんだって話かもしれませんけれど。
ありがとうございます。本当に、ありがとうございます。
当たり前みたいに皆さんが一緒にいる未来を作ってくれて。
エミーさん。たらればの話なんて意味がない事はわかっていますが、思わずにはいられません。
叶うなら、お話してみたかったです。一緒に遊んだりお買い物したり、たくさんの事をしてみたかったです。
こんな私ですが、友達になってもらえたかも、なんて。
今度改めて、ご挨拶に伺いますね。
東雲先輩が作った、少し不恰好な写真立ての中で、皆さんを見守っていてくださる、エミーさんの元に。
ねえ、東雲先輩。
先輩にお尋ねしたい事が出来ました。きっと答えは変わらないのでしょうけれど、それでもという質問が。
この団地と、この愉快な皆さんと離れ離れになる。
本当にそれでいいんですか?
それと。エミーさんの話を東雲先輩の口から聞いてみたいなって、そう思います。
あの人なら、きっと笑顔で。心底楽しそうに自慢話をしてくれるんでしょうから。
もっと。もっともっともっと。この人たちの事が知りたくなりました。
「はあ……」
本当に。本当に本当に本当に。長い夜になりました。
* * *
数え切れない思い出たち。忘れた事なんてない。あの人との思い出はどれもこれも眩しくて。バカみたいに楽しくて。
まだ覚えてる。覚えているよ。
俺は、託されたんだ。
自分が近くにいてあげられるのはあと少しだって知っていたあの人から、先の事を。あいつの事を。
言われるまでもない事だと思った。けれど託されたんだから、今よりもっと頑張らないとって思った。
あの人から合格点がもらえるかはわからないけど、俺に出来る事はしてきたつもりだ。
その間ケンカばかりだったな。あいつときたら人の話は聞かないしアホだし我が強いし方向音痴だしアホだしアホだしナチュラルに口悪いから直ぐ揉め事起こすしアホだしナルシストだしアホだから、とにかくケンカばっかりだったよ。
いちいち我慢とかしないでちゃんとケンカして、なんとなく自然に仲直りして、またケンカして。そんな事だらけだったけど、俺なりに頼まれ事を果たしてきたつもりだ。
でも、わからなくなったよ。
ねえ。俺、今日告白されたんだ。二つ歳下の可愛い女の子から。
その子の気持ちに応えられかったよ。どうしてかって? 好きなヤツがいるんだって言っちゃったからさ。
誰だよそいつ。ほんと、誰なんだろうね。
でさ、その子が俺に言ったんだ。叶えてくださいね、夢。ってさ。
俺の夢ってなんだろ? 小学生になってから始めたサッカーでああなりたいこうなりたいってのは思い描いたような気がするんだけど、なんか違うんだよなあ。
そもそもさ、夢ってなんなんだろうね? なんかわかんなくなっちったや。どうしようねこれ。
ごめん。一つ質問するね。
俺はいつまで、そうしていればいいの?
これから先と、曖昧な表現だったのは覚えている。そのこれから先ってのは、何時から何時までを指すのかな。
具体的に何時までか教えて欲しいわけじゃない。縛られているつもりもない。呪いだなんて思った事もないよ。
ただ、答えが出ないんだ。
どうしていいかわからないの。
知ってると思うけど、あいつはいずれこの国を離れるって。この家を出て行くって言っててさ。
きっとあいつを止める事は出来ない。笑顔で見送る自信もない。俺に出来る事が、一つもわからないんだ。
ただ。漠然と理解している事が、一つだけあるんだ。
あのアホに。俺にしか出来ない事がある。
これだけは、わかるんだ。
だから余計にわからない。
「俺、どうしたらいいかな。えっちゃん」
俺の家の隣。今では小さな女の子とご両親の三人家族が住んでいる、1011号室の扉を撫でながら問い掛けてみたけれど、聞こえてくるのは一家団欒の喧騒だけだった。
「……っ!」
なんか無性に腹が立って、家の扉に蹴りを入れてしまった。
黄金の左足なんて言われた事もある爪先から走るジンジンする痛みと罪悪感の所為だろうか。こんなに息が詰まるのは。
俺はこの先何処で。誰の隣で。生きていくんだろう。
* * *
後悔。あのチビは俺に言った。
何一つ後悔のない人生などない。チビにも言った、俺の自論だ。
人間は万能じゃないくせに欲深い生き物だから、歳を重ねる毎に自分の手中に収めておきたい物が増えていく。そうして両手が塞がってしまうと、誰かと手を繋げなくなってしまうし、何かを零してしまう。
誰かと手を繋ぐ事を望むなら、何かを捨てなければならない。一緒に抱えると言ったって、手を繋ぐ相手にだって欲望はあらぁね。共有ってのはなかなかどうしてね。
そこで諦めた物。拾えなかった物。手を繋げなかった者。
それが後悔。悔やんでも悔やみきれない、一生消える事のない蟠り。
なら、俺はどうか。
あいつとの事での後悔か。実際どうだろう。あのチビの前では見得を切ってみせたけど、考える事すらなかったような気がする。というかやっぱり無いと思うのだが。そんなもん胸に抱えていたまま何年も何年も離れ離れなんてあの頃の俺には出来なかったろうしなあ。
なら、千華の事ではどうか。
一つ、あるかもしれない。俺は、片親に育てられるという事がどういうものか知っている。育てる側の苦労も理解しているつもりだ。それと、育てられた側の、言葉にするのが躊躇われる寂しさも。
それを知っていながら、千華の元にいる事を選ばなかった。千華からみればこの上なく自分勝手だろう、俺の都合で。
その事に感じる暗澹としたこの思いは、後悔と呼称されるべきものなのかもしれない。
しかし少し違う気もする。後悔なんて呼ぶべきものではないような気もするんだ。正直、わからない。わからないけれど。
ただ一つ。ただ一日。ただ一夜。ただ数十分。
後悔かもしれないが、後悔じゃないかもしれない、そんな瞬間に覚えがある。
今でも、あの夜の俺自身が、俺にもわからねえんだ。
それはもう、十年以上も前。
あの日。オカルトかよって話なのだが、今直ぐに行かなくてはいけないという、不思議な感覚に包まれた。あーだこーだ理由を付けるのも自分の予定も何もかもすっ飛ばして、飛行機に飛び乗ったんだ。
玲も由紀もあいつらも。当然千華も、子供たちも知らない。
俺とエミー。二人きりの、最後の夜。
その夜。日本へ向かう最終便の窓から見えた空は、分厚い雲に覆われていた。
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