神居村に、いつかの秋

ヒダカカケル

Prologue

教室に響くトンボの翅音

*****


 日差しが頬に突き刺さるひりひりした熱さに耐えながら窓に引っかかって出られなくなったオニヤンマの翅音はおとの合間に先生の声を聴いていると、まだ夏が終わっていないような気さえしてきた。

 はねが窓ガラスを叩くギチチチッ、というもがくような翅音が斜め後ろに座る同級生をおどかしたのも、数分前。

 未だにもってビクビクしているのだと、見ずとも――――あまりに大きな体をすくめる様子が分かり、翅音のたびに引きつったような声が聴こえた。


 何気なく視線を感じて隣を見ると、その様子に苦笑する顔がこちらを向いていた。

 いつもどこか達観した、しかし淀まない表情を浮かべて柔らかい微笑みはいつも絶やされない。

 透き通った立ち振る舞いをするかと思えば、ときには色黒の悪童の影も見え隠れする、掴みどころのないのが彼女だ。

 ひと夏を終えて少しだけ日に焼けた肌が、ほのかに色づいているのが袖まくりのブラウスから伸びる腕で分かる。


 後ろで几帳面にカリカリと板書を写す音を響かせる、年中作業ツナギの男は相変わらずのマイペースで、隣席の同級生にも、オニヤンマにも、前二人の様子のどれにも興味を示さない。


 何度も、机が揺れる音を聴いているうちに四限目の授業は終わった。

 号令が済み、先生がいそいそと教室を出ていってから柳がすぐに立ち上がり、教室の後ろに立てかけてあるスコップを手に取り、持ち手を差し伸べてお騒がせのオニヤンマを留める。


「ったく……お前は何なんだ、一体。こんなの……“教室のあるある”だろうが。ガタガタ机揺らしやがってよ。貧乏ゆすりか?」


 そのまま、空いている窓から柄を出して一、二度振ると離れて、雲の引っかかる空に向けてオニヤンマは消えていった。

それを見てようやく、斜め後ろにいた同級生――――身長二メートル超の女子高生、八塩さんがほっと胸を撫で下ろしている。

 座高でさえも俺の身長より少し低い程度の、その大柄さに似合わず……八塩さんは、いつもどこかおどおどしている。

 口もとまで伸びた前髪の中に隠された表情は、それでも赤面しているのが、慣れ親しんだ今となってはよく伝わる。

 そんな彼女の姿をいつも茶化してからかうのが、俺の後ろの席の――――この教室で唯一の同性、神奈柳かんな やなぎだ。


「お前そろそろ慣れたらどうだ。いくらなんでもリアクションの取りすぎだと思わねェか」


 古典の教科書を机にしまいながらいつものように、いちいちトンボの翅音に怯えていた八塩さんに、呆れたようにいつものからかい・・・・を加えた。


「ご、ごめんなさい! ごめんなさい……」

「いや……怒ってるワケじゃなくてな」

「ははっ、まぁ、ビックリはするよね? 沢子」


 三十人は入る教室に、机はたったの四つ。

 隣の席は咲耶怜さくや りょう、後ろの席は神奈柳、斜め後ろに、八塩沢子やしお さわこ

 以上、たったの四人きりが――――この村に暮らす高校生だ。


「でも……多いな」


 何気なく窓の外を見ながら、俺は何となく口にした。

 校庭にはまるで、穏やかに凪いだ海を何艘なんそうもの小舟が行き交うように、トンボが飛び交っている。

 俺がほんの数ヶ月前いた場所ではまるで望めない、水田の多さにだけ許された秋の風物詩達の群れが、生き生きと。

 この山間の隠れ里――――東北の奥深く、数十年も前の懐かしい日本の原風景を鮮やかに残した限界集落、“神居村かむおりむら”ではいつもそうだ。

 トンボの古い呼び方、“秋津あきつ”の由来を目で見るようで、校庭から先の田園風景はどれだけ眺めていても飽き足らない。

 この村は季節ごとにいくつもの表情が見えてもはや四つでは足りず、七十二候しちじゅうにこうひとつひとつまで数えられそうなほどだ。


「実際、死活問題でもあるけどな」


 後ろの席、柳が溜め息をついたのが聞こえて振り返る。

 机の上にいつものドカ弁一式を広げながら、その表情は浮かない。


「柳。何かあったのか?」

「あぁよ。昨日……いや、昨日も、か。原付乗ってたらトンボが、な……ゴーグルしてたから良かったけど、目に刺さるトコだったぜ。あいつら突っ込んで来るぞ」

「あっぶ……!」

「事故って田んぼに突っ込まなかったのが何よりだった。ちょうどイワさんの田んぼの横だったからな……もし突っ込んだら、殺されちまうよ」

「生還おめでとう、柳。まぁメシにしよう、今はさ」


 トンボの話題は、もう去って。

 つかの間、あと一限ある授業に備えて昼食のひと時を始める。

 俺は朝、適当に作ってきたおにぎりを三つカバンから取り出す。

 面倒くさくて、最近は作り置きの昆布の佃煮とおかか、近所の人のおすそ分けの何か――――最近は、野沢菜が多い。


「まーたキョーヤ君は……偏るんじゃないか? ちゃんと野菜食べなよ」


 隣の席、咲耶からそんな指摘が飛ぶ。

 彼女は毎日――――小さな曲げわっぱの弁当箱に、色とりどりのおかずを詰めている。

 ゴボウの肉巻き、人参としらたきの煮しめ、えんどうの甘露煮、きれいに焼き上げられたふわふわの卵焼き、ごはんの上には黒ごまと小梅も、抜かりない。

 見ているだけで気の遠くなりそうな手間を感じ取れる、まるで老舗料亭しにせりょうていの折詰めだ。

 聞けば毎朝五時には起きて一家の朝食を作り、弁当を詰め、更には境内の掃除までしてから学校に来るのだ。


「入ってるよ、おにぎりの中に」

「同じのしか食べないんじゃ、結局同じだよ。……それはそうとさ、髪、伸びたね?」

「はぁ?」

「髪だよ。この村に越してきてから一度も切ってないだろ?」


 咲耶が、自分のもみあげあたりの髪を引っ張りながらそう繰り返した。

 そういえば――――そうだ、春に引っ越してきてから、一度も散髪してない。

 確かに最近、うっとうしく感じる事が増えてきたけど……面倒くさくて、いつもいつも先延ばしにしてしまっていたのだ。

 向こうにいた頃は、二ヶ月に一度は爺ちゃんに“男が伸ばすな! 小遣いをやるから切って来んか!”と追い出されていたが……つい、だらけてしまっていたかもしれない。

 それと、もう一つ理由がある。

 もともと、夏休みにはあちらに一度顔を出すつもりでいて、その時についでに髪も切るつもりだった。

 だが。


 俺は――――夏休み、帰省しなかったのだ。


「あの、さ。……よかったら、切ったげようか?」

「え……は?」


 おにぎりを齧りながら聞いたのは、思いもよらない一言だった。

 聞き間違いでないのなら、咲耶は今……確かに、そう言った。


「もしよかったら、ボクが切ってあげるよ。どう?」

「……いや、悪いよ。どっか床屋……待て、ここって……」


 思い起こした可能性がひとつ。

 この村――――“床屋”あるのか?


「床屋ならある。だけどやめとけ」

「え?」


 疑問に答えてくれたのは、柳だ。


「確かにあるが……バリカン丸刈りとサブちゃん角刈りしかできねぇぞ。だからってわけじゃないが、この村のガキは母ちゃんか……でなきゃ、リョウに切ってもらってる。安心しろ、腕は確かだ。なぁ、サワ」

「は、はい!? ……はい、うん。怜ちゃんにいつも……切ってもらってます。私の髪……普通の方法じゃ、切れなくって……」


 いきなり話を振られた八塩さんがそう答え、サンドイッチを一口かじる。

 口まである前髪はピンで留めてサイドに流されているが、それでも目元はまるで見えない。

 正直なところ、何故八塩さんはこんなので前が見えているのか……不思議でならない。


「……どう、キョーヤ君。もし嫌だったら、無理にとは言わないけど、さ」


 そう言われてはとても断れないし、何より、丸刈りも角刈りもイヤだ。

 このままでも鬱陶しいのは確かだし、答えは同じ。


「――――頼む、咲耶」


 俺は――――咲耶に、そう告げた。



*****


「……で、まさか今日なんて」


 放課後、その足で向かったのは神居神宮かむおりじんぐう

 咲耶の家はその一角にあるが、今俺がいるのはその中でも庭でもなく、参道沿いに佇むまだ青々と葉を残すカエデの樹の下に陽射しを避けるように座らされていた。

 どこからか持ってきた学校椅子は脚のキャップがひとつ外れているのか少しガタガタするが、それを言おうとする前に散髪用ケープをかぶせられて、“てるてる坊主”の完成だ。


「キョーヤ君。髪って、一度“うっとうしいな”って思ったらもうダメさ。切りたくて切りたくて、気になって気になって仕方なくなるものなんだよ。思い立ったが吉日、ってこと」

「まぁ……分かるけど。その、信じてない訳じゃないけど本当に大丈夫か?」

「あっはははは。まぁ、大丈夫だってば。動いちゃダメだよ」


 腕まくりをして、胸ポケットにヘアクリップを留めて、スカートに引っかけた革の道具入れにはコームや梳きバサミ、ブラシなんかがぎっしりと詰めてあるのが見えた。

 本格的なのか、それとも咲耶が凝り性なのか――――ともかく、少しだけ警戒は解けた、と思う。


「ほら、まず髪濡らすよ。どのぐらいの長さがいいんだい?」

「ん……任せる。好きなようにしていい」

「へぇ? ……ところで、昨日ね。本願寺ほんがんじのドキュメンタリーやってたよね? ボク、ちょっと楽しんで見ちゃっててさ」

「だからやめろっつの!」

「くくっ……冗談だよ、やだなぁ」


 俺の慌てて裏返った声を薄笑いとともに遮り、足元に置いていた霧吹きを拾う気配がした。

 ――――かしゅっ、かしゅっ、と小気味よくスプレーされる音とともに、まだまだ残る暑さに半ば茹だっていたような頭に、一瞬の涼が走る。

 うなじにかかる水の粒もまた、乾いた汗を心地よく洗い流してくれるようで――――冷たく、ない。

 勢い余ったか顔の横を空振からぶった霧の中に、一瞬だけ虹が見えた。


「ふふっ。伸ばしたねぇ、キョーヤ君。夏になる前に切ればよかったのにさ」

「今思うとそーだなー……。待てよ、自分はどうなんだ? 咲耶」


 ヘアクリップで邪魔な髪をまとめ上げ、いよいよ、ハサミが淀みなく入れられていく。

 随分と手入れをしているのか、しゃくっ、しゃくっ、しょきっ、と爽快な音を立て、断たれた髪の毛がケープを滑り下りるかすかな振動まで伝わる。

 暖かいそよ風が参道を抜けるたび、葉のざわめきがそこに加わり、鳥の歌と虫の声、それらの羽音も負けていない。

 夕方にもなれば、餌を探すリスが樹を駆け上る音もするだろう。


「……ボクは……どうしよっかな。キミはどう思う?」

「どう、って……どういう話だ?」

「短いのと長いの、どっちが似合うかな? たまには伸ばしてみるのも悪くないかなとは思うんだ」

「んー……」


 咲耶も、たまに揃えはしていても髪を短くはしていない。

 少しずつ、少しずつ伸びているのが思い返すと分かる。

 こういう質問は、少し苦手だ。

 とりあえず、咲耶と――――再会した時の事を、思い浮かべた。


「……覚えてるか? 俺がこの村に来た日の事。川に足浸けて、“春の小川”」

「もちろん覚えてる。それが?」

「や、あの時さ。…………俺、見惚みとれたんだ。可愛い、な……ってっ」


 そう、迂闊にも吐露してしまった瞬間の事。

 じゃきんっ、という、またはばつんっ、という音が――――後頭部のあたりで、無慈悲に響いた。

 引きつったような呻きも……同時に。


「――――――キョーヤ君」

「え」

「ゴメン」

「ゴメンって何が」

「本当にゴメン」

「だから何がゴメンなんだよ!? 鏡! 鏡、見せろ!」

「だい、じょぶ……大丈夫、何とかするから。ほら動かないで、落ち着いてってば!」


 ――――――オチなんか、本当にいらなかった。


 ――――――なんて、日だ。







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