キミノ名ヲ。①/梅谷 百

魔法のiらんど文庫/カクヨム運営公式

桜井兄弟

桜井兄弟

「ちづねえ!!! ご飯は?!」

「ちづ姉! あたしのTシャツ知らない?!」

「ちづちゃん! ゆうがおもらししたあ!」

「ちづちゃああん!!!」


桜井さくらい千鶴子ち づ こ。17歳。

12歳の時にお母さんが他界してから、私が家族の面倒を見てきたせいで、非常に所帯染みた女子高生になってしまった。しかも私たちはこのご時世に珍しい6人兄弟で、私はその二番目。

「はいはい。ご飯はもう少し待ちなさい。Tシャツはたんすの一番上の右。夕、おもらししちゃったの? したくなったらちづ姉に言う約束でしょ? え? どうしたの?」

一度に何人もの人の話を聞くことは、もはや私の特技だ。

自分の時間は正直ないけれど、バタバタとせわしなく動いているほうが性に合っているから、この生活に不満はない。

「ちづ姉! 電話! 父さんから」

「え~? お父さんから?」

お父さんからかかってくる電話は、本当にいいことがない。渋々受話器を受け取って、耳に当てる。

「もしもし?」

『千鶴子? ちょっと頼まれてほしいんだ。私の机の上に書類があると思うんだが……持ってきてくれないかな?』

ああ、と落胆して肩を落とす。

お父さんは忘れ物の名人で、頻繁に忘れ物をする。

これで何回目だと思っているのか。

「ちづ姉! おなかすいたっ!!」

「ちづ姉。算数わかんないよお」

「ちょっと待ってなさい」

電話中でもお構いなしな兄弟の声を、笑って牽制けん せいする。

そして受話器に向けて露骨にため息をく。

「……わかったわ。どこに持っていけばいいのよ?」

『鎌倉駅で待ってるよ』

「かっ、鎌倉ぁ?!」

あまりに意外で、ぽかんと口を開ける。

鎌倉なんて東京から鈍行で1時間くらいかかると思う。

しかも私、生まれてこのかた鎌倉なんて行ったことがない。

『すまん。今日の学会が鎌倉で開かれるんだ。その資料がないと父さん学会で発表できなくなってしまうんだよ』

私のお父さんは大学の教授だけれど、こんなにも涙声で娘に懇願するような威厳も何もない教授でいいのだろうか。

「大丈夫。今からなら、お昼過ぎには鎌倉に着くと思うわ」

『ありがとう! ありがとう!! 千鶴子!』

お父さんが本気で泣きだしたのを聞きながら、無言で電話を切る。

「ちづちゃん、どっかいくの~?」

私のセーラー服のスカートのすそつかんで言ったのは、六番目の妹の夕子ゆう こだった。

幼稚園の年長組で、まだまだ甘えん坊。

「学校行くの?」

私をチラリとも見ずに携帯電話ばかりのぞきこんでいるのは、三番目の妹の月子つき こ

中学3年生で、今が一番の反抗期。

最近髪の毛を栗色に染めて、先生や私からものすごく怒られたけれど、黒に直す気はないらしい。

「部活出ようと思ったけど、お父さんが学会で使う資料を忘れたみたいだから鎌倉まで届けに行ってくるわ」

「鎌倉まで行くなんて災難だよ。ちづ姉、いいように使われてない?」

月子はケラケラと笑ったけれど、やっぱり私を見ようとしない。それが少し寂しさを生む。

「じゃあ月子が行けよ。ちづ姉ばっかり大変だろ?」

「うるさい、大和やまと。あたし今からデートだし、無理」

月子は、大和を一瞥いち べつしてさっさと部屋に戻ってしまった。

大和はそんな月子を見送りながら、ため息を吐く。

「月子どうにかならないかな。最近酷ひどすぎるよ、反抗期。おれちょっと文句言ってくる」

「やめなさい、大和。私はいいから」

月子と大和は二卵性の双子。

だから大和も中学3年生。

2人は顔も性格も全く似ていないけれど、それでも双子のきずななのか、とても仲がいい。

月子がイライラしている時に大和がそばに来ると、そのとげがなくなる。

大和はとても優しくて、一家のムードメーカーだ。

「俺、一緒に行くよ。夏休みで暇だから、鎌倉行きたい」

「俺も行くー!」

後ろから私に抱きついてきたのは、五番目の弟の頼人より とだった。小学校3年生で、まだまだ甘えたい盛り。

「ゆうも、かまくらいくう!!」

頼人と夕が一緒に行くなんて、結構大変になってしまう。

連れていってもいいけれど、どうしようかしら。

「どうしたんだよ? 皆で鎌倉行くのか?」

笑って顔を出したのは、一番上の兄の太一た いちだった。

一番上なのに、ほっつき歩いてほとんど家にいない不肖ふしょうの兄。大学2年生で、なんでも笑って謝れば済むと思っているところが、お父さんにそっくりでまた腹が立つ。

「うん。お父さんが学会の資料忘れたっていうから」

「兄ちゃん、今日暇だから車で連れてってやるよ」

にっこり笑ったその笑顔に、前言撤回しようと簡単に思う。

「本当に?! 太一兄ちゃんたまには役に立つわ!!」

「たまには言うな。まあ旅行気分でいいだろ?」

一番上が、太一。

二番目が、私、千鶴子。

三番目が月子。

四番目が大和。

五番目が頼人。

六番目が夕子。

これが私の兄弟。少子高齢化が叫ばれるこの日本で大家族。

近所でも有名な、桜井兄弟。

私はこれからもずっと母親代わりで、同じような日々を過ごしていくのだろう。

そう思った瞬間に、耳元で鳴る声。

あ、と思って耳を澄ます。

「ちづ姉?」

突然黙った私に、大和が心配そうに声をかけてくれる。

その声にそっと微笑ほほ えんで、また沈黙する。

ほら、聞こえる。

幼いころから、時折だけど聞こえる声がある。

なんとなく私の名前を呼んでいるような気がする。

ただじっと、捕らえるように耳を澄ます。

その波紋のような、小さな声を。

氷色

「ちづちゃあん。ジュースこぼしたあ」

「はいはい。大丈夫。太一兄ちゃんの車が汚れるだけよ」

大きなひとみに涙をめた夕を見ながら、私は動じずに車の後部座席にこぼれたオレンジジュースをき取った。

「俺の車じゃなくて父さんの車だよ。夕、汚していいんだぞ。汚せば、父さん新しい車買うかもしれないだろ?」

「腹黒いよ、太一兄ちゃん」

にやりと笑った太一兄ちゃんに、助手席の大和が呆れた声をだす。

車は時速100キロ以上を出して、高速道路を走っている。

このぶんなら、すぐに鎌倉まで行けそうだ。

「鎌倉って何が美味お いしいの?!」

「頼人。そんなに食い意地張らないの。向こうに着いたらお父さんに美味しいもの食べに連れていってもらおうね」

抱きついてくるその小さな体を、私も強く抱きしめる。

頼人も夕も幼くて、まだまだ甘えん坊。

母親にはどう頑張ってもなれないし、母親として振るまうには限界があると時折思い知らされるけれど、できる限り頼人や夕の力になりたい。

「ちづちゃん、ねむいよお」

「はいはい。少し眠りなさい」

夕も私に抱きついて、小さく丸まってまぶたを閉じる。

「そういえば、月子は?」

「デートだってさ」

大和があきれたような声を落とす。

「あいつも自由だよな。このあいだうちに来た男と?」

「いや違う。また違う男と付き合いだしたよ」

「すげえな。月子も結構簡単に男替えるよな」

「でもあんまり本気になれないって言ってた。けど男は寄ってくるんだってさ。無数に」

「月子は見た目だけは無駄にいいからな」

太一兄ちゃんと大和のやりとりをぼんやりと聞く。

私だって恋がしたい。

いつだって家のことが一番だった。自分の時間は部活の時だけで、恋なんてしている暇がなかった。

でも夕も頼人もまだ幼いから、当分は無理だと思う。あの家は私がいないと回らないのは、嫌になるほどわかってる。

不満はないと思っていたけれど、これだけが唯一の不満。

「千鶴子、眠いのか? 疲れてるだろ。寝ていいぞ」

黙った私に、太一兄ちゃんが声をかけてくれた。

眠くはなかったけれど、うなずいて目を閉じる。

車がアクセルを踏んで加速するたびに、気持ちが重くなる。

このもやもやと胸の奥に巣食う漠然とした不安は、一体なんなのか。

鎌倉は切ないほどの絶望と、苦しいほどの寂しさが詰まっているような気がする。

一度たりとも鎌倉に行ったことなんてないから、そう思うこと自体不思議なことだけれど。


「千鶴子、着いたぞ」

突然、耳に響いたその声に、慌てて目を開ける。

眠くなかったのに、どうやら眠ってしまったみたいだ。

「ちづ姉、よだれ垂れてるよ」

意地悪く笑った大和を見て、慌てて口元をぬぐう。

「つ、疲れてたの。ほら、夕、頼人! 鎌倉に着いたよ!」

2人を揺すって起こすと、まだ寝たいと不機嫌そうにあらがう。

「もしもし? 俺、太一だよ。今鎌倉着いたんだよね。え?うん。デートだっていうから月子以外と来た。今どこ?」

太一兄ちゃんがお父さんに電話してくれているあいだに、ぐずってしまった夕をあやすけれど、なかなか泣きやんでくれない。

鎌倉は観光地で、案のじょう人があふれている。ぐずる夕の声が辺りに響いて、すれ違う人々がまゆをひそめていく。

「夕、すぐお父さん来るからね」

泣いたりぐずったりするのは、寂しさゆえだってわかっているのに、どうしてもイライラしてしまう。

「千鶴子。つるが岡八幡宮おか はち まん ぐうだって」

「え? つるがおか?」

「はちまんぐう。父さんそこにいるんだってさ。鎌倉駅の近くに車停めたって言ったら、十分歩ける距離だと」

「鶴岡八幡宮ってどこだろう? 地図ないかな?」

大和が、きょろきょろと辺りを見回す。私も同じように見回したけれど、残念ながら地図はなかった。

けれど、胸の中で何かが芽生えた。

何かしら、この感覚。

大事なだれかが、向こう側で手を振っているような気がした。

「こっちだよ、きっと」

指を差すと、太一兄ちゃんと大和は一緒に眉をひそめた。

「本当に? ちづ姉適当だろ」

「バレた? でも本当にこっち……」

「あ、本当にこっちだ! すっげえ! ちづ姉ちゃん!!!」

頼人が数十メートル先に看板を見つけて、指を差す。

その方向に歩いていくと、ようやく鎌倉駅が見えて、駅前の若宮大路わか みや おお じという大きな通りをひたすら歩いていく。

暑さがじりじりと肌を焼いて、この身を焦がしていく。

セミの声と大勢の人の声が入り混じり、気持ちが悪くなる。

「ちづ姉? どうかした?」

かげった私の表情を覗きこんで、大和が心配そうに声をかけてくれた。

「ううん。なんでもないわ」

笑って首を横に振り、ほおに伝った冷たい汗を手の甲で拭う。

ああ、またあの声が聞こえる。

名前を、呼ばれているような気がする。

世界の正しい音までみこんでいくほど大きな声。

こんなに大きな声で呼ばれたことは、今まで一度もなかったのに、鎌倉に来てからどうも変だ。

ほらまた、誰かが私を呼んでる。

けれど振り返ってみても、誰もいない。

「千鶴子? どうしたんだよ?」

立ち止まっていた私に、太一兄ちゃんは声を上げた。

「……誰か、私を呼んでるような気がしたの」

「気のせいだろう。ほら行くぞ」

促されて、ふらりと歩きだす。

耳元でまた鳴り始めたあの声を聞きながら、鶴岡八幡宮に向かった。


「お~い。悪かったね」

聞きなれた声が響いて、夕と頼人がうれしそうに駆けだす。

私たちを見て、へらへらと笑ったお父さんに、一気に脱力する。横断歩道の向こうにある大きな鳥居の前で、お父さんと合流した。

「お父さん。はい、資料」

「ここまで本当に悪かったね!! これで首がつながったよ」

大げさに喜んで、お父さんは大事そうに資料を抱えた。

そんなに大事なら抱いて寝ればいいのに。

「首なんか飛んじゃえばいいのにな」

大和がつぶやいたのを聞いて、お父さんは顔を青くする。

「父さんが無職になったら一家全員路頭に迷うぞ!」

「父さんがよりも、ちづ姉がいなくなる方が路頭に迷うよ」

ははっと笑ったけれど、洒落しゃれにならないなと思う。

「それは確かにそうだな……千鶴子がいなくなったら……」

勝手に娘の失踪しっ そうを想像して、青くなるお父さんに呆れる。

「いなくならないから安心して。それよりご飯食べたい」

「そうだな。何を食べようか? こっちに美味しい和食屋さんがあるんだ。少し歩くけど、散策しながら行こう」

お父さんは夕を抱きかかえ、鶴岡八幡宮の中へ入っていく。

お父さんがいなくなっても十分困る。

私はあんなに簡単に、夕をあやすことはできないから。

「鶴岡八幡宮ってどんな場所か知ってるかい?」

「知らない」

っ気なく言うと、お父さんは泣きだしそうになった。

「お父さん、いろいろと千鶴子に教えただろう?」

「私の日本史の成績、わかってて言ってるの?」

お父さんは、がっくり肩を落として項垂うな だれた。

「知ってるよ。源頼朝みなもとの より ともが建てたんだろ?」

大和がフォローすると、お父さんは瞳を輝かせた。

「誰それ? みなもとのよりとも?」

「鎌倉幕府を開いた人。千鶴子、本当に歴史苦手だよな」

太一兄ちゃんが私をバカにして笑うのを見て、ムッとする。

「頼朝さんよりも、義経よし つねさんのほうが知ってるわ」

負け惜しみを言ったけれど、歴史が苦手なのはもう救いようのない真実。

「史学科の大学教授を父に持つっていうのになあ」

お父さんは歴史の専門家だ。

確か専攻は、その時代よりも少しあとだった気がする。

「いいじゃないの、別に」

歴史なんて知らなくても生きていける。

歴史が好き!なんて友達の前で言ったら、今さらちょんまげ?!とか白い目で見られるし、正直興味もないのが最大の理由。

歴史よりも家計のやりくりのほうが、私は断然興味がある。

「あれ? 本宮はこっちだろ?」

参道から突然曲がったお父さんに、大和は声を上げた。

確かに朱塗りの大きな建物は、今歩いている参道をずっとまっすぐ行ったところにある。

「鶴岡八幡宮は帰りに参拝しよう。それより先にご飯だな。帰りもここを通るから大丈夫だよ」

名残なごり惜しそうな大和は、しぶしぶ私たちの後を追ってきた。

お父さんに似て大和は歴史が大好きで、歴史のテストで大和が100点以外を取るのをほとんど見たことがない。

このあいだの全国模試でも、歴史だけずば抜けて成績がよく、それこそ、全国でも五本の指に入るくらいだった。

暇さえあればお父さんの書斎に入り浸って、ミミズがったような文字ばっかり読んでいて、年号やら出来事やらを完璧かん ぺきに覚えて、時折お父さんよりも詳しいことを言ったりしている。

将来はお父さんみたいになるのかしら。

2人が楽しそうに歴史の話をしているのを見て、忘れ物をする性格までは、似てほしくないわと思って笑った。


私たちは鶴岡八幡宮を出て、静かな住宅街を歩いていた。

街路樹の木陰に入ると、冷たい空気が頬を撫でる。

「お父さん、もういいからそこらへんのお店に入ろうよ」

「もうすぐだから。あと10分くらい」

それは10分前にも聞いた、と思いながらついていくと、灰色のアスファルトの上に陽炎かげろうがゆらゆらと揺れているのが見える。

それがまるで、世界が二層になっているような気がした。

足がついている場所と頭のある位置が、どこか食い違っているような違和感を感じる。

その揺らぎに同調するように、ぐらりと視界が歪んだ。

額が締めつけられるような激痛が走り、思わず立ち止まる。

《……な》

え?

《ひな……》

違う。私の名前は千鶴子だ。

鎌倉に着いてから、あの声がまとわりつくように頭の奥で響いていたけれど、はっきりと言葉になって響き始めた。

どういうことかわからなくて、戸惑いばかりが増す。

けれど不思議と怖くなんてない。

辺りを見回すけれど、私をひな、と呼ぶような人はいない。


《ヒナ!!!!!》


はっとして目を見開くと同時に、体が大きく震えた。

心拍数が勝手に上がって、呼吸が荒くなる。

慌ててもう一度辺りを見回すけれど、やっぱり誰もいない。

その代わりに、突然目に飛びこんできたのは真っ白な鳥居。

少し青をはらんで、真冬に氷が厚く張った時の色をしている。

待っている。

どういうわけか、そう思った。

鼻の奥がつんと痛くなって、勝手に泣きだしそうになるのを必死でこらえる。

「千鶴子? そっちは……」

お父さんが心配そうに声を上げるけれど、ふらふらと引き寄せられるように、その鳥居に近づく。

「ちづ姉! どうしたんだよ?!」

大和が私の腕を掴んだ。その力で大きく自分の体が揺さぶられて、鳥居の前で崩れ落ちる。

地面にぺたりと座りこむけれど、浮いた私の右手は自由にならず、誰かの冷たい左手が私の右手を握っていた。

ただしその左手は、手首より上がなかったけれど。

「ち、ちづ姉……、これってヤバイのかな?」

呆然ぼう ぜんと自分の手とその手を見ていた私に、大和は言った。

その声は震えているけれど、なぜか私は全く怖くない。

「……ヤバイのかな」

「父さん!! 太一兄ちゃん!! ちょっと来てくれよ!!!」

悠長なことを抜かした私をあきらめて、大和は大声を上げた。

私の手を取る冷たいこの手は、この鳥居の向こうの神域のような場所から生えているみたいだった。

私はこの手を知っていると、なんの根拠もなく確信し、ようやく会えたと、この冷たさにもっと触れていたくなる。

この寂しくて、でもいとしい気持ちは、一体なんなのか。

その手の向こうに見える白い鳥居が、はかなにじんで見える。

美しい白が、胸を詰まらせて苦しい。

お父さんは、真っ青になっていた。

太一兄ちゃんも、ほうけたまま突っ立っていた。

皆きっと、何が起きているかわからない。

もちろん私も、その手が幽霊なのかなんなのか、よくわかっていない。

《ようやく、見つけた》

突然響いた声を聞いて、幼い頃から心に響いていたあの声の主は、この手の主と同一人物だと気づく。

「……貴方あなたは、誰?」

《私を忘れたのか? 腹が立つ。700年も、待ったというのに》

「忘れたも何も、貴方のこと知らないもの」

《私は知っている》

「ね、姉ちゃん……手首と話してるのかよ?!! や、やめろよ! 離せ!!」

大和は私の空いたほうの手を引いて、その手から逃れさせようと必死になるけれど、その手は私を離そうとしない。

《700年。あの時交わした約束を、今叶かなえよう》

その瞬間、あったはずの地面が、足元から崩れ落ちた。

「あ……!!!!」

叫んだ時にはすでに、声は上の方へ置いてきていた。

暗闇くら やみの中を真っ逆さまにちていく。

恐怖が爪先つま さきから髪へめるように這って、気持ち悪い。

「ちづ姉!!!!」

反射的に声のした方を向くと、大和の体もその闇の中に捕らえられているのが見えた。

大和も私と同じように果てのない闇の中に落ちていく。

「大和!!!!」

空が、閉じていく。

まるで大きな袋の口をぎゅっと絞って閉めていく様子を、内側から見ているみたいだ。

お父さんの顔が、太一兄ちゃんの顔が、頼人の顔が、夕の顔が、まるでその存在がうそだったかのように黒に呑みこまれて消える。

漠然と、思った。

もう、会えない、と。

「あ、起きたわ」

目を開けると、目の前に瞳。

思わず悲鳴を上げそうになって、両手で口をふさぐ。

貴女あなた、どうしたの? 道端に倒れていたのよ。見ない顔だけど、どこから来たの?」

尋ねられているから答えたいのに、上手うまく頭が働かない。

「どうしたんだろう……」

間抜けな答えを返す私に、彼女は大口を開けて笑いだした。

「貴女、頭でも打ったの?! 貴女のせいであたしの計画がめちゃくちゃになったんだから責任取ってよ!」

「計画?」

「そ。家を捨てて大好きな人と遠くへ逃げようと思ってたのに貴女が倒れてるんだもの。見捨てられないでしょ」

「ええ?! 家を捨てる!?」

このご時世、まだ駆け落ちとかあるんだ。

この子、私と同じくらいの年齢だと思うのに、度胸があるわ。

「まあ、別にいいわ。どうせいつだってできるから」

大して気にもしてないというように、彼女はさばさばとした表情で笑った。

笑顔を見て少し安心したら、唐突に家族を思い出した。

「助けてくれて本当にありがとう。改めてお礼に来るね。家族が待ってるから、一度帰ることにするわ」

私、倒れていただなんて一体どうしたんだろう。

頭の奥がぼんやりして、上手く思い出せない。

ただ帰らなければとだけ思う。

かかっていた布団を取ると、てつく寒さが足や手に走って、思わず身震いする。

さっきまで夏だったはずなのにと思ったら、ようやく不安が芽を出して、一気に生い茂る。

そういえば私、あの白い鳥居の前で冷たい左手に掴まれた。そして地面に穴が開いて、大和と共に闇に落ちていった。

「も、もう1人いなかった?! 私の傍に私と同い年くらいの男の子が!」

そう言って勢いよく彼女の肩を掴むと、私の慌てぶりを見てにやりと笑った。

「あら、貴女も男とどこかに逃げる途中だったの? それで行き倒れ? だったら早く言いなさいよ。ここは私の親戚しん せきの家だけど、しばらく行くと私の家があるから数日泊まってくれても構わないわよ」

「ちっ、違うから!!! 弟! 私の弟なの!!」

ぎょっとして首を横に大きく振る。

「そうなの? 貴女1人だったわよ。誰もいなかったわ」

全力で抗った私に、彼女はつまらなそうにため息を吐く。

誰もいないなんて、大和とはぐれたのかしら。

彼女が黙った時、やけに辺りが静か過ぎることに気づく。

車の走る音も、人のざわめきも聞こえない。

「こ、ここって、どこ?」

「ここ? ここは大和の国、十津川郷と つ がわ ごうよ」

「や、まと……とつがわ? 私の弟の名前も『やまと』なの……」

「あら、国の名なんて、大層な名前をもらったのね。貴女の名前は?」

彼女はケラケラと屈託なく笑う。

「ち、千鶴子」

「ちづちゃんね。私、しげ。よろしくね」

大和の国だなんて、いくら私が歴史だけでなく地理にもうといからってそんな都道府県名聞いたことがない。

弟と同じ名前の県名だったら、知らないはずがない。

何げなく彼女を見た途端、ぞっと寒気が走る。

今まで全く目に入ってこなかった。

「し、しげちゃん……。その服……」

「あ、これ? かわいいでしょ。桃色の小袖こ そで一張羅いっちょうらなんだけど、記念すべき日だったから」

しげちゃんの着ていたものは、着物だった。

多分、着物の中の小袖という部類のものなのだと思うけれど、私が知っている着物とは帯が違う。それこそ男の人のつけるような細い帯で、腰の下辺りで結んでいる。

「それよりちづちゃんはおかしな服を着ているのね。どうしてそんなに足を出してるの? 襲ってくれって言ってるようなものよ」

しげちゃんは、私のスカートの裾をじっと見ながら引く。

私のスカートはひざ上5センチ。

もっと短い子は沢山いるし、むしろ私は長いほうだと思う。

「そ、そんなことないわよ。おかしな服って、これ制服よ」

着替えるのが面倒で、そのまま鎌倉に行ってしまった。

そうだ。私、鎌倉に行ったじゃないの。

「せいふく? 何それ」

どうしてこの子は制服を知らないのかと、不審に思って思いきり眉をひそめた私に、しげちゃんも同じ顔をする。

「だから何? せいふくって」

本気で言っているとわかるほど真剣な瞳に、血の気が引く。慌てて辺りを確認すると、おかしなところがいくつも浮かび上がる。

まず電気ではなく、本物の火がともっている。

しかも、一つじゃなくていくつも。

そうしないと明かりを確保できないほどの弱い光が、揺れている。

こんな場所、21世紀の現代にあるかしら?

やけに全てが古くさいし、時計も機械も一切ない。

尋常ではない光景に、握りしめた両手が私の意思に反してガタガタと震えだした。

「どうしたの? ちづちゃん。気分悪い?」

背をさすってくれるその手は、紛れもなく熱を感じる。

「しげ。どうした?」

さっと戸が開いた。

「お父様。ちづちゃんが目覚めたの。けれどまだ体調が悪そうで……」

大きな体をゆすって、布団の横に座りこんだのは、中年のおじさん。

傍で揺れる炎に照らされたその顔はしわが深く刻まれていて、黙ると口がへの字になるから、ダルマに似ている。

「しげの父親だ。ここは私のおいの家だから安心していいぞ。行くあてがないのなら当分ここにとどまればいい。名は?」

ダルマのお父さんの笑顔に安心して、息を吐く。

「さ、桜井千鶴子」

「桜井? この辺りでは聞かないな。なあ、しげ」

「うん、聞かないわね。ちづちゃんどこの人なの?」

「東京……」

いぶかしげに2人は私を見つめた。

「どこの国?って聞いているのよ」

「日本でしょ?」

「それはそうだが……ここは大和の国。摂津せっ つに、きょうの都に、紀伊き いにといった具合でな」

「だから、東京」

言い張った私に、2人はどうしたものかと顔を見合わせた。

「……『とうきょう』という地名ができたのかもな」

「そうね、お父様」

東京は首都なのに、2人はに落ちない顔をしている。

言葉が出てこなくて、なんて反論したらいいかわからない。

それにしてもダルマのお父さんまで着物を着ている。

自分に起こっていることが、全く理解できない。

ううん、なんとなくわかってはいるけれど、そうだと認めたくない。

だってあまりにも非科学的で非現実的すぎる。

「あの……今って何年?」

年号を聞くことは変ではないと思って、尋ねてみる。

「今? 元弘げん こう元年の師走しわすよ」

ぐっと、自分のこぶしを強く握る。

元々短いつめだけれど、爪が皮膚に食いこんで痛い。

その鈍い痛みで正気を保って、この現実にしがみつく。

『師走』はわかる。12月だ。

このあいだ、古文の授業で習った。

でも今は平成の世で、元弘という年号は聞いたことがない。

ここは私の全く知らない世界だ。

同じ日本だと思うけれど、明らかに『別世界』。

途端に込み上げてくる涙に、嗚咽お えつが止まらなくなる。

「ちづちゃん!?」

しげちゃんの驚いた声をきっかけに、立ち上がって走りだした。

纏わりつく絶望や不安から逃げるように、駆ける。

乱暴に戸を開け放すと、白が目の奥まで走った。

自分の荒い息まで、真っ白く染まって見える。

足先を、砂利じゃりの上を、そして遠くまで連なった山々を、月光が青白い光を投げかけて白に染めている。

静寂が耳に痛い。

この瞳に映る世界を全て否定したい。

茅葺かや ぶき屋根に、井戸。電線や車も電灯もどこにもない。

ここは、どこ?

「ちづちゃん!」

どこかにあるはずの私の知っている世界を探して、駆けだす。

ほんの少しでもどんな欠片かけらでも構わないと思うのに、何一つ見つけられない。

絶望感に襲われて足が動かなくなって立ちすくんでいると、突然人の気配を感じて勢いよく振り返る。

感情を失うと、後に残されるのは本能だけだった。

白い月の光が揺れる。

あの時見た鳥居の色と同じ、凍てつくほどの青白い氷色。

ううん、もっと灰に白みがかった色。

二つの瞳が、そのきらめきを受けて光る。

「誰だ?」

光の前に立ちはだかり、別の人が私に向かって乱暴に問う。

月光にさらされたその姿を見て、堪えきれないほどの絶望感が襲った。

あまりの衝撃で自分の体すら支えられずに、その場に崩れ落ちて膝を付く。

「おい?!」

道端にいた数人の男の人たちは、全員着物を着ていた。

みんな時代劇。

「いやあああああああああっっっ!!!!」

絶叫した私に向かって、その氷色の腕が伸びてくる。

「案ずるな」

どういうこと? 安心しろ、という意味?

もう何も考えられないし、何一つ考えたくない。

「すぐに楽にしてやるぞ」

自分の意思とは無関係にガタガタと震える体をその胸に押しつけるように抱きしめられる。

私は鎌倉にいたはずなのに。

元弘元年師走。大和の国。

小袖。着物。ありえない衣装。

タイムスリップ。

これは抗いようのない、事実。

氷色の世界に沈みながら、逃げる場所なんてどこにもないのだと知った。

灰白

そしてなぜこうなっているのか、わからない。

白に薄い青をいた氷色の着物を着た男の人は、私の目の前に座りこんで、なぜか熱心にお経を読んでいる。

徐々に落ちついてくると、これはもしや私のことをおかしな人間と思ったのかもしれないと不安になる。

まあ周りから見れば、正真正銘おかしな人間なのだけれど。

氷色の人の背後では一緒にいた数人の男の人たちが、私の顔を心配そうに見つめている。この人たちは皆オレンジ色の着物を着ていて、なんだか暑苦しい。

そのまた後ろでは、しげちゃんとダルマのお父さんと、もう1人ひょろりとしたおじさんが座ってる。

さっきしげちゃんが「おじさん」と呼んでいたから、この家の主に間違いないと思う。

もしかしてこれは大騒動になっているのかもしれない。

ど、どうしよう。

とりあえず読経どき ょうはやめてもらいたい。

私もう正気に戻ったから!と、なんとか目の前にいる氷色の着物を着ている人に伝えようとするけれど、彼は目を閉じてお経を読んでくれているから全く気づかない。

目を開けて!と念じながらじっと彼を見つめていると、月明かりが降るように差しこんでいるのに気づいた。

冷たい光が、さらにその肌を青く染めるのを見て、思わずごくりと生唾なま つばを飲む。

取り乱していたから全く気づかなかったけれど、この人美形だ。弁慶べん けいかぶるような頭巾ず きんを被っているから全体の姿は不明だけれど、眉目秀麗びもくしゅうれいって言葉がぴったりだと思う。

「皆様。もう夜も遅いことですし、寝具をご用意しましたが……」

小さい声でひょろりのおじさんが、オレンジ色の服を着ている人たちに声をかけると、読経の声がぴたりと止まった。

「休ませてもらいなさい。あとは私1人でよい」

「はっ。ではお言葉に甘えて下がらせていただきます」

オレンジ色の中で、体の一番大きな40代くらいのおじさんがそう言ったのを合図に、男の人たちはひょろりのおじさんに連れられて、さっさと部屋を出ていく。

それと一緒にしげちゃんやダルマのお父さんが出ていってしまって、文字どおり部屋に私とそのお坊さんの2人が取り残された。

どうしようと一瞬取り乱しかけたけれど、これはある意味チャンスだと気づく。

声をかけようと思った時に、彼の唇が形よく歪んでいるのに気づいて、目が離れなくなる。

「そなたのおかげだ。礼を言う」

不敵に笑ったまま、彼はその目をゆっくり開けた。

月の光が反射して瞳が灰色に映る。

その姿が、綺麗き れいおおかみに見えて時が止まる。

「もう、きつねいていないだろう。人間に戻っているはずだ。この私自ら祈祷き とうしたのだからな」

彼が大真面目まじめに言ったのを聞いて、思いきり脱力する。

き、狐?!! このご時世に狐?!!

狐が憑いているだなんてあまりに非科学的だとこの人に訴えても、私の時代の常識がここでは通用しないのは目に見えていたから口をつぐむ。

「……あの、私何もしてないけど」

「そんなことはない。今日の宿が確保できた。外で眠るにはいささか寒くなってきてしまったからな」

外って、さっきの人たちと野宿しているのかしら。

お坊さんだから、修行中なのかもしれない。

それよりもさっき『この私自ら』って言ったけど、もしかしてこの人、お坊さんの中でもだいぶ偉い人なのかしら?

私を元の時代へ帰すすべを知っているかもしれないと思って、勢いよく顔を上げる。

期待を込めて口を開こうとしたら、彼はすでに床に横たわっていた。

「……あの?」

フローリングって、昔の言葉でなんて言うんだろう。

横文字を吐いたところで、絶対に伝わらない気がする。

「どうした」

一向に次の言葉を落とさない私に、彼は苛立いら だったように体を起こした。

「こ、こんな固いところで寝たら、体痛くなるだろうし、風邪をひくわ。オレンジ色の服を着た人たちと寝たら?」

「おれんじ?」

しまった、通じない。

オレンジ色って、古い日本語でなんて言うのかしら。

「あ、あれ……かきの色……」

咄嗟とっ さに柿の色って言ってしまったけれど、食い意地が張っていると思われたら嫌だ。

彼はああ、と軽く頷いて、着ていた袈裟け さを脱ぐ。

氷色をした頭巾も、きぬれの音を立てて冷たい床に落ちた。

やっぱり、狼。

長い髪が、無造作に散る。

月の光に反射して、瞳の色と同じ灰色に見えた。

「柿色。よい、別に。早く来い」

「は?」

「早く」

何を言っているのかわからなくて躊躇ちゅう ちょしたけれど、その瞳の強さに抗えずに彼の傍に座る。

その冷たい手が私の腕を掴んだのを感じて、思わず目を見張る。

「この手!!!!」

頭の中が一気に飽和状態になって、言葉が落ちない。

ただ、手と彼の顔を交互に見ながら、口をぱくぱくさせた。

「手がどうした。間抜けな顔になっておるぞ。それよりそなたの名はなんだ」

間抜けと言われたせいで一気に頭の奥が覚めて、恥ずかしさが込み上げてきた。

「ち、千鶴子。桜井、千鶴子」

「ちづこ?」

「そう。千の鶴の子供って書いて、『千鶴子』」

突然彼ははじかれるように笑った。

やけに大笑いするからムッとする。

「貴方の名前は?」

名乗ったんだから、そっちも名乗りなさいよ、と思って尋ねる。

彼は私をじっと見つめて、声を出さずに微笑んだ。

その笑顔が、単純に綺麗だと思う。

やっぱりこの人、眉目秀麗。

「……尊雲そん うん

「そんうん、さん?」

おかしな名前ね、と言おうと思ったけれど口をつぐむ。

お坊さんなのだから、大抵そんな変な名前なのだろう。

「そうだ。それより大層な名を貰ったものだな」

「何それ。どういう意味?」

「『鶴』を名乗るには早すぎる。まだせいぜい雛鳥ひな どりだな」

絶対馬鹿ば かにされていると思って、彼の意地悪な笑顔に思わず叫んだ。

「早いって貴方ねえ!!」

「ヒナはおかしな着物を着ているな。どう脱がすのだ」

『ヒナ』と言ったその声に、息を呑む。

頭の奥に残る、あの声を思い出す。

心拍数が急上昇して、ガタガタと指先まで震えだす。

「も、もう一度……」

声を上げた私を、彼は訝しげに見つめるけれど、そんなことに構ってはいられない。

「『ヒナ』って、もう一度、呼んで」

生まれた疑惑を確固たるものにするために、もう一度呼んでほしい。

私の腕を掴んでいた手が静かに離れて、私の頬に触れる。

その指先の冷たさに、背筋が急にぞくりと震える。

「何度でも呼んでやるぞ」

この手はまさに、あの時私を連れていった手だと確信する。

その指先が頬から滑って、髪に回る。

彼の瞳に月が映っていて、その真円しん えんに呑まれてしまいそう。

「……ヒナ」

やっぱりこの声だと思った途端に、胸の奥が苦しくなる。

その灰色の髪が、砂をサラサラとこぼすような美しい音色を奏で、彼の肩から零れ落ちるのを見た。

切なさが、理由わけもなく込み上げてくる。

「ヒナ」

ここに私を呼んだのがこの人ならば、きっと私を元の場所に戻す術も知っているはず。

帰れると思ったら、押しこめていた感情が溢れて涙が散る。

「なぜ泣く」

問われて我に返った時、一体何が起こっているのか全くわからなかった。

彼の顔が近い。

近いどころか、もう、唇が触れそうになっていた。

悲鳴を上げそうになって慌てて後ろにのけぞったら、そのままひっくり返って頭を強く打った。

「なぜ避ける」

彼が呆れたように声を上げた。

軽く脳震盪のう しん とうを起こしたのを感じて、絶対今の衝撃で元々少ない私の脳細胞の大半が死滅したと思って悲しくなる。

「それは私のセリフよ! なんでキスしようとするの!!」

痛みとやるせなさを堪えながら叫ぶと、案の定彼は眉をひそめた。

「きす?」

無邪気に尋ねられて、がっくりと肩を落として落胆する。

込み上げてきた怒りは冷却されるけれど、それとは逆に沸々ふつ ふつと恥ずかしさがき上がってくる。

「く、く、口づけよ!!!」

どうして私がこんなことを叫んでいるのか全くわからない。

本気でお嫁に行けなくなってしまう。

「ヒナはおかしな言葉を使うな。もう師走だ。寒い」

しまった、と思った時には、すでにその手が私の足を掴んでいる。

「触れ合っていれば、温かくなる」

固まった私を見て、彼はにやりと笑った。

彼は狼、で、私は羊?

このままでは私、食べられてしまう!!!!

そう気づいたら、彼の腕を思いきり振り払って逃げだしていた。


上がる息が、真冬の冷気にさらされて真っ白く染まって見える。

あの鳥居と同じ色だ、と少し考えたけれど、思考回路が熱で溶けて何もかも考えられなくなる。

「もうやだ疲れた!!! お願いだからもうやめてよ!」

「何を言う。まだこれからが本番だ」

「本番って、動いたからもう体も温まったじゃないの!!」

「そう言われるとそうだな」

彼は素直に頷いて、私から離れる。

私は振り上げていた拳を下ろして、その場に倒れこむ。

投げ飛ばした座布団やらが、バラバラと部屋に散らばっているのを見つめながら、大きくため息を吐く。

「寝る」

短く言って、彼はその場に横になった。

「貴方ねえっ!」

「ヒナはなぜそんなに抗うのだ」

荒げた私の声によく通る声が覆い被さって、反射的に口をつぐんだ。

「私はヒナを抱きたかっただけだ。別によいだろう、一夜いち やくらい」

さっきまで私は身の危険を感じて、逃げ回っていた。

物を投げ飛ばし、殴るるの追いかけっこ。

彼もなんだか途中から、この状況を楽しんでいたように思えたけれど。

「……何箇所引っかいたと思っているのだ」

確かに結構引っかいてしまったから、痛いところを突かれたと思って口を開く。

「貴方、女の子だったら誰でもよかったんでしょ?」

「……そうだな。でも男などそのようなものだろう」

認められても少し複雑だったけれど、そのほうが話が早い。

「私はね、本当に好きな人とじゃないと嫌なの」

彼は驚いたように目を見張った。

「おかしな考え方だな。ヒナがそのような考え方をしていて、家は大丈夫か?」

その返答を聞いて、呆気あっ けにとられる。

どうして、私の家が関わってくるのかしら。

彼は起き上がって、私の前にあぐらをかいて座った。じっと見つめてくるその瞳は、本気で心配そうに歪んでいる。

「もしやヒナのせいで家に被害があったのか。それで行き倒れか?」

「なんでそうなるのよ!!!」

怒鳴った弾みで、止まらなくなる。

「家に被害なんてないわよ! 貴方が連れてきたんじゃない!! 帰してよ!! お願いだから元の時代に帰して!!!」

貴方が変な術でも使って、偶然あの場所にいた私を連れてきたんだ。

なんだかこの時代は非科学的で、おかしなことばかり言っているから、きっとできるはず。

「帰して! 私、帰りたいの!!! 帰りたい……」

叫んでようやく、自分は帰りたいと切実に望んでいることに気づく。

お父さんも、太一兄ちゃんも、月子も、大和も、頼人も、夕もいる温かい場所に帰りたい。

「だから帰して……。貴方が私を呼んだでしょう……?」

「私はヒナを呼んだ覚えはない」

はっきりと言った彼に、目の前が真っ暗になる。

「よ、んだじゃないの! 私のことを呼んだでしょう?! この手! その声! 間違えるはずなんてない!!」

「呼んでなどいない」

「呼んだ!! 呼んだんだから、元の時代に帰す術も知ってるでしょ?! 教えなさいよ!!」

一歩も引こうとしない私に、彼は困ったように頭を掻く。

「……強情な女だな。私は呼んでなどいない。それに『元の時代に』とはどういうことだ」

「元の時代よ!! 少なくとも私は、ここよりももっと未来から来たのよ! 貴方に強引に連れてこられたの!!」

思いきり彼の顔が歪んで、私を露骨に疑っているとわかる。

「未来? ここよりも?」

「そうよ! ずっと先! 100年、200年、1000年先!!!」

ここが何時代かなんて全くわからなかったからそう叫ぶと、彼はさらに首を傾げた。

「……信じられぬ」

「私だって信じられない」

やるせなさと怒りばかり胸の内に広がっていく。

「お父さんにも兄弟にも、もう二度と会えなかったらどうしてくれるのよ……」

不安が染み出して、八つ当たりするなんていけないと思うのに止まらない。

「泣くな」

その指先がそっと私の頬を滑ると、彼の指を伝って私の涙が散った。

「貴方が呼んだのよ……誰も私のことを『ヒナ』って呼ぶ人はいないのに……貴方が……」

「……言っていることは、真実なのか?」

もちろんと、大きく頷く。

「私が今着ている服の形が普段着。貴方の着ている着物と全然違うでしょう? 私が住んでいたのは『東京』。西暦2010年。平成22年」

突拍子のないことを言ったとわかっているけれど、お願いだから私のことを信じてほしい。

「せいれき2010年? へいせい? なんだそれは。とうきょう? そのような地名聞いたことがない。それに……」

彼は私の制服をじろじろと見つめる。

「ヒナの国の女は、皆こうやって足を出しているのか?」

どこを見ているのよ!と突っこみそうになったけれどぐっと堪える。

「そうよ。さっき貴方がおかしなことを言っていたけれど、私がそういう考えをしていても、家に被害はないわ」

「……そうか。私がヒナを呼んだことは断じてないと言えるが、確かにヒナは妙だ。おかしい」

「呼んだかどうかはどうでもいいの。帰る方法を教えて」

「そんなこと、私がわかるわけがないだろう。呼んでもいないのに帰す方法を知っているなど、おかしな話だ」

彼ははっきり言った。

その目は真剣で、嘘なんて吐いていないのはすぐにわかる。

絶望が、涙へと形を変える。

「すまぬな。泣くな、ヒナ」

私をこの時代に連れてきたのは彼で間違いないと思うのに、唯一の希望ももう闇の中だ。

強引に抱き寄せられて、抗うことなくその腕の中に沈む。

「抱かないと約束する。きっと疲れているのだ。寝よう」


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