(3)
【ジョーカーの哀夢】
ご主人様! その姿を見ただけで、全身の血が駆け巡る。
嬉々として近づけば、その腕で自分を抱きしめてくれる。暖かくて……いや? 熱くてぬめりとして……何だろうと離れてみると、自分の胸元は真っ赤に染まっていた。訳が分からないまま、ご主人様を見上げる。
「お前はもう必要ない」
たった一言だけ呟くと、そのまま行ってしまう。
ご主人様? それはどういう意味ですか。ご主人様が自分を捨てた? 捨てた、捨てられた……。自分はもう必要ない、嫌だ……嫌嫌嫌嫌嫌嫌……! そんなことは信じない! ああ、ご主人様! 抱きしめてくれなどとは言いません。せめて側に……貴方の代わりに死ぬことができる、その距離にいさせてください……っ! ご主人様……アーネスト様!
自分の絶叫で目が覚めた。喉がカラカラに乾いていて、嫌な汗がじっとりと服を濡らしている。
まただ。またこの悪夢。最近ずっとだ。現実のご主人様はいつも通りなのに、夢の中だとこうなってしまう。いつでも捨てられる可能性があるのだと、そう考えていることが夢となって出てきてしまうのだろうか。いずれにしてもこのままじゃ、いくら俺が機械であろうと疲れてしまう。あいつに設定をいじってもらおうかな……。急に故障すると困る。
でもいつか必ず来るんだ。あの人が望んでいる限り。俺があの人にとって、必要じゃなくなる時が。
その時は貴方の顔を見ないで、声も聞けず、体温を感じなくて済むように、全てを壊してほしい……。
「私は何一つ、あの子に勝てなかったんだ」
ある時、ご主人様が不意に呟いた。
「この場所だってあの子の世界には敵わない」
「そんなことありません!」
つい力強く言葉を返してしまった。声を荒げてしまったから驚いていないかと顔を見たけど、ご主人様の目は虚空を見つめていた。全く動かないから固まってしまったのではと少し怖くなる。
そんな心配を吹き飛ばすようにこちらを向いたけど、安心したのもつかの間だ。視線が微妙にズレている。自分の頭の上を見て、微かに口元を動かした。ご主人様には何が見えたのだろうか。
「……いいんだよジン」
顔を逸らして呟いた言葉には、力がこもってなかった。
俺は何もできないのだろうか。この人は自分に全てを与えてくれたというのに。貴方の為なら何でもする。でも俺じゃ……ダメだ。足りない。力も、何もかも。何を足せばいい? 俺が貴方の特別になるには、一体何が必要なのだろう。
【とある兄弟の物語】
あるところに、仲の良い兄弟がいました。二人の両親は事故で亡くなってしまったので、祖父の家に引き取られることになりました。それからは祖父と三人で、協力して生活していました。
兄は工作が得意で、よくおもちゃを作っては弟に渡していました。弟は新しいおもちゃができるたびに、楽しそうに遊んでいました。
「僕は遊園地を作ってみたいんだ。僕とお前の好きなものをたくさん込めた遊園地」
「それとっても楽しそう! お兄ちゃんなら絶対できるよねっ」
平和に過ごしていた三人でしたが、別れは唐突に訪れます。近所に住む富豪が、子供達を引き取りたいと申し出てきました。祖父は病気がちでまともに反論することができず、この兄弟は金で買われてしまいました。
それから二人は、奴隷のような扱いを受けることになりました。朝から晩まで働かされて、食事も残ったものばかりです。夫婦の子供は同い年ぐらいでしたが、馬が合わず、肩身の狭い思いをしていました。
そんな生活でも二人は力を合わせて、協力することで乗り越えていました。
そんなある日のことです。弟が夫人の親戚の家に仕えるようにと命じられました。今まで二人で過ごしてきた兄弟にとっては何よりも辛く、耐えられない出来事でした。
最近では弟の体調も良くなくて、咳をするたびに兄は心配になっていました。
出発の前夜。心に反して、手は無慈悲な程勝手に動いていた。小さな服を畳み、鞄に詰める。何度部屋を見返しても、これ以上弟の手荷物は無い。まだ隙間のある鞄を閉めて、扉の横に置いておく。寝ている弟に近づくと、腕を掴まれた。
「お兄ちゃん! 僕はもう……嫌だ、こんなこと……やだよ……っ」
「……ローレン」
「お兄ちゃんと離れ離れになるなんて、そんなの絶対……やだよ! お兄ちゃんがいないと……僕っ」
今までだって充分過ぎるほど、辛い思いをさせてきた。それなのにまだ苦しめようとしている。今までよりも酷い仕打ちで。これ以上、苦しそうな顔を見たくない。でもどうすればいい。前に二人で逃げた時は、すぐに見つかってしまった。もちろんその後は酷い罰を受けた。あの時はまだ暖かい方だったからいいけど、今の寒さでは凍えて死んでしまうかもしれない。
「ローレン、大丈夫だよ」
「お兄ちゃん……?」
「もう苦しまなくていいんだ」
「……お兄ちゃんが楽にしてくれるの?」
悲しみを背負うのは僕だけでいい。
「うん……そうだよ」
そっと小さな首に手をかける。
「お兄ちゃんは強くてカッコいいから……ね、僕じゃダメなんだ。お兄ちゃんみたいにはなれない」
「そんなことないよ。ローレンはとっても頑張った……でもちょっと頑張りすぎた」
これからの悲しみと苦しみは、全て僕が背負う。それぐらいしかできないから……。お前は穏やかに眠っていればいいんだ。
「ローレン、おやすみ。好きなだけ寝てていいからな」
「うん……お兄ちゃん、おやすみ……」
見える景色は色を失った。体はただ機械的に動く。心も感情も、どこかへ行ってしまったみたいだ。
あれは確か、買い物から戻ってきた時のことだった。煙が見えると思って近づくと、燃えていた。轟々と蠢く炎が屋敷全体を包み込んでいた。
咄嗟に近づこうとして……止まった。家に入ることなく、そのまま去った。あの場所に戻ってもどうせ自分が犯人だとか、濡れ衣を着せられるだけだろう。
いざ捨ててみると清々しくて、何もかもが馬鹿らしく思えた。全てがどうでもよくなって、気づいたら道端に寝転んでいた。このまま踏まれようと、轢かれようとそれで構わない。
これで楽になれるのかな。そうだ。もうローレンのところに行ってもいい頃だ。
何時間経っただろうか。気配を感じて目を開ける。一人の少女が自分を見下ろしていた。
「こん、にちは」
顔や服は泥だらけで汚らしかったけど、その瞳は何よりも輝いていた。言葉がたどたどしいから、外国人なのかもしれない。あまり言葉を交わせなかったけど、なぜかその少女が気になった。自分と同じような状況だったからかもしれない。
少女に導かれるまま歩くと、ボロボロのテントに着いた。家とはとても呼べないような場所だったけど、あそこから離れられるならどこでも良かった。このまま少女と、一緒に暮らすことになった。
アリスに物事を教えると、すぐに吸収していった。あっという間に覚えてしまうので、早々に教える事が無くなった。
アリスが特に秀でていた部分は、想像力だ。不思議な世界のことを次々と、まるでそこに存在するかのように話す姿に、昔を思い出した。僕は遊園地を作りたかったんだ。僕とアリス、二人なら更に面白い物ができるかもしれない。
僕らは次第に惹かれていった。目標や理想が似ていて、お互いにアイデアを出しながら夢の世界を思い描いていた。
初めはうまくいっていたのに、アリスと、彼女を取り巻く環境が変わっていった。権力をつけていく内に、ぶつかることも増えていく。彼女の傍若無人っぷりには困ったものだ。こっちの助言など聞く耳を持たない。
そんな彼女に失望しつつも、側を離れる事はできなかった。結局自分も、彼女の手下なんだ。ここから出て行ったら遊園地を作るなどという目標が叶う事はない。そこに僕の理想が入っていなかったとしても、昔のような生活をする気にはなれなかった。
アリスには、ずっと側で自分を支えてくれる優しいお兄様がいるらしい。本当の兄弟ではなく近所に住んでいて、今は会えないけど、心の中でいつも励ましてくれるのだという。
そう語るときの彼女は本当に楽しそうだった。その存在にも、いつの間にか妬みのようなものが芽生えていた。
しかしそんなのは嘘だ。彼女特有の妄想ごっこだと、皆言っていた。アリスに初めて会った時、どう見ても裕福な暮らしはしていなかった。そんなお兄様と優雅にお茶をする時間なんて無かったはずだ。
そう思っていたのに、彼女は見つけてしまった。自分と同じ思い出を共有している少年を。彼がそのお兄様なのだとしたら、年がおかしい。まさか生まれ変わりだとでもいうのだろうか。アリスと過ごした時間を受け継いだまま、生まれたとでも。しかしその少年が我々に送ってきたメッセージは、確かにアリスが話していた内容と一致している。いくら不思議な出来事であろうと、認めなくてはならない。
羨ましい。全てが上手くいっている彼女が……。結局出来上がった遊園地は、アリスの世界だった。僕の意見を取り入れる気など微塵もない。
このままオープンするのかと思ったら、アリスが子供になっていた。夢ではない。色々な新薬を研究している中で見つけたのだろう。少女になれる薬を。お兄様に相応しくなるように、彼女は飲んだのだ。
これは失敗なのか、アリスにとっては成功か……。
どこから見ても少女そのものだった。もちろん、中身も。常にぼうっとしており、何でも吸収していった時のような活発さはない。何も喋らない、人形のような子だった。
今なら簡単に殺せるだろう。自分を傷つけてきた存在を。
何度も毒を盛った料理を出そうとした。でも、あと一歩のところで踏み切れなかった。あんなに恨んでいたアリスの目が、とても澄んでいる。その目を向けられると、どうしてもできなかった。
もしかしたら、例の少年ならアリスは反応するだろうか。最後は彼に、協力してもらおう。
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