不変の貴女が語る、神居の郷の由来はどこか寂しく
「……何を見とるのじゃ、孫殿よ。……いや、杏矢」
真横から声がして振り向けば、そこに。
眼前にあった六十年前の写真。その並びの端にかかる二十年前の写真。
そこから更に二十年経つ現在に至るまで――――そのままの姿を保ったままの、写真の中の“先生”がいた。
靴のかかとが持ち上がった床板の
必死で体勢を立て直す俺を、“碧さん”は、ただくすくすと、穏やかに笑って見ているだけだ。
まるで、懸命に走る幼児でも見ているように……微笑ましく。
ポケットの中を探り当て、半身を引いて身構える。
このヒトは、きっと――――ヒトじゃ、ない。
佇まいがまったく不気味じゃないから……更に、不気味だった。
「ついて参れ、杏矢。訊きたい事もあろう?」
睨みつける俺へ、忍び笑いとともにそう言うと碧さんは、あっさりと身を翻す。
差し掛かる陽射しが、着込んだ白黒の
床板を踏み慣らすブーツの音を響かせ、向かう先はかつての職員室。
俺と怜が侵入者に驚いて隠れた、あの日の場所だった。
「……何を呆けとるか。とって食いやせんわ。私も、戻って騒ぎたいのじゃ。お主も早く戻らんとならんじゃろうて。のう?」
背筋の寒気は消えないが、悪意は無いように見える。無いと、信じたい。
警戒は、溶かない。
そんなものが役に立つのか分からないままポケットの中で“柄”を握り締めながら――――俺は、碧さんを追って職員室に入った。
*****
「…………なるほどなるほど、懐かしいわ。この
記憶の中のソレとほぼ同じ、木の机にしみ込んだ煙草とコーヒーの匂い、古びた木造だけが放つ、郷愁を呼び覚ます優しい匂い。
碧さんは、言った通り――――ボールを盗みに入った俺と怜が隠れていた机を撫でて、愛おしむように呟く。
俺は、そうしている碧さんを追い越すと、ガタつくキツい窓を開け放してから、魚の骨みたいに見える銀色のヒーターに腰かけた。
しばらく火の通っていないヒーターはひんやりと冷え切っていて……窓からそよぐ風も涼しく乾き、澄んでいた。
遠くから、風に乗って騒ぎ声がかすかに聴こえる。
俺もいままでそこにいて、何も知らなかったのに……今俺は、ここで……村の皆にとっては“今さら”の事実を知った。
恐らくは柳も、八塩さんも、怜ですら知っていたに……違い、ない。
「こら、火元に腰かけるでないわ、罰当たりめが。
適当に引いた椅子に座った碧さんが呆れるようにそう言った。
だが俺は、今は……小言よりも、聞きたい事がどうしてもあった。
「……ま、言いたい事は分かっておる。それにしても、改めて……本当に、治彦めは何もお主に聞かせなかったのじゃなぁ」
「爺ちゃん、は……あんたの……?」
「うむ、教え子よ。……お主とよう似ておるぞ。まぁ、昔から目つきの悪い
そして、碧さんは顔を伏せた。
きっと……何かを、思い出してしまったのかもしれない。
今だ計り知れないこの人とはいえ――――きっと、別れには慣れないのか。
「……何歳だ。あんた……いったい、今何歳なんだ?」
「
――――それが指すのが、“明治”であるのなら。
目の前にいる、二十代そこそこに見える“ハイカラさん”は……
「そう、怖がるでない。不死の身では無い。見た目で歳を経ぬというだけでの……。最近は、階段がきつくなっていてのぅ」
「……“我”を得た、って、どういう事ですか。まるで……あなた……人間、じゃなかった……みたいな……」
「それを話す前に。まず、この村の。“神居村”の成り立ちから話さねばならぬが、良いな?」
有無も言わせぬまま、それは始まる。
都市伝説の怪異が出没し、村民はそれを何の疑問も抱かず退治し、青年期には異常な特殊能力まで発現してしまう、この村の素性を語る、ひと時を。
「“神居村”は、ヒトの
「……人間、の……?」
「…………古く、古く
目に浮かんだのは――――中身入りのビール瓶ケース五箱を軽々と持ち上げる八塩さん。張った糸で首なしライダーを手も触れず落車させた柳。田んぼ一枚を助走なしで飛び越える、あの子。…………不思議と、怜だけは浮かばなかった。
「一説には、先祖返りを起こす故に“返り”。あるいは――――既に形も無くなった神々、妖異、まつろわぬ民。そうした者達が一時だけこの世へ還り、かつての力を振るう故に――――“還り”。村人どもが、どちらの字を使って呼んでいるかなど分かりもせんがな」
「……つまり……」
「そう。彼らが寄り集まり、死して地脈に魂を
「……待ってくださいよ。そんな……いくら、なんでも……」
「
そう、スケールが壮大すぎる。
この村人全員が顔見知りみたいな、小さな農村で――――まさか、神代にまで遡るルーツがあるとはとても思わない。
せいぜいが、遡れて江戸時代あたりだと思っていた。
「……どこの村も、大仰な言い伝えがあるもの。そう珍しくもなかろ?
「……本当、だったんですか?」
「じゃから、真偽など知らぬと言うておろう。私とてこの村の創立に関わった訳では無い。……まぁ、この村の最長老ではあるが、一世紀半しか見てきてはおらんわ」
――――何故か。
今、碧さんが話している事は……全て真実なのだと、思えてならない。
碧さんの言う通り、今話してくれたこの村のルーツは、荒唐無稽だ。
それなのに、何故なのか……自分でも何故なのか分からないほど、すとんと腑に落ちてくるのだ。
実際に、超常的な現象を色々と見てきてしまっているから、なのかもしれない。
加えて、碧さんの生きてきた時間の長さも――――これは、証拠を見てしまっているからぐうの音も出やしない。
無論あの写真に写っているのは碧さんの母で、途中から碧さん、という可能性も考えた。
だが、それにしては六十年前から現在まで――――外見があまりに変わらなすぎる。
バトンタッチが行われているようにはとても思えなかった。
考えれば考えるほど、脳みその奥がチリつくような
「……碧、さん……は、大丈夫、なんですか」
「ふむ?」
「だって、そんな……長く、生きてて……爺ちゃん、に……線香、あげてくれて……」
「……お主は、優しいの。何故……私に向けて、化け物を見るような目を向けないのじゃ」
碧さんは、きっとこの村で――――爺ちゃんが生まれた時を知っていたはずだ。
そして、爺ちゃんは皺だらけになっていくのに……碧さんは、全く変わらなくて。
爺ちゃんの、すっかり年取った遺影に手を合わせてくれた。
――――どんな、気持ちで?
「……まぁ、辛い。だがこればかりは仕方ない。誰とて、生きられても九十年程度よ。だがせめて、もう一度……あの爺殿と会いたかったな。……それとな、お主の期待に応えられず悪いが……“私の正体”を訊ねられても答えられんぞ。何せ、私にすら分からんのだからな」
「分からない……?」
「ああ。私が“我”を得たのは、この村の山奥での事じゃった。その時にはもうこの姿で、裸でおったわ。いやぁ、しかも時は十一月の終わり……凍死するかと思うたわ。想像したか?
「っ……!」
しんみりしたかと思ったら――――また、多分“姉”みたいなウザさが顔を出す。
でも、俺には少しそれが、救いだった。
碧さんがそうして空気を変えてくれたのが――――ちょっとだけ、嬉しい。
そこから、ほんの少しだけ沈黙を挟んで、話は更に続く。
「村に、何かと出る理由は……きっと、それですか?」
「聞こうではないか」
「……この神居村の成立は、人々に忌み嫌われた。居場所を失った。忘れ去られた神様だとか妖怪だとかが寄り添い合って始まった。なら、現代で人間の想像力と恐怖から産み出されたそれも、きっと……最後の居場所を求めて、ここに来る。だから……ここで還るために、来るんですね」
「…………そう、なのじゃろうかな。彼奴らと話せた事などない。お主は……本当に優しいのじゃな。何故そう思うた?」
「夏、に……口裂け女を倒したんです。そしたら、あいつ……まるで、何か満足したみたいに、笑って消えていったんです。あの耳まで裂けた、鋭い牙の真っ赤な口が……」
――――耳まで裂けた、鋭い牙の真っ赤な口が……どこか切なく、優しく微笑んで見えたから。
――――怜を連れて行こうとした、花子さんも、そうだった。
「最後に一つだけ、教えようかの。ここでお主と腹を割って話すも良いが、祭りはまだ途中よな。……持っておるな? あれを」
「はい」
ポケットの中から、いつも持っている――――平安時代の飾り太刀、その“柄”を取り出す。
握れば浅葱色の透ける幽霊刀が生じて……この世のものならざる怪異を、切り裂いてしまえる謎の道具だ。
「それは、元よりお主の家に家宝として伝わる名刀じゃった。……だが先の大戦に、お主の曽祖父は刀身のみを軍刀として仕立て、出征。……還らぬものとなった。じゃが、終戦して数年後。失われたはずの刀身だけが――――こうして、還ってきたのじゃ」
「……何故、これを……碧さんが?」
「申したじゃろう。治彦めから預かっていたのじゃ。……さて、祭りに戻るとしよう。お主も、何も食べてなかろう。蕎麦を振る舞うておるじゃろう、食べに参ろうか」
――――そして、俺は碧さんと一緒に、紅葉祭りの会場へ戻る。
そこから先は、神居北小での対話など無かったように、ただ賑やかなだけの時間を過ごせた。
八塩さんが幸せそうに何杯も蕎麦を平らげていて、珍しくげっそりしていた柳に事情を聞けば、逃げ切れずに隠し芸をやらされたとか。
最後に
――――神居村の“秋”は、終わった。
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