35ページ目 印刷工場
こんな所でって、何ですか? 戻るって……
消えてしまった本のある世界。当たり前のように印刷技術が台頭している過去の世界。VRの世界。私の大切な大切な世界。
突然、私の体を襲うジャーキング感。
フワッと浮かび上がるような感覚がお腹の中を掻きまわす。私はその身を小さく細かく振るわせた。
「う、うん……」
ここは? 革ジャン先輩の働く印刷工場?
私は床に腰をおろし、高い天井に並ぶ蛍光灯を見あげて目を瞬かせる。
思考が戻って来ない。頭がまわらない。自分の目に映る景色すら、正常な思考回路の中を流れて行かない。
濃い赤色や青色のインキで汚れた緑色のコンクリートの床。何か油のようなものがしみ込んだ大きな大きな暗い影。
革ジャン先輩に印刷を教わっていた時に何度も見た、奥の部屋が見えるガラスの仕切りの向こう側は、部屋全体を覆うようなブルーシートがかけられている。
ガラスの仕切り……私はどこからそれを見ているんだろう?
印刷機が――ない?
印刷機が、ない!
私は大きく目を開けて辺りを見まわす。
革ジャン先輩の働いていた印刷工場に間違いない。
間取りも、工場隅のトイレのドアも、その前にある流しも。西側と北側には天井近くまである大きな大きな金属製の開き戸も。
その前にあった薄茶色の紙の包み紙の山もない。何もない。
印刷機も、インキの棚も、紙の棚も、何一つない。
見慣れた印刷工場の、見慣れないその空間に、私は目を擦……れない?
自分の置かれた状況がまるでわからない。手が――後ろにまわされた手を動かそうとすると親指の付け根に締めつけられるような痛みが走る。
私の手が、何かに触れる。温かく柔らかい――手だ。誰かの手だ。
私は思うように動かない体を目いっぱい捻り、後ろを確認する。
「マキ――ちゃん? マキちゃん! マキちゃん!!」
「う……」
「マキちゃん、大丈夫!?」
頭を垂れるように俯いていたマキちゃんが小さく首を振り、ゆっくりと体を起こす。そして、ぼんやりとした目で私を振り返った。
――ッ!?
マキちゃんの頬が赤く腫れあがっている。
「マキちゃん! その顔どうした……」
突然、蘇る記憶。
背後からの痛みに意識が遠のく私が最後に見たのは、三――や、四人の男の人に取り囲まれて必死に抵抗するマキちゃんの姿だった。その後の記憶がない。革ジャン先輩に印刷を教わっていたような気がする。この場所で。
紙が積まれていて、印刷機があって、インキと薬品のニオイと、機械の熱気と、そして革ジャン先輩がいたこの場所で。
私たちは――どうなったの?
「ヒナは――大丈夫?」
背中合わせの格好で、マキちゃんは少しホッとしたように力なく笑う。
後ろ手に、何かで縛られているのか、体勢を変えることができない。マキちゃんの腫れた頬が心配でならない。
「私は大丈夫! 全然、どこも、痛くない。マキちゃんこそ……」
「ここ、どこなのかな?」
マキちゃんはフッと辺りを見まわし、不安気な声を漏らす。
マキちゃんの正面――私から斜め後ろに、観音開きのアルミサッシがある。
革ジャン先輩を訪ねて、何度も何度も開けたアルミサッシ。
VRで見た、あの頃の金属質の輝きはなく、蛍光灯の灯りさえも反射しないくらい、キズやくすみで濁って見えた。
「ここは印刷工場……」
「へぇ~、よく知ってるな」
今この場でたぶん、一番聞きたくない声が、開けっ放しの工場奥の扉から聞こえてくる。その声の主が下卑た笑みを浮かべながらガランとしたただっ広い工場に姿を見せた。
サカイシゲルくん――サカエくんのフリをして私を襲った男だ。
「ただ、元だけどな。元印刷工場。何年も前にツブれた工場を、親父が買い取ったんだよ」
「元……?」
お爺ちゃんに聞いた事なかった。定年退職したものだと思っていた。
そうだよね。印刷の仕事がどんどん減って、本も新しく出版される事がなくなっちゃったし、印刷の仕事だって壊滅に等しいって知ってたのに。
お爺ちゃんの――革ジャン先輩の働いていた会社、ツブれちゃったんだ。
残酷なまでの現実が私の感情をズタズタに引き裂く。
若い頃の革ジャン先輩が働いていた小さな印刷所も、時代の波に飲まれて消えていった。そして、その何倍の規模もある工場だって、不正コピー対策に準じたペーパーレス化に抗えなかった。
今は何もない、ただ広いだけの工場に、コンマ数秒の残像を見た。
革ジャン先輩がいて、いつも忙しそうに走りまわってて、インキを練り、紙を積み、刷りあがった印刷物を満足そうに見ていた。
ガシャンガシャンと止めどなく機械音が響き渡り、その中でお互いの声が聞こえ辛いからと顔を寄せて会話をした。
笑って、怒って、泣いて、私の楽しい記憶が詰まったこの工場に、今はその面影はない。
何とも言えない悲しみが私を襲う。ピジョンがあれば、『ようこそ、街の印刷屋さんへ!』のVRファイルがあれば、私はいつだって活気に溢れたこの場所へ行けるのに。
「なかなかいい物件だろ? 元々が騒音の苦情が来ないような場所に立てられた工場だから、どんなに騒いでも誰も気に留めないしな」
気持ち俯き、私たちを舐めるように見るサカイくん。
瞬時にあの時の――公園で襲われた時の恐怖が蘇り体が強張る。
薬をお酒に混ぜられて、前後不覚になった私は、危うくサカイくんに純潔を汚される所だった。
否応なく、力ずく、執拗に体を撫でまわされて、吐き気がした。
悲しくて、怖くて、必死で抵抗したけどどうにもならなくて、祈るしかなかった。
誰か助けて、と。
あの時、サカエくんが助けてくれなかったら、私の始めてはこの男に間違いなく奪われていた。
けど今は、サカエくんはいない。
そんなに都合よく現れてくれるはずがない。
「さて、楽しもうか」
サカイくんの声に、奥のドアから四人の男の人達が現れる。
一見モテそうな甘い容姿なのに、その顔に張りついた笑いが酷く下品だった。
私たちを見る、男の人達の目に感情が籠っていない。ただ自分の欲望の為の、快楽の為の、道具として見ているような冷たい目つきだった。
その先頭に立つサカイくんが、懐から何かを取り出した。手の中でクルクルとまわすと、それは冷たく光る刃を携えたナイフになった。
「ヤメて! ヒナには手を出さないで!」
置かれた状況は自分も同じなのに、真っ先に私を庇ってくれえるマキちゃん。いつだって、一人ぼっちの私を気にかけてくれて、周りから守ってくれた大切な友だち。
「オレは、さぁ……」
サカエくんはスウッと目を細め、私とマキちゃんの間に手を差し込むと、手にしたナイフを大きく振りげた。
何も出来ないで、私は死んじゃうの? イヤだ、イヤだよ。
ギュッとキツく目を瞑る。
「やっぱり、無理矢理とかって性分じゃないんだよね」
振りおろされたナイフは、私とマキちゃんを繋いでいるであろう、ロープなのか紐なのかを切った。
私とマキちゃんはその勢いで前のめりに倒れる。
サカイくんは、一見すると幼くも見えるその顔に無邪気な笑みを浮かべる。
「ごめんね、こんな形で連れてきて。痛かったかい?」
突然人が変わったように、優しいトーンの声をかけてくるサカイくん。
何がなんだかわからない。このまま無理やり襲われてしまうものだと思っていた。
後ろにまわした両手の、圧迫された親指も自由になる。ふと振り返ると、そこには小さく絞められた結束バンドの切れ端が落ちていた。
「マキちゃん、大丈夫?」
私はサカイくんを気にするでもなく、真っ先にマキちゃんを振り返る。
右の頬は赤く腫れ、お気に入りのプリントTシャツの胸元は破かれ、肌蹴たキャミソールから薄いピンク色のブラジャーがのぞいていた。
私はマキちゃんを優しく抱きしめる。
サカイくんが狙っていたのは私だ。私と一緒にいさえしなければ、マキちゃんがこんな目に合う事もなかったのに。
私はマキちゃんを守るように抱き締めたまま、サカイくんをキッと睨みつける。
「じゃあ、ヒナちゃん。脱いで?」
「は!?」
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