第2話 ダミ声の掃除夫

 トマの言うとおり、下水道はまさに「迷宮」だった。

 煉瓦づくりの狭い下水道は、蛇行し、二手に分かれ、ほかの下水管と合流して幅の広い下水道となり、今度は三方向に分岐して、肩幅ぎりぎりの狭さになる……。

 道路標識のようなものはなく、下水道のひとつひとつに大きな差もない。オースターは早々に道順を覚えることをあきらめた。ずんずん進むトマの背中を、ただ必死になって追いかける。


 トンネルの側壁で、作業灯が不安定に明滅する。

 今歩いているのは、両腕を広げたほどの幅がある下水道だ。片側半分が歩道で、もう片側の溝を汚水が流れている。

 無言で歩くふたりの影が、煉瓦の壁をゆらゆらと移動する。

「下水道ってあたたかいんだね。最近は朝晩も冷えこむし、防寒具が必要かなって心配してたんだけど」

 不安感をまぎらわせるために声をかけると、トマはちらりと肩越しの視線を投げかけてきた。

「……気温はいつでもあまり変わらない。夏は涼しいし、冬はあったかい」

「へえ、快適なんだ」

 快適なわけあるか、ばか。間抜けな台詞を吐いた自分の口をぺしっと叩きながら、オースターは話題を変える。

「トマはずっとここで仕事をしてるの?」

「七歳から働いてる」

「七歳!? すごいね。……あれ? でもそれって労働法に違反してるんじゃ」

 労働法というのは、大公殿下が戦前に布いた法律だ。労働法の施行によって、最下層である労働階級の地位は向上し、生活の質もあがった。特に、六歳以上の子供は身分問わず学校に行くのが当たり前になった。

 トマは馬鹿にしきった様子で鼻を鳴らした。

「あんたらの法律なんか知るか。働かなければ、食い物にありつけないんだ。ここじゃ、子供だろうが老人だろうが、みんな働く」

 オースターは小首をかしげる。

(それって、下水道掃除夫には労働法が適用されていないということ?)

 よくわからない。なぜだろうか。

(これはぜひ調べてみないと。レポートの題材にももってこいだ!)

 オースターは目を輝かせる。

「七歳からここにいるなら、迷ったりしないんだろうね?」

 トマを小走りに追いかけながら、オースターはなおも質問を重ねる。トマはぶっきらぼうに答える。

「迷ってたら仕事にならない」

「そっか。すごいなあ。僕にはずっと同じ風景に見えるけど、道を覚えるコツでもあるの?」

「体に刻みこむだけだ。ここで道に迷うことは、死ぬってことだ。だったら死ぬ気で覚えるしかない」

「うわ……迷子が死につながるなんて地上では考えられないよ」

 オースターは、肩を怒らせて歩くトマの後頭部を見つめた。

 歩みに合わせて揺れるのは、例の長い三つ編みだ。

「ところで、その三つ編みってなにか意味があるの? 女の子みた――ぅぶっ」

 急にトマが足を止めた。オースターは勢いあまって背中に衝突する。

「い、いきなり立ち止まらないでくれよ、トマ」

「おれも質問があるんだけど、いいか? 公爵」

 トマから質問! これはもしや仲良くなるチャンスかもしれない。

「もちろんだよ。あ、でも、僕はまだ公爵じゃないんだ。公爵だった父上は戦争で亡くなってしまって……。爵位の継承権は僕にあるんだけど、法律上、成人になるまでは爵位を継ぐことができないんだ。だから本当のことを言うと、アラングリモ家は今、”公爵家”じゃない。爵位は宙に浮いている状態で、家のことは母上が代行してくださっている」

 オースターはにこりとする。

「そんなわけだから、僕のことはオースターって呼んでくれ。それで? なんでも聞いて!」

「貴族ってのは、どいつもこいつも、あんたみたいに脳天気なおしゃべりばっかなのか?」

「…………」

 そのとき、じゃぶじゃぶと水をかき混ぜる人為的な音が聞こえてきた。

 トマが三本に分岐した下水道のうち、いちばん左の下水道に足を踏み入れた。しばらく歩道を進むと、橙色の作業灯の明かりの下、幾人かの人影がうごめいているのが見えた。

「ラクトじいじ!」

 トマが声をかける。汚水に長い棒をつっこみ、ぐるぐるとかきまわしていた人物が、顔をこちらに向けた。

 作業着を着た老人だ。やはり浅黒い肌で、頬に刺青をしている。トマに気づくと、太くて短い、黒々した眉を優しく持ちあげた。

「おや、トマ。今日は見回り業務だったかね?」

 オースターは目をまん丸にした。

(このひとも、ダミ声だ!)

 老人が発した声は、空気が混じってざりざりとして聞こえた。トマのダミ声と特徴がよく似ている。

 老人のそばには、ほかに三人の男がいた。彼らは一瞬トマに顔を向け、眉をひそめると、不愉快そうに顔をそむけた。

「――おっ」

 ラクトじいじと呼ばれた老人が声をあげた。

「見よ! 大物を釣りあげたぞーい!」

 言葉どおり、釣りの要領で棒を振りあげるラクトじいじ。引きあげられた棒の先端には、戦前のものと思われる垢ぬけないデザインの軍服がぶら下がっていた。紺色の布地に、金釦と肩章。棒の先のふたまたに引っかかって、飛沫をあげながら虚空でダンスをしている。

「ほほう、これは上等な品ですな、ラクト!」

 三人の男のうちのひとりが嬉しそうに言った。

「これならアキとロフめも、高いポイントで買い取ってくれるかもしれませんぞ」

「えっ。じゃあ、さっきおれが見つけた男物のシャツは!? 木綿製の!」

 興奮した様子で、別の若い男が口を挟む。途端、三人目の男が笑いながら手を振った。

「無理、無理。あの派手好きの双子が気に入るわけねえ。シルク製でも拾いあげないと」

「ちぇ。地上の掃除夫ども、ゴミとみたらなんでも下水に流しやがってよー」

 ぶらぶら揺れる軍服を見上げながら、男たちが不満そうに、楽しそうに、あれこれと語りあう。

 それを聞いて、オースターはいよいよ言葉をなくした。

(みんな、ダミ声だ)

 全員が全員、見事に枯れた声をしていた。多少、特徴の違いはあるものの、揃いも揃って「ダミ声」である。

(なんで? 下水道で掃除夫をしてると、みんなダミ声になっちゃうの!?)

 うろたえるオースターに、ようやくラクトじいじが気づいた。

「んん? 誰だね、そのべっぴんな子は」

「公爵様だってさ」

 答えるトマに、オースターは「公爵じゃないったら」と反論する。

 掃除夫たちが一斉に顔を見合わせた。

「公爵? え……ということは、ドファール家の御子息!?」

「なんてこった、ドファールの御曹司に会えるなんて!」

「い、いつもなにかとお世話になってまさあ!」

 いつも。

 その言葉に、オースターはがっくりと肩を落とした。

(そうか。つまり衛生局にはドファール家の息がかかっていたということか)

 だからオースターの職場体験学習先を下水道にすることができたわけだ。

 珍しいことではなかった。かつてはアラングリモ公爵家にだってそうした「息のかかった者」はいたはずだ。父が没して以降、そうした者たちとの関係は絶えてしまったようだが。

 オースターはごほんと咳払いをし、大騒ぎする掃除夫たちを手で制した。

「待ってくれ。僕はアラングリモ公爵家の嫡男オースターだ」

「あらんぐりも?」

「なんだ、ドファール公爵とは違うのか」

 ならいいや、と言わんばかりの弛緩した空気に、オースターはあわてる。

「ちょっとちょっと、二大公爵家のひとつだよ! そりゃ、いまはアラングリモ公爵位は凍結扱いになっているけども……」

「あらんなんとか公爵家の命令に応えても、ポイントをもらえるんですかね?」

「ポイント?」

「あ、ポイントにならないんなら、いいですいいです」

 はははと照れくさそうに笑い、「がめついぞ」と互いに肩を叩きあう掃除夫たち。

 わけがわからない。

「それで、公爵様はどういったご用件で……」

「公爵じゃないよ。これ」

 とりあえずラクトじいじがこの場でいちばん偉いようなので、クラリーズ学園からの指示書と、衛生局からの許可書を差し出す。

 老人は一字一字、指でなぞってうなずく。トマとは違って文字が読めるようだ。

 そこでオースターは、ラクトじいじの筋張った首にも首輪がはめられていることに気がついた。刻印された数字は「1」だ。

 怪訝に思ってほかの掃除夫に目をやれば、三人の首にも数字違いの首輪がはまっていた。

「これは、なにかの手違いではないですかのう?」

 ラクトじいじが困惑したように言った。

「わしらの仕事は、公爵様が体験なさるような仕事ではないかと」

「手違いじゃないよ」

 オースターは答え、少し考えてつづける。

「ランファルドの未来を担う者のひとりとして、一般市民の仕事も身をもって体験しておくことが必要だと思ったんだ」

 先ほどの反省を生かし、それっぽいことを言っておく。こうでも言わなければ、トマと同じに拒絶が返ってきかねない。

 ふん、とトマが小さく鼻を鳴らすのが聞こえた。

「局の命令であるなら、このラクト、異論ございません。しかし、これまで職場体験学習なるものを引き受けたことがありませんでな。どのように進めればよいものか……」

「新人に教えるように仕事を教えてくれればいいよ。ただ、僕は教育係がふたり、用意されてるって聞いてきたんだけど」

「ふたりですか。はて、聞いておりませんが」

 ラクトじいじは思案げに天井を仰ぐ。

「ひとまず――トマ」

 壁際に突っ立っていたトマは顔をあげた。

「オースター様の教育係をやってさしあげよ。年齢も近そうじゃし」

「……おれが!?」

「うえっ!?」

 オースターとトマは声をあげ、顔を見合わせる。

「待ってくれ、ラクトじいじ。こんなばかの面倒をおれに見ろっていうのか? 冗談じゃない。おれは……」

「ばか!?」

 今度こそむかっ腹がきて、オースターは顔を真っ赤にした。

「僕だって願い下げだ。こんな礼儀知らずな奴。ラクトさん、僕はあなたから教わりたい」

「ラクトじいじにだって、あんたと遊んでる暇なんかない」

「遊びじゃないったら!」

「職場体験だかなんだか知らないけどな、そんなもののためにひとを巻きこむな。大公に褒めてもらいたいなら、玉座の前でしっぽでも振ってろ、飼い犬」

 オースターは激怒し、トマの肩をどんと押した。

「殿下を侮辱するな、無礼者!」

 トマはオースターの肩を押しかえした。

「あんたを侮辱したんだよ。”空っぽ公爵”」

「な、なんだってええ!?」

「あああ、トマ、やめなさい。貴族様に向かってなんて口のききかたを」

 ラクトじいじが仲裁に入る。しかし激したふたりは気づかない。

「最初に会ったときから僕を侮辱してばかり。なにが気に入らないんだ、トマ。はっきり言ったらどうだ!」

「気に入らないといえば、その格好はなんだ? 誰かの結婚式に参列しにでもいらしたのか。胸ポケットに薔薇をさし忘れてるぞ、公爵」

「公爵じゃないって言ってるだろ! だいたい正装で来たのは、君たちへの敬意を示してのことで」

「これ、トマ。オースター様も」

「おれたちに敬意? 敬意ってなんだ。あんたらの汚物を、あんたらにかわって始末してやってることへのか? ご立派な服装で権威を見せびらかすのを敬意って言うなら、宝石でもばらまいたほうがよほど尊敬を集められるってもんだぜ」

「なんだと!?」

「ちょいちょい。わしのこと無視しないでくれんかのう。寂しいのう。のう――」

 互いに掴みかからんばかりになったときだ。


「しずまらんかぁああああああ―――――!」


 壁が振動するほどのダミ声。

 その迫力にオースターは仰天し、トマもまた硬直した。

「トマ、おまえが教育係をやるのじゃ。これは命令じゃ」

「そんな!」

 トマがラクトじいじに詰め寄った。

「今月から〈アニアシの葉脈〉を担当させてくれるって話だったはずだ。約束が違う……!」

 アニアシの葉脈?

 オースターは聞き慣れない言葉に眉を寄せる。

「職場体験はひと月で終わるという。そのあと改めてトマを〈アニアシの葉脈〉の担当にする」

「でも!」

「どうしたね、トマ。普段はわがままを言わんお前が」

 ラクトじいじが顔をしかめる。

「おまえが人一倍、仕事熱心なのはよくわかっておる。。しかし、場所が場所じゃ、こだわりすぎると二心ふたごころがあると思われかねんぞ。んん?」

 トマは口を引き結ぶ。

 血がにじむほど唇を噛みしめ、ふっと体から力を抜く。

「……はい」

「うんうん、いい子じゃ。では、オースター様!」

「ぅはい!?」

「職場体験だろうと、掃除夫になるというのなら、あなたはここでは下っ端。先輩であるトマの言うことをよく聞くことです。もし逆らうならば、ここでの流儀に則った懲罰を貴方様に与えねばなりませんぞ?」

「……はいぃ」

 オースターはがっくりして答えた。

「おまえのせいで――」

 ぴくりと耳が反応する。

 それは小さな小さなトマのダミ声だった。

 トマは額に押し上げていたゴーグルを目元におろし、低く、怒りに満ちたかすれ声で言った。

「さっそく仕事だ。ついてこい、新入り」




「それからもずーっとトマの奴、えらそうにしててさ!」

 あれはもう昨日のことだ。

 なのに、まだ思いだすと腹が立つ。

「それからもずっと無視だよ。なにを質問しても無視、無視、無視! 僕だってトマとなんて話したくないよ。でも、それじゃ仕事にならないじゃないか。だからがんばって話しかけているのに、『黙れ、ばか』だって。そりゃ、僕はばかだよ。ルピィの取り巻きには『ちびっこ脳筋』とか悪口言われてるしさ。でも、勉強よりスポーツのほうが得意ってだけだし、勉強だってがんばってはいる……ラジェ?」

 返事がないので顔をあげたオースターは、ぞわわっと背筋を震わせた。

 ただでさえ陰気なラジェの目に、アモン魔導大国の北極境界線もかくやというほどの氷点下の光がともっていた。

「オースター様」

「な、なに」

「私にお命じくだされば、いかようにも始末をおつけします」

「始末って、な、なにを物騒なことを」

「ドブネズミに主を侮辱されても黙っていられるほど、私は寛容にはなれません」

 オースターは目を見開き、さっと顔をこわばらせた。

「国のために働く勤労者をドブネズミ呼ばわりするなんて不愉快だ、ラジェ」

「街の者はそう呼ぶのです。雨が降ると下水道から這い出てくる、汚泥にまみれた不潔なネズミども、と」

 知らなかった。彼らは、民からそのような侮蔑的な名で呼ばれているのか。

 従者であるラジェは、オースターよりも市街地となじみが深いから、そうした知識もあるのだろう。

 だが、市井しせいの知識が増えたことを喜ぶ気にはなれなかった。

「民が呼んでも僕は呼ばないし、君も呼んではだめだ。アラングリモ公爵家はいつだって燦然さんぜんと輝く、民の導きの光でなくちゃならない。品位を貶めることは言ってはだめだ」

 ラジェが片眉をあげる。

 オースターはため息をついた。

「……違うか、僕が先に愚痴を言ったのが悪かったんだ。アラングリモの名にふさわしくない物言いだった。父上がお聞きになったら、きっと嘆かれたろう」

 そう言いながらも、オースターの胸には虚しさが宿った。


 アラングリモ公爵家は、ランファルド大公国の北西部に位置するアラングリモ平原を領有する大貴族だ。領地の大半は農地か牧草地であり、古くから「農耕王」と呼ばれてきた。

 だが、その誇りある称号も、父の代までのことだ。

 アラングリモ公爵家の衰退のきっかけは、先の大戦――西の科学大国フラジア、東の魔導大国アモンの二大大国の衝突にあった。

 ふたつの大国の開戦は、それぞれの同盟国を巻きこみ、一気に苛烈化。ランファルド大公国は同盟にもとづき、西の科学大国フラジアに加勢し、率先して戦に参加したランファルドの貴族たちはつぎつぎと戦場に散っていった。


 ――その日のことを、オースターははっきりと覚えている。

 五歳だった。老いた愛犬とともにアラングリモ平原の黄金に染まった秋草のなかを駆けまわっていたとき、オースターは北の丘の稜線で「黒い影」がゆらゆら揺れているのに気づいた。


 のちに〈汚染〉と呼ばれるようになった現象である。

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