喉笛の塔はダミ声で歌う
翁まひろ
第一章 下水道掃除夫の仕事
第序話 下水道の化け物
「下水道掃除夫の体験学習!?」
教室の席で、オースターはすっとんきょうな声をあげた。
机を囲っていた同級生たちが、同情めいた視線をくれる。
その奥、廊下に近い席で、ルピィと取り巻きの生徒たちがほくそ笑んでいるのを見て、オースターは「あいつ!」と憤った。
オースター・アラングリモは、全寮制クラリーズ学園の中等科二年生だ。
貴族や名家の子息が学ぶ権威あるこの学園で、夏季休暇明けの一か月間に行われるのが、「職場体験学習」である。
もともとは家督を継ぐ権利のない次男以下の子供たちが、卒業後の就職先を見つけるための授業。しかし今では、単なる社会勉強の趣が強い。外出届を提出しなければ、閉ざされた鉄門の外に出ることも許されない哀れな籠の鳥たちにとっては、学外に出られるというだけでも楽しみな学習のひとつだ。
なのだが、
「下水道掃除夫なんて、どうせまたルピィのいやがらせに決まってるよ」
「先生に相談がしたほうがいい。だって、最初に配られた選択可能職種一覧には、下水道掃除夫なんて書かれていなかったんだから!」
教室棟から科学実験棟に向かう外階段。庭園でほころびはじめた秋薔薇の香り混じりの風に、「二学年」を意味する深紅のネクタイをそよがせながら、同級生たちが口々に忠告をくれる。
オースターは金色の癖毛を指でいじくりまわし、十四歳にしては幼く見える朱色の頬をむっつりとふくらませた。
「無駄だよ。ルピィのいやがらせと決まったわけじゃないし、たとえそうだとしても受理されたのなら先生も了承の上ってことだ」
「けど、オースター!」
「それに!」
反論を口にしかける同級生を緑色の瞳で制して、オースターはため息をつきたい気持ちをこらえてつづけた。
「それに、先生を頼るなんて恥ずかしいことできないよ。ルピィとの問題は、僕自身の手で解決しなくっちゃ」
同級生のルピィ・ドファールは、ランファルド大公国の二大公爵家のひとつ「ドファール公爵家」の嫡子にして、この国の皇太子――第一大公位継承者だ。
対するオースターは、いまひとつの公爵家「アラングリモ公爵家」の嫡子。
玉座におわす大公殿下の両脇に従い、ともに国を支えるべきふたつの公爵家、アラングリモ家とドファール家は、昔から仲が悪い。
(春の乗馬大会で、僕がルピィをさしおいて優勝したことを根に持っているんだ。だから、こんな嫌がらせをするんだ)
もともと家同士が不仲とはいえ、ルピィが直接オースターに嫌がらせをするようになったのは、毎春、学内の馬場で開かれる乗馬大会がきっかけだった。
貴族の子息が家名をかけて競う大会は一般にも公開され、多くの市民、上流階級が自由に観覧することのできる、ランファルドきっての春の祭典だ。
三か月前に行われた大会の優勝者は、オースター。
大衆の拍手喝采を浴びながら、御上覧席の大公殿下の前に片膝をつき、じきじきにお褒めの言葉を賜った。大変な名誉だった。それはオースター自身の誉れになるだけでなく、アラングリモ公爵家の名にも華を添えた。
ところが同じ大会で、ルピィはレースなかばで落馬。右下腿骨を折る大怪我を負ってしまったのだ。ドファール家は華々しく賛美を受けるオースターを憎らしげに見つめるはめになり、今も怪我が完治しないルピィは、大公家御用達ルアーブ社の鷲頭のついた籐製の杖をついている。
あの日以来だ。オースターがルピィとその取り巻きから、なにかと嫌がらせを受けるようになったのは。
(制服のチョッキの釦をハサミでちょん切られたり、机にごみを詰めこまれたり、教科書に馬糞を塗りたくられたり、杖の先を足をひっかけられて転ばされたり……)
大した嫌がらせではない。みみっちい八つ当たりをするしかないルピィを憐みながら、アラングリモ家の子として平静に受け流すべきだ。
べき……なのだが、やっぱり腹は立つ!
「ああもうルピィの奴! 僕が気に入らないなら、正々堂々、勝負を挑めばいいんだ。馬で勝てないなら、剣技で決闘を挑めばいい。ねちねち嫌がらせばかりして、男らしくないったら!」
こらえきれずに怒りを爆発させると、勢いに押された同級生があわてて手を振った。
「だ、だめだよ、オースター。君、剣技も強いんだから、ますますルピィの恨みを買っちゃう」
オースターは深々とうなだれた。
「体調なんて崩すもんじゃないや……」
職場体験学習の「職種希望申請書」を提出する日に、オースターは具合を悪くして一週間ほど休学をしたのだ。どうやらそのとき、ルピィが手を回して、オースターの申請書に「下水道掃除夫」と書いて提出してしまったらしい。
やってみたい仕事は山ほどあった。いちばん興味があったのは、パインハーツ平原にある〈北の防衛柵〉を護る
それが、下水道の掃除夫だって?
「ところで、みんなは、なんの体験学習を?」
同級生たちはぎくりとした様子で目を泳がせた。
「え、ええと、環状鉄道の運転士、だったかなあ?」
「ぼくは〈
「電気自動車の開発部門で設計士の仕事をちょっと」
「花形の職業ばっかりじゃないかっ」
「な、なんかごめん」
「許せ、オースター」
オースターはがっくりとうなだれた。
――ここに、ご署名を。
――署名?
――下水道で危険な目に遭われても、衛生局の責めに帰すべきものではない、という誓約書にご署名いただきたい。
オースターは必要書類の受けとりのために立ち寄った衛生局のフォルボス・マクロイ局長の冷ややかな態度を思いだしながら、げそっとした気分で環状鉄道線の錆びた古い車両からおりた。
(遠いなあ、下水道……)
別の路線に乗りかえる人々にくっついて、今度は、斜行トラム線の駅舎で切符を購入する。階段状のプラットホームにはすでに新型の赤いトラム車両――ケーブルカーが待機しており、車内は満席だった。
押し合いへし合いしながら、やっとのこと空いていた窓際に立つ。
窓から見えるのは、緑豊かな丘陵地に栄えた都ランファルド市。国名と同じ名前を冠した首都の中心には断崖がそびえ、そこに国家繁栄の象徴である白亜の塔――〈喉笛の塔〉がそびえている。
太陽の光を受け、すっくと白く伸びあがったさまはたいそう美しかった。
だが、壮麗な塔の姿を見つめてみても、オースターの心が晴れることはない。
発車ベルが鳴り、ケーブルカーが軋んだ音をたてながら急斜面をぐんぐん下っていく。歴史ある石造りの旧市街を通過し、戦後に造成された鉄鋼づくりの新市街を突きすすむ。近年急増した五階建ての共同住宅が密集した区域に入ると、視界は壁に遮られ、〈喉笛の塔〉も見えなくなった。
席が空き、座ってふと居眠りするうちに、外の風景は赤錆びた鉄の管がひしめく工場群にかわっていた。乗客はいつの間にかオースターだけ。心細く思ううちに、車窓が暗転した。地下に入ったのだ。
やがて終点を告げるアナウンスが流れ、ケーブルカーが停車する。
『〈地下第一区七番駅〉に到着しました。当車両はここで折り返し運転となります……』
(都の地下まできたのなんて、はじめてだ……)
オレンジ色の電灯がともるばかりの駅舎は暗く、また無人だった。地下特有のよどんだ空気が滞留し、隅にはいつのものとも知れぬごみが吹き溜まっている。その物寂しさの中に立って、トンネルを去っていくケーブルカーを見送っていると、いよいよルピィにはめられたのだという実感がわいてきた。
(だめだ、弱気になっちゃ。ルピィがその気なら、僕だって意地だ)
そう。職場体験学習のあとには、職場で学んだことを発表する学内報告会がある。そこで提出されたレポートの中で特に優秀なものは、元老院でも取りあげられ、もっとも評価すべき一作は大公殿下のお手元まで届けられる。
(見ていろよ、ルピィ。今度もまた、僕が大公殿下からお褒めの言葉を頂戴するんだ)
衛生局長からもらった地図を手に、無人改札を抜け、青白い作業灯が寂しげにともった狭い地下道を歩く。都の地下には、戦前の
〈下水道第十八区口〉という表示のかかった鉄格子の扉が現れた。錠前がぶらさがっている。オースターは地図を再確認し、貸し出された鍵で扉を開けた。
キィと兎がしめられるときのような軋みをあげる。扉の先にはさらに下りの螺旋階段が続いており、数段先は完全な暗闇に呑みこまれていた。
(負けるな、オースター・アラングリモ。君ならできる)
オースターはぎゅっと目を閉じ、恐怖を頭から閉めだした。ふたたび目を開け、配給された蓄電池式ランタンを点灯させ、こわごわと階段をおりはじめる。
空気がじめっとして、生ぬるい。それに生ぐさい。
水の音だろうか、轟々と地響きのようなうなりが這いあがってくる。
――階段の下で、教育係がふたり待っていますので。
ふたたび局長の説明を思いだし、オースターはおりてきたばかりの階段を見上げる。螺旋階段の汚れた壁は、とっくの昔に出入り口を視界から消してしまっていた。
(本当にこれでよかったのかな。やっぱりみんなの言うとおり、意地を張らないで、先生に相談すべきだったんじゃないかな――)
どうしようもなくこみあげる不安で押しつぶされそうになったそのときだった。
耳がかすかな音を拾った。
歌だ。
いや、歌のように聞こえるなにか。
鼓膜を小刻みに震わせる不可思議な声が、単調な旋律を歌いあげ、その声が螺旋の底から渦を巻くように吹きあがってくる。
(なんて心地がいいんだろう)
不思議とぬくぬくとした柔らかな光にくるまれているような心持ちになった。
目を閉じると世界から闇が失せ、太陽の光が降りそそぐ草原で、たっぷりとした羊毛に埋もれて眠る自分の姿が浮かんでくる。
灌木の中で歌う羽鈴虫。草原に一本だけ立つオリーブの梢から、黄金色の尾長鳥が飛びたち、さえずりながら薄雲のたなびく空を飛びさっていく。
誰かが自分の名を呼んでいた。
羊毛から身を起こして首をめぐらせると、オリーブの梢のそばに、母と、亡き父が立っていた。四歳のときに死んでしまった弟もいる。
みんな、笑顔でこちらに手を振っている――。
歌がとぎれた。オースターははっと我に返る。鎖骨にぽたりとなにかが当たった。気づけば、涙が顎先から伝い落ちて、胸元を濡らしていた。
(なんだこれ。男が泣くなんてみっともない)
オースターは急いで涙をぬぐいながらも、不思議な気持ちで螺旋階段の闇を見つめた。
(今のはなんだろう。あんな不思議な歌、はじめて聞いた)
誘われるようにさらに二十段ほどおりたところで、階段が終わった。
真っ暗だ。轟音が響きわたり、地面が振動で小刻みに震えている。
また心臓の鼓動がいやな感じに早まりはじめた。
オースターは服の袖で鼻を押さえ、悪臭に顔をしかめながらランタンを掲げた。
卵型をした煉瓦づくりのトンネルが、左右に向かって伸びている。今いる歩道から一段低くなったところを灰緑色の水が泡立ちながら流れていっているのが見えた。ぞくりとしながら、オースターは焦ったような気持ちで首を巡らせた。
「ええと……誰かいますか?」
しばらく待ってみる。だが、水がどうどうと流れる音以外はなにも聞こえてこない。誰もいないようだ。
オースターはここで帰るべきかどうか真剣に悩んだ。教育係がいなかったのだ、帰ったって自分が臆病だったからということにはならない。
(でも、ルピィはきっとそうは思わない。「狭くて暗い下水道に怖じ気づいた」と言って鼻で笑うはずだ)
オースターは首をぶんぶんと横に振った。
「だめだ。逃げるなんて、アラングリモ家の子として許されないぞ、オースター」
自分に言い聞かせ、オースターは直感で上流となる右方向のトンネルを歩きだした。
直後。
ランタンの光の中に、ぬっと人影が現れた。
いや、人間ではない。虫眼鏡ほどもある大きな目をした、蛸のような尖った口の化け物だ――!
「う、……っわ!」
驚きのあまりに振りあげた手からランタンが飛ぶ。
虚空を舞うランタン。とっさに腕を伸ばしてランタンを掴もうとした瞬間、ぬめった歩道に足をとられ、体が下水の流れの上に傾いた。
落ちる――!
刹那、後ろ襟首を強い力で引っ張られ、オースターは水の流れとは逆の、歩道の壁に叩きつけられた。
「ご、ごごご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさ――!」
『なにしてんだばか! 工場の排水警報が出ただろう、落ちたら溺れ死ぬぞ!』
オースターは目を見開く。
(なんだ、この変な声)
おそるおそる顔をあげると、化け物が掲げる明かりの中に立っていたのは、自分と年齢の近そうな子供だった。化け物の顔に見えたのはガスマスクだったようで、脱ぎとった革製のそれが首にぶらさがっている。
浅黒い肌をした子供。長い黒髪を、肩のところでゆるく三つ編みにしている。頬のあたりに不可思議な模様が描かれていて、なんだかすごく、奇妙――、
「……誰だ、あんた」
ふたたび耳にした声に、オースターは改めて目を丸くした。
(なんてひどいダミ声)
喉の奥から絞りだすような、驚くほど枯れた声だった。
水がたてる轟音のなかでは、意味を理解するのがやっとなほど。
それでいてその声は、困惑するほど情熱的にオースターの鼓膜を震わせてきた。
これは、先の世界大戦によって〈汚染〉のなかに閉じこめられた小国ランファルドの地下迷宮で起きた、歌と魔法の物語――。
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