必要至急の外出(平成30年12月12日)
二子玉川駅のホームは一時、騒然となった。
臨時休業や在宅業務の動きも見られ始めてはいたものの、朝のラッシュ時における利用客数の大幅な減少には至らず、むしろ例年を遥かに超える規模のいわゆる「着ぶくれラッシュ」が大きな問題となっていた。例年通りの気温の低下。そして、外出時の感染対策としての重ね着のエスカレート。
噛みつき対策のカーボンファイバー製プロテクターは一躍ヒット、品薄、粗悪な模造品の氾濫という流れから、特に噛まれやすいとされる首と腕だけを守るというスタイリッシュではあるが心もとない設計の問題も相まって、あっという間に下火となった。それなら単に体を布で何重にも覆ってしまえ。ただ、取引先で上着を着たままでは失礼に当たる。といって、いちいち何枚もの上着を脱ぐのも手間だし、相手を待たせる。そんな理由だったのか、ビジネスマンたちは背広の下に下着やバスタオルや腹巻きを何重にも巻いて行き、急激に、はちきれんばかりに肥大し、重ねたマスクと何重にも巻いたマフラーによって、風邪っぴきヘルニア持ちの小顔な相撲協会の幹部のような、ややこしい姿に仕上がった。頭を噛まれる事例が報じられると、さらにニット帽を重ねてかぶり、靴が脱げた拍子に足を噛まれた事例が報じられると、靴下を重ねばきした。大きなサイズのスーツや靴の注文が殺到し、Lサイズ専門の服屋が売上記録を更新し、道行く人々のシルエットはどんどん丸みを帯びていった。
結果、なんだかんだで通常よりも深刻な混雑となっていた二子玉川駅。大井町線と田園都市線の上り電車が通る三、四番線のホームのどこからか、声が上がった。
「かまれてる!かまれてる!」
大井町線側ホームのある一点から人の波がゆっくりと放射状に広がる。着ぶくれで関節の可動域が狭く、太ったヒヨコのような走り方である。ホームドアに押し付けられる者もいたが、幸い、みんな防御力は高い。すぐにホームの柱に設置されている刺股の頭上リレーが始まり、計三本の刺股が騒ぎの中心へと速やかに送られ、噛んだ者と噛まれた者が取り押さえられた。着ぶくれの人混みをかき分けて、やはり着ぶくれした駅員が駆けつけ、拘束された二体の上半身に麻袋をかぶせ、縄でしばって連行した。客、駅員ともに、この一ヶ月ほどで着実に経験を重ね、こういった事態の際の対処法、着ぶくれ状態での体の動かし方、共に上達していた。加えて、頭部の装備を怠っていたという被害者側の落ち度によって、取り押さえる側の罪悪感が和らげられたことも、素早い対処の実現に貢献したと言えよう。
唯一の問題は、熱である。騒ぎ自体が瞬時に沈静化しても、その一瞬の焦りによる心拍数、そして体温の上昇は抑え難く、着ぶくれした体に熱の逃げ場はない。熱気に包まれたホームで、客たちは肩で息をした。学生時代ラグビーで鳴らしたかのような屈強な肩。メガネをかけた者はレンズを曇らせ、マスクの下でふがふが、ふがふが、息を整え電車の到着を待ちわびた。
ホームドアが開き、次いで真後ろに付けた車両のドアが開くと、降車客のためのスペースをなんとか空けて、降車が終わるのを待つ。着ぶくれにより一人ひとりの体積は肥大したが、電車の乗降口の幅は変わらない。乗降の際のマナーは以前にも増して重要になった。今すぐに飛び込みたい気持ちを抑え、待つ。降車が終わると見るや、冷房の効いた車内へとなだれ込んだ。最後に、溢れそうな客を駅員が力技で押し込み、ドアが閉まる。
詰め放題のバターロールのように車内にぎっしりと充填された乗客たちの粗熱を冷房で少しずつ取りながら、田園都市線の上り準急電車は渋谷までの地下区間へと潜った。乗客たちは狭い車内でなんとか身じろぎしながら、コルセットのように分厚いマフラーをずらしたり、バームクーヘンのような袖を少しでもまくったりして、わずかでも熱を発散できるよう努める。
用賀、桜新町、駒沢大学を経由し、段々と車内の熱も落ち着いてきた頃、三軒茶屋でさらに乗客を増やし、混雑はピークを迎え、全方向から均等に押しつぶされた乗客たちの体は、上から見ると正六角形の集まったハニカム構造をなしていた。さらに、新しく乗車してきた客たちは何故か非常に体温が高く、車内の温度も再び上昇し、乗客たちは再度、体から熱を逃がそうともがいた。
と、不意に車内の照明が消え、電車がゆっくりと速度を緩め、停車した。冷房の止まった車内にぎっしりと詰まった乗客たちはパニックになり、誰へともなく戸惑いの声を発し、これと言ったあてもなくもがいたが、動けるスペースなど端からない。熱を逃がすために緩めた布の重装備だけが、さらにほころんでいく。袖は捲くれ、マフラーの下から汗ばんだ首がのぞく。恐怖を無自覚に怒声に変換して発散しようとする者も現れはじめたが、それらにかき消されながら、こんな声も上がっていた。
「かまれてる!かまれてる!」
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