第7話 下水の闇の怪物
(なんだ、これ)
思考が麻痺した。
戻れ。トマが叫んでいる。戻れ。動け。逃げるんだ。
(なんでこんな化け物が、下水道に)
化け物の牙が死体の肩に噛みつき、肉片を撒き散らしながら、がつがつと食い散らかしていく。
『オースター!』
名を呼ばれ、ようやく意識が戻って来る。
それでも指一本動かせないオースターの襟首を、トマが力任せに掴んだ。
『出口にいけ! 進め! 全力で這え!』
どうやって体をねじって方向転換したのかも記憶がない。トマに背中を押され、叱咤されながら無我夢中で管の中を這った。
ピュィイイッと甲高い笛の音が響きわたる。トマだろうか。頭が真っ白だ。這っても這っても出口が遠い。
肉を食らう音がやんだ。
死体を食い終わったのだ。
――ならば、次はどうなる。
風圧を背後に感じた。あっと思う間もなく、トマがオースターの背中を床に押しつけ身を伏せさせた。ガチッと牙が虚空を噛む音がした。トマはすぐにまたオースターの後ろ首を掴んで引きずり起こし、背中を押した。
外に這い出たオースターの腕を、待ちかまえていた掃除夫たちが力任せに引っ張った。軽い体は嘘みたいに飛びあがって、床の上をごろごろ転がる。同じように放られたらしいトマと、どんっと体がぶつかった。
歯の根が合わない。ようやく動いた手は不気味なほど震えている。
傍らでトマが身を起こし、ガスマスクを脱ぎ捨てるなり、腰ベルトからなにかを引き抜いた。
せめて短剣なら格好もついたろうが、それは
だめだ。そんなのじゃ――とっさにトマの腕を掴む。
「大丈夫」
トマは動じた様子もなく錐を構え、管を見据えた。
「じっとしてろ、公爵」
オースターは自分をかばうように立つトマの背中を見上げた。
「汚水、逆噴射!」
誰かがダミ声で叫んだ。
掃除夫がホロロ四号の
管の口まで這い出てきていた怪物が、水圧によって管の内部まで押し戻される。だがそれも一瞬、怪物は激しい水流から抜けだすと、とかげのように壁面を伝いのぼった。
怪物が、
「食らえ――!」
掃除夫が汚水の向きを変えようとホースを動かした直後、怪物が長い尾を
怪物が跳躍した。地面に倒れた掃除夫のそばに着地し、鋭い爪をふるう。
「ぎゃあ……っ」
「縄を投げろ! はやく!」
ダミ声の怒声と悲鳴。鉤爪のついた縄がいくつも投てきされ、そのうちの何本かが怪物の首や前脚に巻きついた。
四方から一斉に縄が引かれ、怪物の半身が地べたに引き倒される。
「もっとだ! もっと投げろ! はやく縄を――」
そのときだ。
目の前に立つトマが、ダミ声でなにかを口走った。
直後、ふっと身を屈めて、駆けだす。
倒れた怪物のそばにある鉄梯子を素早くのぼり、怪物の頭上に回りこむ。
「トマ、危険だ! 縛りが甘い!」
誰かが叫んだ。
だが、トマは梯子から手を離して怪物の頭に飛びうつると、逆手に持った錐を頭頂部に突き刺した。頭蓋骨に当たったのか、錐が弾かれる。
「トマ……!」
怪物が暴れてトマを振りはらおうとするが、トマは両足をしっかりと怪物の首に巻きつけ、腰の工具鞄からトンカチを取りだす。再度、錐を頭にあてがい、その
骨を貫通した。血が噴出する。怪物が暴れる。トマはさらにトンカチを打つ。カンッ、カンッと石をうがつような音が響きわたり、噴きだした赤い血液でトマの顔が真っ赤に染まる。
掃除夫たちは圧倒されたように、その姿を見つめる。
ついに怪物が横倒しになった。掃除夫たちははっと我にかえり、わっと怪物に駆けよった。なおもうごめく胴体をさすまたで押さえつけ、頭や関節に
そうして怪物はようやく動くのをやめ、下水道には割れんばかりのダミ声の歓声があがった。
オースターは呆然としたままトマを見つめた。
顔から返り血をしたたらせ、肩で息をしながら怪物を睨みつけるその横顔は恐ろしいほど精悍で、年齢の近さなど感じさせないほど大人びて、強い生命力に満ちあふれていた――。
「怪我人の応急処置を!」
怒号が飛びかう。あちこちで血を流した掃除夫が横たわり、無事だった掃除夫たちが手当てに走る。
頭上でふたり分の短い笑い声がした。地面にへたりこんだまま呆けていたオースターは、顔を上げ、そこに双子の楽しげな顔を見つけた。
「見たか、アキ。トマの奴、職長が止めるのも聞かずに、ぬめり竜に向かっていった」
「ああ、見たよ、ロフ。危うくみんなを危険な目に遭わせるところだった。こりゃあ、局長に報告しなきゃねえ?」
オースターの視線に気づいてか、アキがにこりと笑って手を差し伸べてきた。
「大丈夫ですか? もう心配ないですからねー」
「ああ、こんな震えちゃって、かわいそうに。俺たちがしっかり守ってさしあげますからね?」
ロフにも腕を支えられ、どうにかこうにか立ちあがる。
双子は騒がしい下水道内を見渡し、笑みを深めた。
「あららー。モルの奴、毒爪にやられてら。ありゃ死ぬなー」
「トマの奴、ぬめり竜に気づくのが遅すぎだよ」
双子がまるで他人事のように言って笑った。
(僕のせいだ)
気づくのが遅かったのは、オースターがうるさく話しかけたからだ。そうでなければ、トマはもっと早くに気づいて、状況も変わっていたのかもしれない。
歩道に倒れているのは、三人。うちひとりは、四人がかりで体を押さえねばならないほど身をよじって苦しんでいる。血で染まった腕は二倍以上に腫れあがり、血管が赤黒く浮き上がって、見る間に腫れた範囲を広げていく。
「毒が回っちまう。誰か、真水を! 血抜きをするんだ!」
オースターは双子を振りかえった。
「医者を呼ぼう」
双子は最高の冗談を聞いたように笑いだした。
「ご冗談を! こんな下水道のどこに医者がいるってんです?」
「大丈夫、大丈夫。あんな痩せっぽちのクズ、死んだって補充がききますから」
「補充って――冗談がすぎるよ!」
叫んだ声が反響し、掃除夫たちが動きを止めて、こちらを振りかえった。
双子は黒い双眸をまん丸にする。そして、これまでの愛嬌をふっと消し去り、剣呑な目つきでオースターをにらみつけてきた。
ひやりとした。
この目つきをオースターはよく知っていた。
春の乗馬大会で、ルピィが、ルピィの取り巻きたちが、ルピィ付きの従者や、ドファール家の者たちが向けてきた眼差しだ。
オースターを「敵」と定めた、あの眼差しだ。
「下水道に医者はいなくたって、マンホールから町に出られるんだろう? さっき〈時計台広場〉の下を通過した。あの広場には名医がいるんだ。呼んでくるよ」
後ずさりしかける足を叱咤し、オースターは双子を見上げる。
ふたりは目配せをし、口元に冷笑を浮かべた。
「だからー、医者が来るわけないでしょー、こんなとこに」
「ドブネズミの治療なんて誰がするかってんですよー」
オースターは焦れったい思いで、周囲を見渡した。トマ。トマならばきっと話を聞いてくれるはずだ。
トマは悲鳴をあげる怪我人のそばにしゃがみこんでいた。オースターは双子に背を向けて駆けだす。
「トマ、僕が街まで行って医者を呼んでくる。アラングリモの名を出せば来てくれるはずだ」
トマはゆるゆるとかぶりを振った。
「無理だ。医者は来ない。来ても間に合わない。――毒が全身に回る前に腕を切るしかない」
トマの右手は、とっくに決意を固めた様子で糸鋸の柄を握りしめていた。怪我人が「やめてくれ」と泣き叫び、別の掃除夫が顔をこわばらせながら怪我人の腕を押さえこむ。
「ト、トマがやるの……?」
「こうなったのは、おれの責任だ。だから、おれがやる」
トマは唇を噛みしめ、糸鋸を握っていない手で顔を覆いかくした。
「なんでだよ。何か月も前から、局に解毒剤の補給を申請してたのに、どうしてこんなことに……くそっ」
オースターはまじまじとトマを見つめる。
「解毒剤?」
「ぬめり竜対策の解毒剤だ。高価だから出し渋ってんだよ、あのケチな局長」
オースターは目を見開き、ホロロ四号のもとまで駆け戻った。運転席の背面にある戸棚から箱型の鞄を引っ張りだし、急いでトマのところまで戻る。
「なにやってんだ。それ、菓子だろ? 今は甘いもん食ってる場合じゃ」
「従者が薬を持たせてくれたんだ。衛生局が常備してる薬だって言っていた。もしかしたらここに――あった!」
銀色の密閉袋に入っているのは、どうやら注射器のようだ。袋に貼られた説明書きを読むと「効能。ぬめり竜、毒針ねずみ、
「これでしょう!? ぬめり竜の毒に効くって書いてある。筋肉内注射だって。これを患部近くの筋肉に思いきり突きたてて……あれ?」
トマが呆然としていた。ほかの掃除夫たちまであっけにとられて、オースターが手にした銀色の袋を見つめている。
「た、大変だ、公爵様が薬を持ってきているって!」
ダミ声のどよめきが起こり、怪我人までが泣きながら歓声をあげる。
「え、えっと、役に立つ?」
「もちろんですよ! 感謝します、公爵様!」
「公爵様! ドファール……じゃなくて、アラ……グ……なんとか公爵様!」
わっと掃除夫たちに囲われ、頬が熱くなった。
役に立てた。自分がなにかをしたわけではないけれど。
「じゃ、どうぞ!」
掃除夫のひとりに怪我人を示される。オースターはぎょっとなった。
「えっ、僕!? む、無理だよ、やったことない!」
「俺たちもないです」
「使ったことないの!?」
「それ、たぶん最新式です。注射器タイプは見たことがない」
「で、でも、袋に説明書きがあるからそれを読みながら」
「文字、読めないです」
絶句する間にも怪我人の腕はふくれあがっていく。
ためらっている時間はないみたいだ。オースターは説明書きを片手に、震える手で密閉袋を開け、慣れた手つきで注射器に薬液を注入する。
「トマ、腕を押さえてて。思いきり刺さないといけないみたいだから、暴れないようにしっかりと」
トマはまだ呆けていた。
「……やるのか? あんたが?」
「やるよ! やらないと死ぬんだろう!?」
トマはオースターの顔と、涙と血と鼻水でぐしゃぐしゃになった怪我人の顔を見比べて、腫れた腕を両腕で押さえこんだ。オースターは付属の消毒液で痛々しく腫れた患部の近くを拭き、息を吸って止める。
「大丈夫。君ならできる。オースター・アラングリモ」
オースターは思いきりよく注射器を振りあげた。
遠くのほうで声がする。
ぬめり竜の解体や、怪我人の運搬を命じる声だ。
オースターは壁ぎわにへたりこんで、血だらけになった自分の両手を見つめる。
いきなり水が降ってきた。トマだ。洗えと言うので、手を洗って汚れを落とす。
「大丈夫かよ」
「あ、はい。大丈夫です」
呆けてしまって変な敬語になる。
「マシカ、怪我人を町まで運んでくる。公爵を頼めないかな。腰が抜けてるみたいだ」
「おっけー」
野太いダミ声をあげてやってきたのは、先ほどトマと好意的に話をしていた大柄な掃除夫だった。穏和を絵で描いたような面構えだ。山なりに弧を描いた眉、黒い瞳は笑みをたたえて優しく細められている。
「公爵」
顔を上げると、トマが割れたダミ声で呟いた。
「薬。助かった。あと、ぬめり竜もよく気づいた。声をかけてくれなきゃ、おれは食われてたし、みんなもどうなってたかわからない」
ぼうっとしているうちに、トマは目を泳がせ、さっと背を向けて歩きだした。
「……公爵じゃないってば」
ばかになった脳みそは、ただただそれだけを考えていた。
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