program.0 起動

悪夢


 空気の澄み切った、一呼吸するだけで肺の中が凍りつくような夜だった。煌々としている月明かりの下では世界の音など皆無である。

 周囲の家々からは明かりが完全に消え去り、閑静な住宅街は文字通り静まり返っていた。全ての人が消えてしまったのではないかと錯覚さえしかねない。

そんな月明りの降り注ぐ中、瓦礫の山に背中を預け小さく呼吸をしていた。

「――……――……――」

 呼吸、というにはあまりにも弱々しい。一呼吸する度に喉の奥から掠れた音が溢れ、空気は胸から出ていった。

 血の気の失せた顔には何の感情もない。ただ、静かに空を見上げているだけ。右胸を押さえている左手は赤黒く染まっていた。

 数秒、苦しそうだった息が止まった。この胸の傷は死に至るものだと一瞬で理解できる。

――だが、忘れてしまっていたかのようにまた呼吸を再開した。

 ゆっくり、酸素を取り込もうとするが上手くいかない。白い吐息と一緒に、血の塊が口から噴き出した。

 脳に十分な酸素が届かず、命は終わりを迎えようとしている。自分でも悟っているのか、受け入れるかのように瞼をゆっくりと閉じていった。


 ―――バリバリバリッ!


 それは、まるで稲妻が落ちたかの様な豪音。

 人の神経を逆なでする不快な音に意識が覚醒する。

 紅く染まった空に輝く月が世界を灯していた。

 視界に別の映像が突然割り込んできたかのような違和感。見えていた光景に上から新しい映像が編集で差し込まれた、と言えばいいのだろうか。

 焦点の合わない視界の異常に加え、熱いものが全神経を走っていく。

 顔をゆっくり下へと送ると、自分の胸から紅黒い液体が湧き水の如く溢れて出ていた。

「――」

 感覚が消失していく。

 霞んでいく眼前には、あまりにも綺麗な少女が佇んでいた。彼女の手には、真っ赤になった大振りのナイフが握られている。

 瞼の上で切りそろえられた前髪と、腰まである艶やかな黒髪。そんな少女の顔は返り血で化粧がされていた。雪のように白い頬を伝う鮮血は、ただただ美しい。

 今にも泣きだしそうな少女の歪んだ顔。月のように紅い瞳の端から、そっと涙が零れた。彼女は何かを喋っているが、停止しかけた脳では言葉を認識することすら出来なくなっている。

 少女は膝を負って屈むと、死ぬ直前のどんどん冷たくなっていく頬に暖かい両手を宛がった。

「――」

 口から出た声はもはや言葉にはならなかった。喘ぎ声のような短い声だけが空に消えていく。

 全身の力が無くなり、目蓋も重くなり始めた。瞬間的に熱かった体は凍える様な寒さに襲われる。

 少女はまだ何かを語りかけているようだったが、音すらもいよいよ聴こえなくなった。

 このまま闇に落ちていくような感覚。後は、静かに『死』を受け入れるだけだ。

 今にも機能を停止しそうな体だったが、覗き込んできていた少女は垂れて邪魔な髪の毛を耳にかけると顔をさらに近づけてくる。はっきりとしない意識の中でも、血のように紅い瞳と長い睫毛の一本一本までがしっかりと判った。

 そして、

「――ユウ」

 耳障りの良い透き通る声を発した口で、少女は血に濡れた口を、優しく、深く、塞いだ。

 電流が全身に走る。優しい口付けは、永遠の眠りを妨害し意識が戻ってくるには十分な衝撃だった。

 柔らかく温かい感触。少女の薄肌色の唇が血で紅を引かれる。零距離には少女の顔。目を瞑っているその頬は薄く高揚し、僅かに震えていた。

 瞬間的に熱を取り戻す身体だったが、それも刹那なもの。

 抗えない最期を迎えていた体は容赦なく生命活動をシャットダウンさせた。

 温かい人肌や唇の感触、激痛だった胸の痛み。それら全ての感覚が消失していった。

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