第2話 困ったときは頼りましょう

 






随分と冷たくなった風が吹き付ける。

夕日が山頂に隠れてから少し経った。

山の麓で木々が間近に生い茂るこの神社には、もう夜の匂いが漂い始めていた。


「……寝たか」


静かに溜息を吐くと、強張っていた身体から力が抜けていくのを感じた。

胸元へ目をやれば、艶やかな黒髪が俺の吐息で小さく揺れている。

そこから聞こえるのは悲痛な謝罪と嗚咽ではなく、やや低くも規則正しい寝息。

ついさっきまで俺の服を濡らし続けていた彼女は、夕日が隠れるのと時を同じくして、糸が切れたように意識を手放していた。


俺の言い付けを無視して、何処かへ旅立っていた冷静さが今頃になって帰ってくる。

回り始めた頭で考えることは、彼女のことばかりだ。

この人に一体、何があったのだろう。

漠然とした疑問は深い霧に包まれ、その先にある答えを霞ませる。

身投げまでしようと考えてしまう程だ。

それ相応の苦しみが彼女を蝕んでいるのだろう。

その境遇を憂いると同時に、死にたいなどと考えたこともない自分がズルをしているように思えしまい、また微かな罪悪感に苛まれた。


「これからどうしたもんか……」


腕の中には名前どころか、素性すら一切分からない女性が眠っている。

救急車は……もう大丈夫そうかな。

なら児童相談所か。

いや、その前に警察へ行くべき?

でも、彼女が事を荒げたくなかったらどうする?


「う、うーん……」


これからすべき事を色々と模索してみるが、どれが彼女にとって最良なのか判断付かなかった。

高校生といえど、まだまだ社会を知らないただの子供。

そんな自分の未熟さがもどかしかった。

こんな気持ちにさせられることなんて、もう当分はないと思っていたのになぁ。


「……困った」


袋小路に陥った俺は、心の内を無意識に吐露していた。


「……ん、困った?」


何の変哲のない言葉が妙に引っ掛かった。

ぼんやりとした聞き覚え。

この言葉、最近どこかで聞いたような。

そう思った時、俺の身体に電流が駆け抜けたような衝撃が走る。


『困った。そんな事があれば帰ってきなさい』


脳裏で鮮明に再生される声。

それは先刻聞いたばかりの言葉だった。


「……帰ってみるか」


このまま一人で考えても日が暮れるだけだ。

それは彼女にとっても、俺にとっても望ましいことではない。

今は一番信頼している人に助けを求めるのが最善の選択だろう。

そうと決まれば行動あるのみと、胸元の彼女を持ち上げる為に、何気なく膝裏へ腕を通そう―――


「っ!?」


―――こ、これはスカートッ!?

無防備な彼女の下半身を守るのは、なんとも心許ない一枚の布。

その布の終端からは、静謐な森林に隠されている秘宝のような白く目映いおみ足が続けていた。


おっほほおぅ……じーさす……っ!


また勝手に旅立とうとする平静と、謎の引力に引き寄せられる手を必死に押し留める。

いくら現状のようなシリアスな場面であっても、寝ている婦女子の足に無断で触れるなどという蛮行は許されない。

そんな事が一度許されてしまえば、世界はイエスタッチ派閥とノータッチ派閥の二つに二分され、やがてその火種は大きな戦火へと成長し、地球をその業火で包みこんでしまうだろう。

俺の行いが世界の命運を握っている。

そんな強い使命感を持ってこれからも精進して参る所存です。

ところで、イエスタッチ派の入会手続きは何処で―――はっ!?


「な、なんたる魔性……っ!」


弾かれたように正気を取り戻した俺は、凶悪なまでの魅力は放つ彼女のおみ足に戦慄する。

ふくらはぎでこれならば、もし太ももを目にしたら……?

恐ろしくも甘美な想像を「ほ、ほほう……これまた……」と、無意識の内にだらしない声がこぼれたところで慌てて振り払った。


これは後程再検討するとして、今は運び方を考えなければ。

少しばかり思考に沈む。

すると横抱きは足に触れる以前に厳しいことが分かった。

なにせ目的地までは歩いて十分程度の距離。

腕の筋力だけで支える横抱きでは、辿り着く前に俺の腕が限界を迎えてしまうだろう。

ならば、と他の方法を模索する。

重い物も楽々、俵担ぎ式。

手軽に持てる、横脇抱え式。

慣れたもんだよ、反転バックブリーカー式。

あれやこれやと思い浮かぶ運び方はどれも、こう……非人道的と言うか酷く乱暴だった。

こっちが警察さんを呼ばなくても、向こうから血相を変えて来てくれそうだよね。


「……うん、おんぶだな」


結果、一番無難な方法に落ち着いた。

接触面も増えるし、足にも結局触れてしまうが詮方ない。

他に方法が思い付かないのだがら、申し訳ないが窮余の一策として大目に見てもらうことにしよう。


泥のように眠り、泥のように力が抜けた彼女を反転バックブリーカー式の要領で手早く背負った。

最低限の配慮として出来うる限り肌に触れず、尚且つスカートの中が見えないように位置を調節しておく。

じんわりと背中に伝わる彼女の体温。

耳元で聞こえる小さな寝息。

それらが得も言われぬ不安を拭い去り、俺の口からは安堵の溜息がこぼれた。


揺らさないようにゆっくりと歩き出す。

舞台の横を通り過ぎ、小川に架かった橋を渡る。

鋪装された道路まで出ると、薄暗い夕焼け空がよく見えた。

夕日が沈んだ方向に足を向ける。

行き先は近所の民家でもなければ、この町唯一の駐在所でもない。

ここへ至るまでに歩いた道のり。

それを辿った先に俺が目指す目的地がある。






――――――――――――――――――――






田んぼに囲まれた長く緩やかな坂道を、巣へと帰る鳥達に追い抜かされながらのんびりと歩く。

空は濃紺に染まり、道路沿いに設置された街灯が道標として輝いている。

家々に灯る淡い光は、家族の帰りを待ち侘びているようだ。

その光の中の一つ。

重みを感じさせる檳榔子染(びんろうじぞめ)のような源氏塀に守られた、荘厳なる日本家屋。

妖しげに揺らめく灯火をかけた門扉の下に、一つの人影が佇んていた。


「おかえり、幸治(ゆきはる)。待ってたよ」


「……ただいま、瑞樹(みずき)姉さん」


夕闇からぼんやりと浮かび上がったその人、瑞樹姉さんは柔らかい微笑みで俺を出迎えた。


「知ってたんだろ、こうなるの」


「さぁ、どうだろうね」


瑞樹姉さんは薄暗い世界でも際立つ黒髪を揺らし、悪戯めいた笑みで誤魔化す。

この反応、絶対に知ってた。

恨みがましい眼差しを向けるも、瑞樹姉さんは可笑しげにくつくつと笑うだけだ。


「……少しくらい教えといてよ」


「ごめんごめん、こっちにも事情があってね。よしよし、そんなに不貞腐れないで?」


「む、むぅ……」


頭を優しく撫でられて、俺は呻るしか出来なかった。

大人の余裕っていうのは、まったくもって反則技だ。

こんなにもさらりと謝られてしまうと、俺が無理を言って瑞樹姉さんを困らせてることを自覚させられる。

自分の態度が酷く幼稚に思え、居心地の悪い恥ずかしさが自分を責めるのだ。


「ねぇ、それよりさっきのどうだった?兄さんに似てた?」


「……似てたよ」


「そっか、なら良かった」


瑞樹姉さんは表情を綻ばせる。

淡い灯りで照らされた純白の大輪。

そんな風に笑う瑞樹姉さんは、本当に嬉しそうだった。

その気持ち、よく分かるよ。

もし俺が同じように似ていると言われれば、そんなものじゃ済まなかったはずだ。

きっと飛び跳ねながら喜んで、一週間は寝不足確定だろう。


両手で頬を包み、さっきまでの大人然とした佇まいを崩して艶やかな長髪を揺らす瑞樹姉さん。

その様子につられて俺の頬も緩む。

いつの間にか自分を責める恥ずかしさが、嘘のように消え去っていた。


「瑞樹姉さんは、その……この子があんな事をしようとした理由も知ってるの?」


「ん?まぁね」


「……それって、俺は聞かない方がいいかな?」


「なに?この子のこと、気になるの?」


そう問う瑞樹姉さんは、意地の悪そうな薄笑いを浮かべる。

その表情にどんな意味があるのか知らないが、俺は当たり前だと頷いた。

あの場面に遭遇し、幕を降ろそうとしていた彼女の人生を変えてしまったんだ。

助けるだけ助けておいて無関係だと切り捨てるのは、あまりにも無責任だろう。


「そういう意味じゃないんだけど、まぁ今はそれでいいかな」


瑞樹姉さんはそれまでの朗らかな雰囲気を一変させ、俺を見つめた。

空気が沈み、音が止む。

神秘的や幻想的といった表現を通り越し、神性を帯びているとさえ言えるその姿は恐ろしいまでに美しい。


「今は聞く必要はない。ううん、私が語るべきではないって言い換えるべきかな」


「んん?どういう事……?」


「ここから先は幸治次第って事よ」


要点を濁された言葉に、俺は首を傾げる。

どういうことだろう。

さっぱり見当がつかなかった。


俺はこの子の事情を聞くべきではないってことか?

いや、瑞樹姉さんは今は、と言ったんだ。

ならいずれ聞くことになるのか?

その選択を俺がする?

今聞けるなら聞いておきたいと思っている俺が?

……駄目だ。これだけじゃ分からない。

知りたい部分はうまい具合に隠されていた。

多分、瑞樹姉さんがわざとそういう風に話しているんだろうけど。


「その子、預かるわ」


「あ、あぁ、うん」


肩を軽く叩かれ、意識がこちらに戻ってくる。

瑞樹姉さんはくすりと小さく笑った後、俺の背で眠る女の子を難なく受け取る。

久しぶり見たような気がするその寝顔には涙の跡が残り、今日の出来事が現実なのだと俺に教えてくれた。


「後は任せて今日は帰りなさい。明日、始業式でしょ?」


「うん……瑞樹姉さん、その子のことお願い」


「ふふっ、お願いされました。その代わり、今度は制服姿を兄さんと私に見せに来なさい」


「分かった。出来るだけ早めにくるよ」


「楽しみにしてるわ。帰り道、気を付けてね」


女の子を横抱きに抱えた瑞樹姉さんは、その重さを微塵も感じさせず少し寂しそうに微笑んだ。

そんな表情をされると帰り難い。

俺だって名残惜しいんだ。


門の奥に見える山の麓で佇む日本家屋。

そして、ここからでは見えないその先へ視線を移す。

そこに灯った光を見つけると、余計に帰るのが寂しくなった。

それでも瑞樹姉さんに別れの挨拶を返して、背を向ける。

そろそろ帰らないと、何を言われるか分からない。

ご馳走を作っている父さんはまだしも、それを前にしてお預けをくらっている母さんと弟が五月蠅いんだ。


一度目とは違う、暗い景色の中で帰路に着く。

何となく、少し歩いたところで振り返った。

ぼんやりと明るい門扉の下で、瑞樹姉さんはまだ俺を見送っていた。

胸の奥が温かくなる。

嬉しくなって、手を振ってみた。

両手が塞がっている瑞樹姉さんは、くるりと軽やかに回る。

女の子を抱えているのに、その重さがまるでなくなったような身軽さだった。

無理して返さなくったっていいのに。

そう思いながらも、俺の頬は緩んでいた。


「いや、無理なんかしてないか」


俺がこぼした呟きは誰にも届かず、森のざわめきに掻き消される。





 

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