「影のように実体のない身体を持って生まれた少年」の話⑤

 母は毎日泣きながら僕のそばにいた。


 そのうちに、僕はあることに気づいた。

 日が経つにつれ、母の腹がだんだん大きくなっていく。

 目が霞んで、僕の顔を覗き込む母の顔もはっきり見えないことがあったけど、その変化は確かなものだった。


 母は、父との子を妊娠していた。

 僕のように実体を持たない、生きても死んでもいない人間じゃなく、生きている普通の子どもだ。

 その歳まで父との子どもができなかったのだから、もうあきらめていたところに思いがけず身ごもった子だったのかもしれない。

 母も父もきっとうれしかっただろう。

 二人が急に僕によそよそしくなった理由が、わかった気がした。



 ある日、父は僕のそばから母を引き離して、母にこう言った。


「もうよせ。あの子は幻だ。幻覚なんだ。おまえとあの男との子どもなんて、最初からこの世に存在しないんだよ」


 すると、母は――うつむいてぽたぽたと涙を落とし――うなずいた。



 それから、二人は僕のいるほうを見なくなった。

 姿を見なければ、僕の声も、僕が立てる物音も聞こえない。

 父の言ったように、僕は二人にとって「存在しない」ものになる。

 そうすることを、二人は選んだ。



 そのあとしばらくの日々のことを、僕はほとんど覚えていない。

 記憶すべきことなんて何もなかった。

 母と父が僕に関わってくることはなくなったし、僕自身も、体が苦しくて頭がぼんやりして、何も考えられなかった。


 そんなある日、母が、不意に僕のそばに来た。

 母の腹はもうすっかり大きく膨らんでいた。

 母は「いない」はずの僕を見つめて、

「ねえ、体を起こせる? そこに座ること、できない?」

 と言った。


 なんだかわからなかったが、母がまた話しかけてくれたことがうれしくて、僕は必死でどうにか上半身を起こして、倒れないよう、動かすことができず伸ばしたままの足を両手で掴んだ。


 そうして僕が座ると、父が、タンスを持ってきた。


 父はそのタンスを僕のいる場所に重ねて置いた。

 それは、どの引き出しにも何も入っていない、空のタンスだった。


 僕を隠すためのタンスだ。

 僕は理解した。

 母が僕を座らせたのは、横になったままだと、タンスの端から僕の体がはみ出てしまうからだ。


 上半身を起こして座った僕の体は、タンスの中にすべて収まって、ちゃんと隠れた。

 タンスをどかしたり引き出しを開けたりしない限り、もう母と父が僕の姿を見ることはない。


 僕も、もう動くことはなかった。

 体の感覚はそのあともどんどん失われていったが、足を掴んで座った姿勢は崩れなかった。


 やがて、タンスの外で、赤ん坊の泣き声やそれをあやす母と父の声が聞こえるようになった。


 それから間もなくして、僕の体は、指先も、まぶたも、唇も、何一つほんの少しも動かせなくなって、息もできなくなり、とうとう全身の感覚が、最後の一かけらに至るまで完全に消え去った。




 気がついたとき、僕はこの町にいた。


 今のこの僕は、いわゆる「魂」なんだろうか。

 もともと実体を持たずに生まれた僕だったが、それでも、あの「体」は体であって、魂とは違う。

 なぜなら、僕の体はまだ生者の世界に残っているから。

 なんとなく、それがわかるんだ。


 魂の離れた僕の体は、あのあと少しずつ干からびて、ミイラのようになって、今も相変わらずあのタンスの中に座っている。

 あのタンスの引き出しを開けたら、中にはミイラが見えるわけだ。

 足を伸ばして、その両膝を両手で掴んだ格好で座ってるミイラがな。

 いちばん下の引き出しなら僕の足が、一段目か二段目の引き出しなら、たぶん頭が見えるはずだ。


 でも、そんなことはもう、母にも父にも関係ない。


 母と父があのタンスを開けることは、きっと、一生ないだろう。

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