67.エリカという役割

 色々納得した萌香に安心したのか、あるいは萌香が理解したことについて知りたいのか、しばらく話は続いた。萌香の本心としてはアルバートに聞かせたくない部分もあったが、お姫様を守る騎士のように、絶対にそばを離れないという彼の意志を尊重する。


 エムーアは大きかった国から取り残され、小さく孤立した国。そうなった原因の影響は今も続いていることは、国民には秘密。もしかしたら気付いている者がいるかもしれないが、いつ、どこが消えるか分からない。そんな不安を抱えながら人が生きていくのは厳しいだろう。

 一般的に知られていることは、稀に萌香のように外から訪れる人がいること。

 消えたエアーリアが戻ってくるらしいこと。

 それ以外は平和な世界。


 アウトランダーの調査員として怪奇現象のような不思議と関わっている者であっても、情報が制限されているのはパニックになることを恐れてだろう。この国には逃げるところなどないのだから。


「逆に、この国が丸ごとアウトランダー、いえ、元の世界に戻る可能性もあるわけですよね」

 ムー大陸は天変地異で水没したと言われているけれど、海中にその痕跡がないのは沈んでいるわけじゃないからだ。

 突然大陸、もしくはこのエムーアだけでも現れたら大ニュースだろう。

「この天空都市だけでもすごい話題になりそうです」

 でも長らく隔絶された世界だ。もし外に出たら、平和な島国に色々な問題が起こるだろうことは萌香でもわかる。


「私は国交もしたことがない王だし、早めに引退しないと大変でしょうね」

 ヴィルマの軽やかな笑い声にオーラフは苦笑するが、実際どうなるか予想もつかない。鎖国をしてた日本だって、完全に隔絶されてたわけではないのだ。しかも今の萌香は言葉が通じるが、壁がなくなり何らかの不思議が消えたら、聞いても全く理解できない言語かもしれない。

 しかもその外の世界は、萌香がいる地球と同じとは限らないわけだ。


「ややこしすぎて熱が出そうです」

 ここに来てから長いこと熱が出てたのは、フィンセント医師の言うように環境に馴染むための知恵熱だったのだろうなと改めて思う。一人でも大変なのだ。国全部で見るとなればもしもの時、変化に対応するのは並大抵のことではないだろう。


「そうね。でも人は与えられた役を精一杯こなすものよ。責任と義務は放棄できないわ」

 さっきは引退などと言っていたヴィルマは、一瞬だけ厳しい表情を見せ、すぐに柔和な顔に戻る。

「与えられた役……」

 その言葉は萌香に一番しっくり馴染むものだ。

 萌香はエリカだけど絵梨花ではない。

 でも聖女エリカとしての役割を果たす覚悟が出来たことに、女王はひとまず安心したようだ。


 ――いずれ、リューオーにあたる誰かと会うことになるのかな。


 エリカという役割を受け入れた途端に感じるようになったものを見つめ、多分そうなるだろうと思った。遠くない未来。でも、今日明日ではない。 


 まだ時間はあるということで、それまでは予定通り就職をしてしっかり働くと言った萌香に、ヴィルマは

「聖女として王宮に留まってもいいのよ。むしろ、そのほうが安全ではないかしら」

 と言った。だがそれはそれ、これはこれだ。

「その必要があれば、ぜひそうさせてください」

 実際に騒ぎの渦中に巻き込まれたら、否が応でもそうせざるをえないかもしれない。でも今はここでの普通の暮らしをしたかった。期間限定かもしれない。違うかもしれない。そんな不安定な未来でも。


   ◆


 退室したときは日が随分低くなっていた。

 広い廊下に出ると、ふいにアルバートが萌香の腰に手をまわしてくる。エスコート的なもので他意はないかもしれないが、萌香はそっとそれから逃れた。

 脳裏をよぎったのは一条修平の姿だ。彼は友人の前でよく萌香の腰に手を回し、自分の好きな人だと萌香を紹介した。ニコニコと人当たりのいい顔で無邪気に。

 今思えば、あれは本当に何だったんだろうと思う。彼の友人から萌香はどう見えていたのか。いっそ彼らからすべての記憶を掻き取ってしまいたいくらい、恥ずかしくて情けなくなる。

 一瞬の内にそれらのことが脳裏を巡った萌香は、アルバートに「すみません」と謝った。

「今日の靴、踵が高いから歩きにくくて」

 ただの言い訳だが、彼は「ああ」と納得してくれたようでホッとした。


 そのまましばらく並んで歩いているとアルバートが立ち止まったので、萌香も止まる。

「アルバートさん?」

 首を傾げる萌香をじっとみつめる彼の目にどぎまぎし、視線をさまよわせる。何か気に触ることをしたのだろうか? おとなしく腰を抱かれたままにした方がよかった? でもあれはかなり恥ずかしいし、黒歴史を思い出すし……。


 不安になって謝ったほうがいいのかと考えていると、彼は少し息を吐き、「萌香に言おうと思ってたことがあるんだ」と言った。少しためらうように手をあげ、萌香のおくれ毛をかきあげるように、耳のあたりに手を触れる。

 ドキリとした心臓を鎮め、扉を開けそうになる気持ちを封印しなおした。ここのスキンシップに慣れる日が来るのかしらと思いつつ、アルバートの顔を見る。熱のこもった目には気付かないふりをした。


「さっきも言ったけど、俺はお前の求婚者だ」

 候補が消えたことに首を傾げると、アルバートの指が髪に少し差し込まれるのを感じた。

「萌香」

「はい……」

「今のお前では、はっきり言わないと通じないだろうから、ちゃんと言う。フリでも役でもなく、恋人に、なろう」

 予想もしなかった、あまりにも直接的な言葉に呼吸が止まる。目が見開かれ、胸がギュッと痛くなる。だが彼のまっすぐな視線を受け止められず、萌香は俯いた。

 これは、私が聞いていい言葉じゃない。


「それは、絵梨花が戻ってきたときに言ってください」

 だってこれは絵梨花に向けた言葉。日本風に言えば、結婚を前提に付き合おう、そういう意味だ。

「お前がエリカだろ? さっきそう言ってたじゃないか」


 その優しい声に、やはり彼がきちんと理解できていないことが分かり、萌香は自分の胸元でキュッと拳を握った。おそらく王位継承者とは知識量が違うアルバートには、彼らほど萌香が言った意味が理解できていないのだ。そのことに半分だけ安堵する。

 それはそうだろう。逆の立場なら笑い飛ばすところだ。

 並行する世界に数多あまたの自分が存在するなんて、普通信じない。

 でもそれはほぼ真実で、オーラフは当たり前のように納得した。


 退室前に「前に絵梨花に会ったことが?」とこっそり聞いた萌香に、ウインク一つで肯定した殿下は、「大丈夫。何もかもうまくいくさ」と励ますように頷いた。アウトランダー調査部のトップでもある彼は、必要があれば説明も手伝ってくれるだろう。


「ええ。でもエリカであると同時に私は、アウトランダーの萌香です。エリカという役目を持った、この世界の異質な存在ですよ」

 この世界の絵梨花は私じゃない。でも今この時に必要な役割だから、きっとそのことに意味があるから、その役をこなそうと決めただけ。


 アルバートの絵梨花を見る視線に、声に反応し、表に出ようとしている自分もえかの気持ちをギュッと押さえて、深く深く沈めて蓋をする。覆いをかけてしまえばもう見えない。

 高めのヒールのおかげで目線が近いアルバートに、ニコッと無邪気に笑いかけた。

 萌香・・にとってのアルバートは、メラニーと同じくらい大好きな人。兄みたいに頼れる人。それ以上でもそれ以下でもない。そうでなきゃいけない。だから恋なんて何も知らない、気付くこともない女の子の仮面をきっちり被るのだ。


 萌香の笑顔に戸惑ったように一瞬口籠った彼は、ふいに両手を萌香の腰に回し少し引き寄せた。驚いて慌てて押しやると、アルバートはまるで少し拗ねたような顔になっている。

「さっき、誰のことを考えてた?」

「さっき?」

 初めて見るアルバートの表情と質問に首を傾げる。

「おまえがアウトランダーだと言うなら、帰りたいのは恋人のもとへか?」

「はっ? そんな人いません」

「……」

 瞬間的に否定したものの、明らかに信じてない目にため息が漏れる。

「本当にいませんよ。そんな物好きな人、いるわけないです」


 その無情なほどの事実に、我ながら年頃の娘としてそれもどうなのよ、と突っ込みたい。そんなロマンチックな理由があればドラマチックよね――などと一瞬考えるものの、ヒロインでもない自分には似合わな過ぎると気づきがっくりだ。

 実際、大好きだと思ってた人は去っていった。いたのは幻のような、恋人でもなんでもなかった人。あの日からまだ二ヶ月ほどなのに、遠い昔のように思える。そのせいか思い出そうにも顔さえ曖昧で、なんだかおかしくなってくる。


 ――やっぱり私は、恋愛なんて向いてない。あんなに好きだと思っていた人なのにこれだもの。


「おまえは何もわかってないよ」

 わかってないのはアルバートさんです。

「ほかの男が、俺みたいな目でおまえを見るのは嫌なんだ」

「俺みたいな目って何ですか」

 クスクス笑ってアルバートから距離をとる。

「私があの絵梨花・・・・・じゃないって分かれば、誰も相手にしないですよ?」


 とはいえ、第二のデズモンドがいないとは限らないし、彼はまだあきらめてないかもしれない。それはまだ怖い。彼だけは、萌香が絵梨花じゃないと分かっても固執しそうな気がするからだ。

 デズモンドは一条修平に似ていた。

 顔は似ても似つかないけれど、神々しく見えるほどの無邪気な笑顔や、自分の見たいものだけを見ている、そんな男。

 もしこちらに来て最初に出会ったのが彼なら、もしかしたらまた萌香は勘違いをしたかもしれない。

 想像の「私」だけを見ているなんて気づかずに。


「せめて絵梨花が戻るまで、求婚者候補のふりは続けてくれると嬉しいですけど……」

 

 記憶の中であの日、『好きな人ができた』と言った修平の顔が浮かび、なぜかそれがアルバートに変わる。

 ――もしそれが現実になったら、私、今度こそ死ぬかもしれない。

 自然とそう考え、こぼれそうになったため息を我慢する。


 絵梨花の代わりは務められても、恋まではできない。してはいけない。それは無責任で身勝手すぎる行為だ。

 帰れる可能性があると確信できた今だから、尚更不毛なことは始めないほうがいい。本当に好きにならないうちに。


 彼は文字通り、住む世界が違う人。


「でもアルバートさん、すぐ恋人が出来そうですし、その時は遠慮しないで役をやめて下さいね。そんなに長く縛ることはないと思いますけど」

 長くても今年いっぱい。それ以上は甘えないと決めた。

 笑った顔に憂いはないはずだ。絵梨花には悪いけど彼の心は自由だから。彼の厚意に甘えてばかりはだめだろう。

 彼が恋人になろうと言ったのは萌香ではない。絵梨花の中にいると思っている萌香だ。


 アルバートは少し乱暴に自分の髪をかき上げ、はあと息を吐いた。

「自分がモテないとは言わない」

「っ!」


 ――うわぁ。モテる男のセリフってすごいな。


 ナチュラルに言い切られたことにむしろ感動する。もし色男の役をすることがあったら参考にしようと、違う意味でときめいてしまった。

 そのズレた思考に気付いたのか、アルバートはもう一度ため息をついた。


「この年だから、結婚を考えられない相手と付き合うのはやめようって決めてたんだ。だから、お前は忘れてるかもしれないけど、俺にはここ何年かは恋人はいない」

「そう、なんですね?」

 この年と言われても、彼はまだ二十四歳のはずだ。

「日本だと、女性でも結婚するのはもっと上でもおかしくないんですよ。三十過ぎとか普通です」

「三十⁈」

 ギョッとした顔がおかしくて思わず笑い転げる。

「アルバートさんくらいの年の男性だと、まだ社会に出たばかりで、結婚する人はあまりいないです」

 十代で結婚相手が決まる世界は、萌香にとっては異質だ。

「私を待ってるのは、そして帰りたいところは、家族のいる場所です。父と母と弟。それから友だち。とても大切なんですよ」


 そう言った萌香の耳の奥で、ヘレンが自分を呼んだ気がする。不意に近くにいるような気がして周囲を見回したが、広い廊下にはアルバートと自分だけだ。


 急にキョロキョロしだした萌香を不思議そうに見るアルバートに目を戻す。会話の主導権が萌香にあることに少し安堵した。

「あとでみんな一緒の時にまとめて説明しますけど、私はアウトランダーの萌香であり、絵梨花の代わりに聖女エリカという役割を担うものです」

 でも絵梨花でも間違ってはいない――その言葉は今は飲み込む。


 初めから自分が絵梨花だったら――そう考えそうになる心にもきっちり蓋をする。それは考えても仕方のないことだ。

 どうしようもないくらいのホームシックや不安同様、外に出しても仕方がないこと。だから何もわからない萌香の仮面を被ろう。

 私は絶対、日本に帰るのだから。

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