「たいようのものがたり。12」

 あの日、親父のお下がりのキャリーケースに必要最低限の物を詰め込んで飛び乗った飛行機のシートの感触なんて、もう忘れちまった。


 驚くほど早く、時は流れていった。


 何も知らない異国の地。何も知らない大人の世界。詰め込まねばならない事があまりにも多過ぎて、カレンダーに置いてけぼりにされないよう無我夢中な日々。楽しめ! なんてエドワーフさんには言われたけど、これっぽっちもそんな余裕なかった。


 ケイトの言っていた事に嘘偽りも誇張さえもなく、仕事が絡んだ途端エドワーフさんは、リアルに鬼になっていた。何度も何度も怒られた。現場に怒号が響く時、矛先はいつだって俺。本番の撮影に入る以前、演技指導の段階だけで一生分以上に怒られまくった。お釣りだけで来世ぶんくらいは余裕で間に合っちまうんじゃねぇかな。


 そもそもの英語力が足りなさ過ぎ問題を解決すべくめちゃくちゃ勉強もした。エドワーフさんが直々に面倒を見てくれたりもした。英語の指導の時と演技の指導の時とではまるで顔付きが違うのがおっかなくておっかなくて。しかし、お陰様で日常会話以上の英語力はどうにかこうにか身に付いたと思う。渡米前にしていたケイト先生とのお勉強タイムがなかったらもっと苦戦していただろう。


 向こうでの生活は、意外に苦労は少なかった。初めこそ文化の違いに戸惑いまくったけど直ぐに順応出来た。


 何より俺の助けになったのは、ケイトの存在だ。


 結構な距離だろうに、折りを見ては俺の住まいへやって来て、あれこれと世話を焼いてくれたのだ。


 心から信頼している、なんでも話せるケイトが通ってくれていなければ、もっと鬱屈した日々を過ごしていたかもしれない。本当に本当に感謝している。


 着の身着のままで来たみたいな状態だったもんで不足気味な洋服は、エドワーフさんが買い与えてくれた。完全にエドワーフさんの趣味なもんで、奇抜なデザインだったり蛍光色の主張がめちゃ激しかったりとか、パンチの効いた物ばかり与えられた。最初こそ抵抗感半端なかったけど今ではすっかり慣れちまったや。いい事なんか悪い事なんかわかんねえな。


 長い下準備の期間を経て、撮影が始まった。生まれてこのかた一度も着た事のなかったパリッとしたスーツや、見るからに高そうなレザージャケットの下に防弾チョッキ。日常生活じゃ着る事のない代物たちが、俺の衣装。似合っていねえなあと自分じゃ思っていたのだが、周囲には好評だった。


 他の演者さんたちはもちろん、スタッフの全員が俺より年上。日本どころか、アジア圏出身の人などいなかった。


 それでも、無名どころかど素人同然の日本人に、関係者の皆さんは優しかった。演者さんの何人かは俺の事をたいそう気に入ってくれたらしく、家に招待されたり、数少ないオフの日に連れ立って出掛けたり、オンエアを一緒に観たりと、とても良くしてくれた。エドワーフさんを筆頭に、後に長い付き合いとなる友人がたくさん出来た。


 初めてカメラの前に立った時は緊張と胃痛で死にそうになったりしたもんだが、以降の撮影ではさほど緊張する事もなく、下手な英語なりに噛んだりセリフトチったりってのもほとんどなかったんじゃないかな。気に入らない所があったらエドワーフさんのデカイ声が響くからね。


 アクションシーンは楽しかった。殺陣師の方や相手役の人らに、君上手いね、なんて褒められたりもした。嬉しかった。そりゃもうめちゃくちゃ嬉しかった。後に見返して、様になっとるやん! 俺カッコいいじゃん! なんて興奮したりなんかしちゃって。役作りの一環で体鍛えたりもしたんだ。お陰様で綺麗なシックスパックの出来上がりだ。日本に帰ったら玲に自慢してやるつもり。


 当然本物じゃないけど、銃を手に取った。偽物ながらずっしりと重くて。


 ああ。これは怖いな。


 握りながら、演じながら、偽物の引き金を引きながら、そう思った。いい経験になったのは間違いないけど。


 2クール、全二十四話。俺の出番は一話から、テロリスト集団との交戦中に負傷して戦線離脱してしまう二十一話までと、最終話に少しだけ。二十一話まではずっとセリフもあったし、主役を食うくらいの活躍シーンも用意されていた。


 つまり。ほとんど出ずっぱり。


 物語の中盤戦撮影時、まとまった休みを取ってくれと言われたタイミングがあった。一日二日なら日本に戻れそうな時もちょいちょいあった。しかしどれも、俺から辞退した。


 何かもがゼロから。周りの役者たちにはあって、俺にはない物があまりにも多過ぎたから。日本に戻ってあいつやあいつらに会いたい思いはあったけど、休んでなんかいられなかった。


 目の前の事だけで、本当に精一杯だった。これっぽっちの余裕もなかった。


 足りない頭をフル回転させながらがむしゃらに走り続けていたら、いつの間にか撮影は終わっていた。


 目の回る日々の真っ最中には思えなかったが、振り返ってみれば、なかなかに楽しい日々だった。


 作品の評価は上々。アメリカ国内では、本年度上半期人気ドラマランキングでトップスリー入りを果たした。続編を期待する声も多数聞こえているとかなんとか。


 そして、俺。


 ドラマ放映、延いてはキャスト発表以前は、どんなに発達したコンピューターを駆使してもどこにも引っかかる事なんてなかっただろう、俺の名前なんて。


 しかし、状況は変わった。


 アメリカ国内では、あの新人悪くないな、くらいらしいが、CS放送等で放送された俺の生まれた国ではちょっとした盛り上がりを見せたらしい。劇団赤い羽に取材が来たりもしたそうな。彼に取材させて欲しいんだけど、的な連絡がドラマスタッフの元に来たりもしたらしい。


 俺の予感通り。エミーの言った通り。


 この経験は、大きな大きな前進になった。


「さて」


 エドワーフさんが用意してくれた、俺専用の寮と言っても過言じゃないマンションの一室。ここに足を踏み入れて、約一年が過ぎた。一人暮らしには広過ぎる空間に、今では居心地の良さすら感じている。しかし、俺の家はここではない。


「帰るか」


 お土産は用意していない。代わりに、たくさんの土産話を抱えて行こう。


「待ってろ、ジャポン」


 一年振りに、我が家へ。


* * *


「朝陽ー!」

「来たね」

「こっちですー!」


 耳に覚えのありまくる声の鳴る方に首を向けると、一年振りの面々がいた。


「やーおかえりおかえりー! ちょっと背伸びたんじゃないのー!?」

「かもなー」


 ガサツな感じは相変わらずだが、この一年の間に更に魅力の増した感のある幼馴染、蕗子。エロパワーマシマシだなあ。


「何そのアロハシャツっていうか、アロハジャケット的なの。これまた随分と奇抜なの着てるじゃない」

「そうか? そうかもな」


 こうして普通の会話してる分にはハンパねーイケメンの海翔。眼鏡変えたな?


 そして、もう一人。


「久し振りです朝陽くんー! 元気してましたかー!? あ! ドラマ観てましたよー! めっちゃカッコよかったですーっ!」


 俺が渡米する直前に知り合った、俺らと同い年で、少し背が低くて、童顔で、巨乳で、頭脳明晰で、酢豚にパイナップルはNGで、きのこ派で、眼鏡の良く似合う、ボブカットの女の子。


 尖り気味の性癖を持つ海翔のお眼鏡に叶いまくってしまった女の子。みのりちゃん。お胸の実り具合を名前で現していくスタイル、すごくいいと思う。この年下年下している語り口も海翔のドツボだったらしく、出会って数日で告白まで持っていったらしい。しかもオッケーされたとか、こっちが驚くわ。


「性癖の天井まで……届いていなかったんだな俺は……ここが……極地…………絶景……」


 彼女と大学内で知り合った翌日の海翔のセリフである。うん、気持ち悪い。


「ありがとね、みのりちゃん」

「はいー! あ! でもでも、かーくんの方がもーっとカッコいいですぅー!」

「ありがとう、みーちゃん。みーちゃんこそ、世界一可愛いよ」

「ありがとーかーくんーっ!」

「ウザッ」

「ウザッ」


 ひしっと抱き合うウザップル。他所でやれや他所で。


 この鬱陶しいお惚気も久し振りだなあ。色々と思う所はあるけど、気の合う相手と出会えて一緒になれたって事が大切なわけで。このウザップルの行く末も楽しみだ。


「朝陽、何か言った?」

「蕗子ちゃん、何か言いましたー?」

「いえ何も」

「いえ何も」

「って、迎えはお前らだけか? 山吹夫婦も来るとか言ってたんだが? それにあいつも来てねーし…………どした?」


 良い女度右肩上がりの蕗子とバカップルから話題を逸らした途端、三人揃って表情に影が差した。


「……なんかあった?」

「その…………あの子が……その……」


 口ごもる蕗子。この短い人生のほとんどを一緒に過ごしてきたけど、こんな姿を見るのは初めてかも。


 なんて、脱線気味な思考を、蕗子の前に割って入った男が、本線に引き戻した。


「俺から言うよ。昨日、エミーが倒れた」


 瞬間、背筋が冷え、汗が吹き出た。


「いつものヤツだと思うけど、出先でいきなり意識を失って倒れたから大事を取って病院に運ばれた。軽くだけど頭も打ったみたいだったから。玲と由紀が付き添いで今も」

「場所は?」

「……案内する。車出すよ」

「頼む」


 キャリーケースを手に持ち、大勢の観光客の間を早足ですり抜ける。同じく早歩きな海翔に付いて行くと、海翔パパの車と一年振りの再会を果たした。助手席にはみのりちゃんに乗ってもらい、後部座席に蕗子と乗り込んだ。


「かーくん、急ぎなのはわかるけど、安全運転ですよ?」

「わかってるよ、みーちゃん」


 交通ルールにはうるさい海翔だ。大丈夫だよ、みのりちゃん。


 発車からほどなくして高速道路に入った途端、渋滞に捕まった。


「混んでるな……」

「どれくらいかかりそうだ?」

「渋滞次第だけど……一時間以上掛かりそうだね」

「そうか」


 目を閉じ、外界からの視覚情報を遮断する。眠気が来たとかじゃない。心を落ち着けているとかでもない。単に、こうしたかっただけ。確かに焦燥感はあるはずなのに、焦りはないんだよな。矛盾しているようだが、実際そうなんだからこう表現する以外にない。なんか不思議な感じだ。


「……なあ蕗子」


 あいつらに会う前に、どうしても確かめておきたい疑問が一つ。これは蕗子に聞いていい事なのか。気分悪い思いをさせてしまうのではないか。そう思ったけれど、それでも。


「うん?」

「包み隠さず答えて欲しい。よっぽど無理ならいいけど」

「何?」

「俺、毎日のようにエミーと連絡取り合ってたよ」

「知ってる」

「蕗子たちとも頻繁に連絡してたよな」

「だね」

「けど誰もしなかったぞ。エミーが倒れた話。昨日だけじゃない。俺が日本を離れてから、一度も」

「……うん」

「本当か?」

「…………ううん……」


 やっぱり。


「そっか」

「……ごめん、朝陽」

「そんな声で謝るな。似合わないぞ。殊勝で可愛いなと思うけども」

「うっさい……バカ……」


 珍しく照れてやんの。蕗子がこんな顔すんの、中学の制服に初めて袖を通した日以来じゃねえかな。めちゃくちゃ似合ってたからさ、俺らで褒めちぎったんだわ。そしたらまあ照れちゃって。照れ隠しに拓馬に八つ当たりしてたのまで含めて可愛かったから、よく覚えてるよ。


 ん? どうして目を瞑ってるのにそんな顔してるのかわかるんだって? そんなもん、俺が俺で、蕗子が蕗子だからだよ。


「……怒ってる?」

「いや。ただ…………らしいなって」


 あいつらしいし、あいつららしい。


「…………ごめんね」

「いいんだよ」


 手探りで、ちょっと癖っ毛気味な蕗子の頭を撫でてみた。


「調子乗んな、バカ朝陽」


 ふいっと振り払われてしまった。蕗子を撫でていいのは、学生時代からずーっと付き合っている彼だけって事かな。もう二度とやらんとこ。


 それきり無言になってしまった俺たちを乗せ、からくり仕立ての馬車は、目的地へと足を急がせた。


* * *


「朝陽……」

「来たか」


 コツコツとノック。海翔たちを連れ立って扉を開くと、最後に会った時よりも確実に大人びた由紀と玲がいた。


「おう。ただいま」

「うん。おかえり」

「久し振りだな」

「だなー。由紀、髪短くしたんだな」

「少しね。朝陽はなんかゴツくなったね」

「鍛えてますから。玲、眼鏡掛けるようになったんだな。ファッション?」

「大体そんな感じ」

「違う違う。パソコンの触り過ぎで視力落ちちゃったの。これからの時代、パソコンが使えないんじゃやってけねぇ、とか言っちゃってさー」

「余計な事言うなよ……」

「本当の事なんだからいいでしょ。似合ってるんだし」

「うっせ……」


 照れる玲と笑う由紀。ずっと二人のイチャイチャを見てるのも悪かねえけど、ちゃんと向き合わねえとだよな。


「……エミーは寝たばかりか?」


 部屋の真ん中。大きなヘッドの上。腕に点滴を刺したエミーが眠っている。


「三時間くらい前からすやすや。まだ体温高いまま。倒れた時苦しそうに胸抑えてた。それと、地面に頭をぶつけちゃったみたい。そっちの方は大事なかったって先生が。あと」

「その辺りの話は海翔たちから聞いたから大丈夫。ありがとな、由紀」

「う、うん…………朝陽?」

「なんだ?」

「……大丈夫?」

「…………わかんね」


 何を大丈夫かと問われたのかもわからなかったけど、なんとなくそう答えた。


「……あたしたち、出てようか?」

「なんで?」

「あたしたちに話したい事はあるだろうけど、まずはエミーと話さなきゃでしょ、あんたは」


 そう……だな。うん、そうだ。何よりもまず、この子と話さなきゃだよな、俺は。


「……みんなすまねえ。エミーと二人にしてくれね? エミー次第だけど、今日か明日には帰るから」


 順々に全員の目を見て同意を求めると、頷いたりなんだりと、それぞれの方法で肯定してくれた。


「すまん」

「いいって」

「冷蔵庫に水とか入ってるからな」

「お着替えとかはそっちの棚に入ってます!」

「何かあったらナースコール。そこのボタンね」

「退院するってなったら連絡して。迎えに来るから」

「すまん。助かる。何から何までありがとな」

「やめろ気持ち悪い。似合わねえ真似すんな」

「気持ち悪いは酷くない玲くん……」

「いーからいーから! じゃああたしたちは。エミーの事、ちゃんと見ててあげてね」

「わかってる」


 笑顔で頷く由紀に同調するように四人も微笑んで、静かに部屋を後にした。


「さて…………」


 小さな椅子をベッド脇に置いて着席。一年振りに間近で見る俺の恋人は少しやつれてしまっていたけれど、あの頃より更に可愛く、綺麗になっているのは間違いなかった。


 一年振り、二人きりの空間。この時間、この瞬間をどれほど待ち焦がれていた事だろうか。だから。


「で。なんで寝たフリなんてしてんだ?」


 一秒たりとも無駄にするわけにはいかないので、早速お茶目さんを揺さぶっていく。


「…………よくわかったね」


 ドンピシャリ。あっさり釣られたお茶目さんが、目を開けた。


「寝てるにしてはイビキが静か過ぎたから、なんとなくな」

「ワタシそんなうるさくないのに……」

「体調はどうだ?」

「元気に見える?」

「見えないな」

「つまりそーゆー事っ」


 バカっぽく言って、弱々しくだけど、微笑んでくれた。


「……久し振り」

「うん…………アサヒ、体大きくなったね」

「鍛えたからなあ」

「ドラマ、カッコよかった。最後の方のテロリストと殴り合いしてるとこ、チョーカッコよかったよ」


 あの辺は俺自身も会心の出来だと思ってんだよ。こうして面と向かって言われるのが嬉しいのなんの。頑張った甲斐があったなあ。


「面白かったろ?」

「チョー面白かったっ」

「やったぜ」

「ワタシ、全部録画したから。また観るの」

「お、一人で録画出来たのか」

「出来る! 出来るよー! それくらい全然出来るから!」

「バスは乗れるようになった?」

「なった! 青と赤のバス間違えないようになったしお金の払い方も覚えた!」

「料理はどうだ?」

「唐揚げ美味しく出来るようになった! 時々焦げちゃったりするけど美味しいんだから! ほんとだよ!?」

「なら、今度食べさせてくれな?」

「任せて! 唐揚げとかチョーよゆーでっ、げほっ! げほ、げほっ……」

「大きな声出すからだよ」

「う、うん……けほ……」


 俺に飛びつくみたいに前のめりになっていたエミーの上半身を押して、ベッドに背中を預けさせた。


「もうちょっと安静にしてた方が良さそうだな。今日はここにお泊りだ。俺も付き合うからさ」

「アサヒだけでも帰った方がいいよ」

「いいんだよ。話したい事もあるし。色々」


 言いたい事も聞きたい事も数えきれないくらい。メールだ電話だで近況を伝え合っていたって、まだまだたくさんだ。


「うん……ワタシも」

「何から話そうか」

「じゃあ…………最初はワタシの話、聞いて欲しい。ワタシの事、たくさん聞いて欲しい」


 小さく頷くと、弱々しい笑みを一つ。深呼吸を二回行ってから、口火を切った。


「アサヒがアメリカ行って直ぐ、ワタシ倒れちゃった。アサヒいなくなってから、ワタシ元気じゃない日、増えた。何度もユキたちに助けてもらった。それから今日まで、十回以上倒れたと思う。でも言わなかった。言わないでってみんなにお願いした。アサヒ、気付いてた?」

「ああ」

「……怒ってる?」

「怒ってた。少しだけな。今はもう全然」

「……ごめんね?」

「いいんだよ」

「……あのね」

「いいよ。それ以上は大丈夫だ」

「…………ごめんなさい……」


 心配させたくなかった、ってんだろ? それが余計に心配させるかもしれないってわかってても、それでも。


 その判断を責めるなんて、出来るわけないじゃんか。


「あの……う、うぅ…………あのね、げほっ、けほ……」

「無理して喋ろうとしなくていい。大人しく寝て」

「ううん、話したいの。たくさん……話したい事ある……たくさん……」


 何処か、必死さを感じた。だから言葉を待つ事にした。俺の話はそれからでいい。


「ワタシ…………ワタシね?」

「うん」

「本当に自分の事を世界一可愛いって思った事……一度もなかったの」


 斜め上ではあるのかな、状況的に。しかし予想外かと言われると、俺的にはそうでもないトークテーマだった。


「そりゃそうだよね。小さい頃のワタシ、ベッドで寝てるだけ。髪は痛んでくし肌も荒れ放題だし気持ち悪いくらいに痩せちゃったし。薬が合わなくて吐いちゃった事も何回もある。筋肉なさすぎて一人で歩くのも大変だった頃もあるの。だからワタシ、鏡見るの嫌いだったの。こんな可愛くない女の子、嫌だって思ってたの」

「……可愛くなかったか、小さい頃の自分は」

「うん。だからこのままじゃダメだって思ったの。誰に可愛くないって思われても、ワタシはワタシを可愛いって思いたいから。それに、折角ママとパパが可愛く産んでくれたのに、あんなままじゃいたくない。いちゃいけないって思ったの。ママとパパの為に、ワタシの為にも。だからワタシ、言う事にしたの」

「世界一可愛いって?」


 弱々しく笑いながら、エミーは頷いた。


「言い続けてればそうなるしかないし、言い続けてれば叶うと思ったから。いつか、誰かがそう思ってくれるかなって。だからワタシ、頑張った。頑張ったんだよ? お外に出れなくても可愛くはなれるよう、いっぱい頑張ったの」

「今じゃ本当に世界一可愛いもんな」

「うん……ちゃんとなれた……ワタシ、そう思ってる……」

「俺もそう思ってるよ」

「……よかった……」


 なんつー頭の悪いやり取りだこれ。でも、エミーにとっても俺にとっても、エミーの両親にとっても、揺るぎない事実なんだから、まあいいじゃん。


「それが、ワタシの小さい時の夢。あと」

「少しでも思い出が増やせればよかった。けど今は違う。だろ?」

「……うん…………今、夢いっぱい……やりたい事とか、いっぱいある」


 イリュージョンランドで、俺の背中に身を任せて、話してくれたもんな。


「前よりもっと、もっともっともっと、やりたい事出来た。いっぱいあり過ぎてどうしていいかわかんないくらい」

「そっか」

「アサヒとやりたい事とか、叶えたい事とかいっぱいいっぱいあるんだよ?」

「わかってるよ」


 俺も同じだからさ。


「だから……ほんとはね?」

「うん」

「一緒に……行きたかったの……」


 今まで何度も、体調を崩したエミーの姿を見てきた。力無い声を何度も聞いてきた。


 俺の目には、今日が一番、弱々しく映る。


「そっか……」

「でもワタシ…………アサヒの邪魔になっちゃうって思った」

「……どうして?」

「だってこんなだもん」


 点滴の刺さった腕を持ち上げ、ぷらぷらと揺らしてみせた。


「きっとアサヒ、忙しくなる。知らない事ばっか事やるんだから、ほんとに大変になると思った。だから……」

「言えなかった?」

「……アサヒにたくさんの物もらったのに、なんにも返せてない。それなのに、今度はアサヒの邪魔になろうとしてるって、そう思った。だから一緒に行けなかった」


 そんな事ない。そんなの気にしなくていいんだ。俺こそエミーからたくさんの物をもらってるんだ。


 浮かんだ言葉の全て、どうにかこうにか飲み込んだ。


 一人で悩み、苦しみ、俺を思って決めた事だ。そんな事ないって否定するのも、そんなの気にしなくてよかったのにと言うのも許されないんだ。


 それだけ苦しくても、どれだけ寂しくなるかわかっていても優しく。力強く。笑顔で。俺の背中を押してくれたのか。


「……じゃあこれからは?」

「これから?」

「俺はまた、向こうに戻らなくちゃいけない。知ってるだろ?」

「…………続き、作るんだもんね……」

「ああ」


 エドワーフさん達と共に心血注いで作り上げたドラマの最終回を終えた今、次回作の製作が全世界にアナウンスされた。いわゆる、シーズン2ってヤツだ。俺の続投は決定。恐らく今度は最終回まで出ずっぱりになる。


 そして、これはまだ公に出来ないのだが、シーズン3の製作も予定しているらしく、シナリオ製作にエドワーフさんたちが四苦八苦している真っ最中なのだ。そのシナリオ内には、俺の演じるキャラクターの姿も。


 つまり。まだしばらくの間、アメリカを拠点とする必要がある、と。


「……エミーはさ、どうしたい?」

「…………行けない……よ……」

「でも行きたいんだろ? だったら」

「アサヒ、これから有名になる。もっともっと有名になる。絶対なるの。その時ワタシ、一緒にいたら邪魔になる。一月に一回は意識失って倒れる女、邪魔になるに決まってる」

「邪魔になんか」

「いろんな事したい。いろんな夢叶えたい。全部全部アサヒと一緒に。でも…………朝陽の足……引っ張りたくないの……そんなワタシ……嫌…………ワタシ、ワタシの事、嫌いになりそうだから…………やだ……」


 微かに震える声を隠すよう、頭まで布団を被ってしまった。


「エミーがいてくれると、今よりもっと頑張れると思うんだけどな」

「ダメだよ…………アサヒの前で笑ってられる……自信ないもん……」

「自信ないか」

「不安だし…………怖いよ……」


 いつでも笑顔で、いつでも元気。見る者全てを照らし出す太陽みたいな女の子が、不安に飲み込まれている。こんなにも弱り切っている。それだけ体調が芳しくないというのも当然あるが、この一年間で、よくない物を心の中に溜め込んでしまったのだろう。


 俺の為に。俺の所為で。


 ならば、俺がやるべき事は。俺が彼女にしてあげられる事は。


 俺が、望む事は。


「…………なあ」


 自分の胸に手を当て、静かに走る鼓動を聞く。不思議だ。こんな状況、こんな話の最中で、これからの事を思えばもっと荒ぶっていてもいいはずなのに、えらく落ち着いているじゃないか。


 この子を、もう後戻りの出来ない道に引き摺り込もうとしてる割には、さ。


「お前の不安は、俺が消してやる」


 わかってる。わかりきっている。


「……え?」


 結局俺は、この子から離れたくないんだ。


「だから俺の不安は、お前が塗り潰してくれ」


 それでも。


「無理だよ…………一緒に行けないもん……ワタシ……何の力にもなれないよ……」


 今は無理だって。一緒にいる事で苦しめてしまうんだって、そう言うならば。


「……エミー」


 いつでも好きな時に好きな話をするとか、いつでも手を繋いでいるとか、そういう当たり前の幸せなんて求めない。


「なに……?」


 一つ。ただ一つだけでいい。


 約束を、してくれないか。


「結婚しよう」


 お前が俺の帰る場所。


 俺がお前の帰る場所。


 そういう、約束を。


「…………アサヒ……やっぱバカ……」

「そうかな」

「そうだよ……一緒にいられないって言ってるのに……いきなりそんな事言うの…………バカだよ……」

「かもな。でもまあいいじゃねえか。そうしたいって思っちまったんだから。っていうかずっと前から思ってたんだからな」

「……バカだなあ…………今言うの……すっごくバカ…………変なアサヒ……」


 今の俺に出来る事なんか少ない。まだまだ俺は半人前な大人擬きだ。綺麗事と理想論と折り合いの付けられない甘ちゃんだ。


 それでも。半端者ではいたくねえ。


 今の俺が出来る事全てで、今のエミーを泣かせないように。これから先のエミーも泣かせないように。


 この子とずっと向き合い続けていく覚悟なんて、とっくのとうに出来てんだよ。


「バカでもなんでもいいけどよ……エミー?」

「うん……」

「今が無理ならそれでもいい。けれど、いつかまた、二人で暮らせるその日まで、俺を待っていてくれ。なるべく元気な姿で」

「……出来るかな……」

「出来るかなじゃない。出来る。出来なきゃやってくれ。俺の為に。自分の為に。どうか長生きしてくれ。俺も、お前の為に長生きしてやるから。元気な姿でお前の元に帰ってくるから」

「…………ワタシ、わかるの。どんどん体が悪くなってるの、わかるの」

「そっか」

「だからそんな約束……出来ない…………しちゃいけない…………んだけどな…………」


 厚い掛け布団に包まれた声は、微かに震えている。


「…………ねえ……」

「おう」

「……後悔しない?」

「絶対しねえし絶対させねえ」

「そんな事出来る?」

「俺を誰だと思ってんだ?」

「……アサヒ……ワタシの好きな人……」

「わかってんじゃねーか」


 布団の上から、きっと俺には見せられない顔をしてしまっているのだろう女の子の頭を左手で撫でる。


 体の痛みは消してあげられない。その代わりに、不安を消してあげたい。


「今日からお前は変わる。更に凄くなるんだ。わかるか?」

「わかんない……」

「つまりだ、世界一可愛い女の子から、世界一可愛くて幸せな女の子にランクアップさせてやるって事だよ。この俺の力でさ」

「…………バカ……大バカ……」

「少しバカなくらいがちょうどいいんだよ」

「だね…………アサヒの言う通りだ……」

「……もう一度、言った方がいいか?」


 厚い布越しに彼女を包む俺の左手に、穏やかな振動。首を横に、何度も振っているらしい。


「なら……さ……」

「…………アサヒ……」

「うん」

「ワタシ…………頑張る……いっぱい頑張ってアサヒを……」

「俺を?」


 俺の左手と布団をまとめて押し退けて、彼女の頭頂部から目元まで、ひょこっと布団から生えてきた。


「世界一可愛い奥さんに似合う、世界一カッコいい旦那さんにしてあげる」


 人の事バカ呼ばわり出来ないようなセリフを言いながら、潤んだ目を細めた。


「……吐かせ」

「あぅ」


 左手で頭を撫で、彼女の目元を熱くする何かを親指の腹で拭う。


「じゃあ…………まあ…………どうか末長く、よろしくお願いします、って事で……」


 末永く。


 いつかは、怖くて言えなかったフレーズ。正直、今でも怖い。


 それでも、さ。もう決めた事だから。


 この世の果てまで、この子と。


「よろしくお願い…………されました…」


 鼻をすすりながら微笑む彼女の頬に手を当て、温もりを分け合って、確かめ合う。


 これから先、離れていてもどこにいても何をしていても。俺と彼女は、ずっと。


「ああ……」


 無機質な病室の中。少し肌寒さを感じる秋の夕暮れ時。


 少々色気に欠けた景色の中。俺たちは、左手の薬指と左手の薬指の約束を交わした。


「エミーが元気になったらさ、婚姻届出すより先に、エッチな事しような」

「バカ…………ぐすっ……」


 大粒の雨のように舞い落ちる、暖かな想いの塊に濡らされながら。

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