デス・サブウェイ
オブリガート
第1話
夏休みも中盤。寝苦しい夜のことである。
都会で一人暮らしをしている大学生の姉から、夜中にいきなり電話が掛かってきた。
『ごめん、寝てた?あのさ、明日どうしても付き合ってもらいたい場所があるんだけど、いい?』
「ん…。別にいいけど、どこ行くの?」
『産婦人科。M沢駅の近くにある病院なんだけど』
「まさか、できたの?」
『うん。だからさ、堕ろしに行くんだ。早い方がいいっていうし。あ、パパやママには内緒だからね?』
まるで健康診断でも受けに行くかのようなあっさりとした口調だが、姉は“中絶”の意味を知っているのだろうか?
私達は地下鉄東西線の起点駅S谷駅で待ち合わせることになった。姉が処置を受ける病院の最寄り駅、M沢駅はこの線の終点だ。
姉は待ち合わせの時間より五分遅れてやってきた。会うのはお正月以来だ。
「ごめーん、支度に手間取っちゃった。朝からあっついね~」
デートでもあるまいし、キャバ嬢みたいな濃いメークに、ショッキングピンクのミニワンピを着ている。
「ねぇ、相手誰なの?」
挨拶も抜きに私は尋ねた。姉は目線を上に向けて考え込みながら、
「うーん…わっかんない」
「乱交パーティーでもやってたの?」
「別にそういうわけじゃないんだけどさ…ほら、あたし今五人彼氏いるからさ」
いや、“ほら”って言われても、そんなこと知らないし。
「ねぇ、椿は彼氏作んないの?」
「私受験生だし、いたら勉強の邪魔になるよ」
「あ~そっか。椿は勉強しか取り柄ないもんね。東北の難関大目指してんだっけ?ま、せいぜい頑張んなよ。ママ達もあんたにはすごい期待してるみたいだし」
姉はいったん言葉を切り、私の服装をチラリと見て顔をしかめた。
「あんたなんでそんな厚着してんの?このクソ暑いのに」
「普通だよ。桜ちゃんが露出しすぎなんだよ。痴漢に遭っても知らないからね」
「はァ?こんなの露出のうちに入んないからね。ってかそのでかいリュック何?あんた何持ってきたの?」
「勉強道具とお弁当」
「はぁ~…あんたってホント色気ないね」
「無駄なものばっかり持ち歩いてる桜ちゃんとは違うの」
「は?無駄じゃないし!化粧ポーチも鏡もデオドラントスプレーもマストアイテムだし!つーかさ、あんた本当にあの大学行きたいわけ?どうせいつもみたいにママ達の言いなりになってるだけなんでしょ?」
ちょうど地下鉄が到着した。私は姉の問いかけを無視し、一両目に乗り込んだ。
通勤ラッシュの時間帯より少し遅いため、車両はそれほど混んではいない。私達は並んで椅子に座り、無言で発車を待っていた。
「ねぇ…」
姉が私を小突き、向かい側の席にすわる眼鏡のオタク風の男性を顎でしゃくる。
「アイツ、さっきからあたしの脚じろじろ見てるんだけど」
「桜ちゃんがパンツ見えそうなスカート履いてるからでしょ」
「ほら、また見た!あの変態眼鏡、超キモいんですけど!ねぇ、他の席行こう」
「もう空いてる席ないよ」
「あ~ムカつく…!こっちは身重のカラダだってのに!」
仕方なく私達は席を立ち、つり革につかまった。空いた二人分の席にはギリギリで乗り込んできた子連れの若い母親が座った。子供は五歳くらいの女の子で、背中にリュックを背負い、両手に白いうさぎのぬいぐるみを抱えている。
「ママぁ。みゆ、あの輪っかにつかまりたぁい」
「ダメダメ。危ないからここ座って」
「ええ~!やだやだぁ!」
『M沢行き、発車致します』
車掌のアナウンスと共に、地下鉄が発車する。
「あのガキ、マジうざい…」
ぼそりと一言呟き、姉はポケットからスマホを取り出して操作し始めた。差し詰めSNSサイトで今の状況を呟くのだろう。
私は目を瞑り、昨日覚えた英語のイディオムを頭の中で三回ずつ唱えていた。
ガタンガタン…シュウウウウ…。
急に、地下鉄が停車した。おかしい。まだ次の駅には到着していないのに。
「何?車両の不具合?」
「人身事故か?」
車両内は騒然。姉もかなり騒いでいた。
「もう最悪!マジであり得ないんだけど!誰だよ、飛び込んだ馬鹿は!」
「まだ人身事故って決まったわけじゃないでしょ。きっとそのうち動くよ」
「そのうちっていつよ?手術の時間に間に合わなくなったらどうしてくれんだよ、もう!」
そんなこと言われたって…。
「なんで飛び込むかなぁ…。自殺するやつってホント自分勝手で困るわ」
私は姉から視線を逸らした。
「あれ…?」
ふと違和感を感じ、連結部分のドアに目を凝らす。
「嘘…」
私はすぐさま姉の肩を揺さぶって知らせた。
「後ろ、見て」
「え?何――――」
振り返った姉は、驚いて大声を上げた。他の乗客達も異変に気づき、ハッと息を飲む。
二両目の車両が、なくなっていたのだ。
ガッタン――――再び車両が動き出した。
「なんだ?直ったのか?」
乗客達が怪訝そうに乗務員室の方を見やる。
一体、さっきの停車は何だったのだろう。何か起きたのなら車掌から何かしらのアナウンスが入ってもおかしくないはずなのに。
こんなの絶対おかしい。まさか、ハイジャックとかじゃないよね…?
そんな物騒なことを考えていた矢先、突然車内で甲高い悲鳴が響いた。
悲鳴をあげたのは三十後半くらいのOL風の女性。真っ青な顔で窓の外を指さしている。
黒い塊のようなものが張り付いていた。大きさはサッカーボールの三倍くらい。上部には無数の目玉が付いており、三日月をかたどったような巨大な口からは大量の涎を垂らしている。
おぞましい化け物の姿に、他の乗客達も一斉に悲鳴をあげた。化け物が窓ガラスを割って車内に入り込んでくる。
逃げ惑う乗客達に、化け物が眼から次々と光線を発射する。
グシャ。グシャ。グシャ。
光線を浴びた十数人の乗客の身体が、目の前で木っ端みじんになって散った。
先ほどまで生きていた人達の身体の一部が、足元に転がっている。ショックのあまり、私達は言葉を失い、その場に立ちすくんだ。
「うわぁぁん!ママぁ、怖いよぉ!」
「大丈夫よ、みゆちゃん…ママが守ってあげるから」
母親は泣き縋る娘をしっかり抱きしめ、椅子の上で体を丸めた。
化け物が近付いてくる…!
「に…逃げなきゃ――――何ぼうっとしてんの椿、早くここから逃げるよ!」
「逃げるって言ったってどうやって?今地下鉄動いてるんだよ?」
「だって早く逃げなきゃあたし達殺されちゃうんだよ!」
「ちょ…今化け物の目光った!またあの光線来るよ!」
「嘘…!待ってよ、どこに逃げれば――――」
「しゃがんで!」
私は姉の服を引っ張ってしゃがませた。
グシャ。グシャ。グシャ。断末魔の悲鳴。肉が飛散する鈍い音。私達は耳を塞いだまま息を潜めていた。
ボトッ。
姉と私の間に、黒い塊が落ちてきた。一瞬ボールが落ちてきたのかと思ったが、それは女の子の母親の首だった。
「わぁぁぁん!ママァぁぁ!」
うさぎのぬいぐるみを抱えたまま、女の子がわんわん泣いている。泣き声に引き付けられ、化け物の眼がギョロリとこちらを向いた。
「危ない!そこにいちゃダメ!」
姉が立ち上がり、椅子の上にいる女の子を抱き上げた。化け物が目玉に光を宿し、光線の準備を整える。
まずい――――姉と女の子が床に伏せる前に、光線が発射されてしまう!
「桜ちゃん!」
キィィィィ…。
突然地下鉄が停車した。
――――なに…?なんで止まったの?
「椿、ちょっと!」
姉が興奮した様子で私に呼びかける。
「あの化け物がいなくなったよ。あたし達、助かったんだよ…!」
私は床に座り込んだまま車内を見回した。
確かにあの化け物が消えている。だがそこら中に散らばっている遺体はそのままだ。
つまりこれは夢ではないということ…。
「一体、何がどうなっているんでしょうかね…?」
生き残った乗客の一人が私達に話しかけてきた。姉が変態眼鏡と呼んでいた、向かい側の座席に座っていたオタク風の男だ。
「わかんないけど…とりあえず助かったんじゃないの?」
姉は適当にそう答え、外へ出ようと降り口の方へ向かった。
「くそっ!開かねーし!」
「あの…開いたとしてもここホームじゃないから、どうしようもないですよ」
「うっせー、変態眼鏡!いいからあんたも手伝いなよ!」
「は…はい!」
姉と変態眼鏡がドアをこじ開けようと悪戦苦闘している間、私は泣きじゃくる女の子に寄り添い、安っぽい同情の言葉をかけてやっていた。
「ママに会いたい…会いたいよう…!」
「泣かないで…。ママはきっと天国からみゆちゃんのこと見守っててくれてるから…」
「やだぁ…!みゆを独りぼっちにしちゃやだぁ…」
「私達がそばにいるよ。ほら、このうさちゃんも。うさちゃんの名前、なんていうの?」
「…おもちちゃん」
「そっか。可愛い名前だね。おもちちゃんもこの名前がすごく気に入ってるって言ってるよ」
「おもちちゃんは喋れないよ。だってぬいぐるみだもん」
「あはは…そうだね。でも心の中でそう言ってるんだよ」
「お姉さん、ぬいぐるみの声が聞こえるの?」
「そうだよ」
「おもちちゃん、今何て言ってる?」
「うーんとね…。ボクがママの代わりにみゆちゃんのそばにいてあげるよって言ってる」
「本当?」
女の子は小さく微笑み、おもちちゃんをぎゅっと抱きしめた。
地下鉄が再び動き出したのはその時だった。
「何…?なんでまた動き始めたの?!」
姉が変態眼鏡をキッと睨みつける。
「あんたがグズグズしてるから!」
「す…すみません」
姉が私達の元に戻ってくる。変態眼鏡も少し間を空けて近くの床に座った。
現在車両にいる生存者は計九名。一応全員無傷だが、あまりの凄惨さに耐え兼ねて嘔吐を繰り返している者も何人かいる。
「この地下鉄、どこまで行くんだろう…。あたし達、生きて帰れるのかな…?」
「帰れるよ…たぶん」
あの化け物がまた現れなければ――――の話だが。
「うわぁっ!」
変態眼鏡が急に大声を上げて私達の背後の窓を指さした。嫌な予感がする。私は振り返るよりも先に姉とみゆちゃんに伏せるよう呼びかけた。
ガッシャーン!窓ガラスを割って、またあの黒い化け物が入り込んでくる。
近くにいる私達三人を真っ先に捉え、目玉に光を宿し始める。
確実にこちらを狙ってきている。もうよけ切れない。逃げることはできない。
私は床に転がっている杖を拾い上げ、化け物に向かって勢いよく振り下ろした。
ぐえっと不気味な叫び声を上げ、化け物が床に落下する。
「死んだの?」
床の上で微動だにしない化け物を見下ろし、姉が訝し気に眉を顰める。
「わかんない。もしかしたら、気絶してるだけとか…」
「その杖貸して。あたしがとどめ刺してやる」
姉は私から杖を引ったくり、両手で握って頭上高く振り上げた。
「気をつけて…まだ動くかもしれないから」
私は後退し、固唾を飲んで見守った。
と、その時――――化け物が急上昇し、体を大きく膨張させた。
ギラリ。
無数の目玉が怪しく光る。
「危ない!」
変態眼鏡が飛び込みタックルのように姉を床に押し倒した。
「痛ったぁ――――」
姉は文句ありげに変態眼鏡を睨みつけたが、彼の肩越しに新たな犠牲者の姿を確認し、言葉を飲み込んだ。
徐々に車両のスピードが落ち、甲高いブレーキ音と共に停車する。化け物も姿を消した。
だが先ほどと同様に窓の外は真っ暗。勿論扉も開かない。
沈黙したまま、私達は長い吐息をついた。
他の五人の乗客も死んだ。生き残っているのは私達姉妹とみゆちゃん、変態眼鏡の四人だけだ。
命って一体何なんだろう。
ギターを担いだ若者も、ブランド物を身に着けた婦人も、弁護士バッジをつけたおじさんも、耳の遠そうなおじいさんも、みんなみんな、一瞬にして死んでしまった。
“死”は絶好の逃げ場だとずっと思っていたが、いざ“死”が近付いてくると、本能が激しい拒絶反応を起こす。
日々受験のプレッシャーに押し潰されそうで、死んで楽になれたらどれだけ良いだろうとか考えてたけど―――――死ぬなんて、とんでもないことだ。
どんなに辛くてもいい。とにかく、“生きて”いたい――――
「もう…ダメだ…次の攻撃であたし達も殺されるんだ」
姉が両手で顔を覆い、絶望の声をあげる。
「そんな…諦めちゃダメですよ!」
変態眼鏡が姉の両肩を掴み、語気を強める。
「諦めたら、本当に死んじゃいますよ。みんなで力を合わせて戦いましょう!」
「無理だよ、あんな化け物に勝つなんて…」
「勝てるよ、きっと!」
私は姉の手を取り、力強く握った。
「今度こそアイツを仕留めよう」
「仕留めるって…どうやって…?」
「桜ちゃん、デオドラントスプレー持ってたよね?」
「うん、持ってるけど…」
「それ、ちょっと貸して。それから――――」
私は変態眼鏡に視線を移し、
「ライターとか持ってませんか」
「あ…はい、持ってますけど…何に使うんですか?」
「ちょっと危ないんですけど、手伝ってもらえますか?」
地下鉄が動き出す。一分も経たないうちに化け物は侵入してきた。
獲物は私達四人だけなので、真っ先にこっちへ向かってくる。
姉とみゆちゃんにはできるだけ身を低くさせ、私と変態眼鏡はそれぞれの道具を持って化け物と対峙した。
「あの…」
そわそわした様子で変態眼鏡が話しかけてくる。
「まだ、ですか?」
「もう少し…。できるだけこっちに引き付けます」
「でも…そろそろヤバいですよ。ほら、眼が光り始めてる…!」
「光線は眼が光って五秒後です。だからそろそろ行きますよ。一、二の…三!」
私はデオドラントスプレーを化け物に向かって勢いよく噴射した。ほぼ同時に変態眼鏡が横からライターの火をつける。ボッと広がる巨大な炎。自家製の火炎放射器だ。
「ギアァァァ!」
炎に焼かれながら、化け物がもがき苦しんでいる。
私達はその場から離れ、化け物が息絶えてくれることをひたすら願った。
「まだ生きてる?」
おもちちゃんに顔をうずめながら、みゆちゃんが不安そうに尋ねる。
「大丈夫、少しずつ弱ってきてるから、襲ってはこないよ」
そう言ってなだめてはみたものの、襲ってこないという保証はどこにもない。
ガッタン――――車両が左側に急カーブし、私達はよろけて床に倒れこんだ。
「なにこれぇ!今度は地下鉄が暴走始めたの?」
「とにかく手すりにしっかりつかまって!みゆちゃん、手離したらダメだよ!」
「怖いよぉ…!」
「大丈夫、きっと助かるから…!」
キィィィィ――――
ブレーキ音だ。また一時停止だろうか。いつの間にか化け物が炎ごと消えている。
『まもなく、M沢駅、M沢駅。終点です』
――――車内アナウンス…?どうして…?
ゆっくりと車両が停止する。
『M沢駅到着です。お忘れ物のないようご注意ください』
プシューっと降り口の扉が開いた。扉の外にはちゃんとホームがある。
「た…助かった!ヒャッホー!」
変態眼鏡が真っ先に外へ飛びだしていく。続いて私達も外に出た。ホームは多くの人でごった返していた。警察や駅員の人もたくさんいる。
どうやら彼らはテロリストによる大量殺人だと思っているようだ。その後警察に色々尋ねられたが、内容はよく覚えていない。
「ねぇ、椿――――」
ホームに降り立ち、開口一番に姉は言った。
「あたし、決めた。やっぱりこの子生むわ」
「うん。私もね…決めたんだ。東北の大学受験するのやめて、地元の短大行く」
「ママ達怒り狂うよ。覚悟できてんの?」
「桜ちゃんこそ、子供産んで育てる覚悟できてんの?」
私達は顔を見合わせて微笑み合い、声を揃えてこう言った。
「あの化け物に比べたら、全然怖くないよね?」
《了》
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