冷静になる暇
「今回の引っ越しについても、『する必要はなかった』みたいなことを言う人間が必ずいるだろうが、それは所詮、結果を見てからの<後出しじゃんけん>にすぎん。こっちとしてはあの時点で打てる手をすべて打っただけだ。
対策を一つずつ小出しにして<各個撃破>、いや、破られてはむしろ状況を悪くするだけだろう。
<引っ越し>という大きな動きと同時進行での<ミハエルの帰国>だったからこそ、あの女性に冷静になる暇を与えずに一気に畳みかけられたのだと思うのだ。
でなければ、こちらの意図を見破られていたかもしれん」
「そうですね。今回はたまたま<帰国したフリ>が上手くいっただけで、引っ越しの段階で諦めていた可能性だってないとは言えない。ストーカー自身の考えは本人にしか分かりませんし。
それに……」
『それに』と言ったところで、さくらは少し間を置いてから再び口を開いた。
「先生は、エンディミオンに事件を起こさせない為にもここまでしてくれたんですよね……」
申し訳なさそうにさくらは苦笑いを浮かべる。
「まあな。あのストーカーが決定的な事件を起こさなかったのは、望外の幸運だったにすぎない。一番の理由はエンディミオンが何か事件を起こしてお前が悲しむのが嫌だっただけだ。
それは間違いない」
「ありがとうございます……」
と深々と頭を下げるさくらに、今度はアオが苦笑いを浮かべる番だった。
「別に感謝してもらう必要はない。私が勝手にそう思ってただけだ。それにミハエルの気持ちでもある。彼は本当に心優しい吸血鬼だよ」
「ええ。まったく……エンディミオンもいい加減、それを認めてくれたらいいんですけど……」
「苦労が尽きないな……」
「はい……」
そうは言いながらも、さくらにとってもエンディミオンは<家族>だった。結婚した訳でもなければ養子縁組した訳でもないが、寝食を共にし、互いを必要としているのだから、それはもう<家族>なのだろう。
「で、エンディミオンは相変わらずなんだな?」
「はい、それはもう…」
困ったようにさくらが微笑んでいた頃、当のエンディミオンは、
「えっくし!」
と、くしゃみをしていた。ダンピールといえどくしゃみくらいはするのだ。
指で鼻を撫で、エンディミオンは仏頂面を崩さずにやはりアオの部屋を見上げていた。
以前のそれよりは小さいものの、今度のマンションの隣にも公園があり、エンディミオンはそこに植えられた街路樹の枝に腰かけていたのである。
もうすっかり、日常の光景となっていた。
人間よりもはるかに長命な吸血鬼やダンピールにとっては、これまでの時間など、人間にとってのほんの数日と変わらない。
エンディミオンがこの監視を辞めるには、まだまだ時間が必要ということなのだろう。
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