11ページ目 ビールはギネスに限る
「ヒナ~、飲みに行こう?」
唐突に、私の視界の外から声が飛んでくる。
私は太腿の上に広げたハードカバーの本に視線を落としたまま、鼻筋に皺を寄せた。また、私の時間を邪魔しにきた。男好きの小悪魔が。飲みに行きたいなら、彼氏と行けばいいのに。あっ、先週別れたって言っていたっけ。マキちゃんの恋愛はいつも長続きしないから。
親指で紙を引っ掛け、人差し指との間で擦りつけるようにページをめくる。本を読み進める。私をグッと引き込む文章の、活字と空白のバランスさえも美しく感じる。この美しさは本でしか味わえない。WEB小説は、そこまで計算されていない。
私は昔、お爺ちゃんと書道展を見に行った事がある。
沢山の書が、迷ってしまうくらいの大きな会場を絢爛華麗に飾り立てていた。
書の美しさは、字の美しさに限った事ではない。私は大きな大きな紙に、絶妙なバランスで書かれた一文字に心を奪われた。
白と黒の絶妙なコントラスト。書は文字であり、絵でもある。そうお爺ちゃんから教わった。
そう、本にも書に繋がる美しさがあるんだ。
「ヒナッ! 相変わらず聞こえてる癖に無視すんな!」
「今、取り込み中でーす。ご用の方は、後日にお願いしまーす」
「取り込み中って、何よ」
「見ればわかるでしょ? 最重要案件――読書中」
「嘘だぁ~」
隣に座ってニヤニヤと笑うマキちゃんをキッと睨みつける。
嘘って何よ、嘘って。キャンパスの屋外ベンチに座って、膝の上に本を置いて、読む以外の何があるって言うの? お風呂でも入っているように見える?
マキちゃんは腰をくねらせベンチの上をお尻で移動して、私のすぐ横にピタリとくっついた。
「それ、どんな本?」
「医学と人間の尊厳を描いたSF小説――だけど、それが何?」
「うん、知ってる。読んだ事あるから。電子書籍でだけど」
この子は、いったい私に何が言いたいんだろう?
書籍派ではないけれど、マキちゃんも相当数の本を読んでいる。物語が好きなのは私と一緒だ。だから、気が合ったんだし。
お互い思った事を押し隠さずズケズケと物言うから、いつも喧嘩しているように思われがちだけど、仲は決して悪くない。むしろ、私はマキちゃんが好きだ。
人付き合いの悪いこんな私をいつも気にかけてくれるし、陰口もたたかない。あっ、この間のヒナ二号は陰口になるのかな? 結局、本人を目の前に言ってしまうような子だから、陰口を叩かないんじゃなくて、叩けないだけだけど。
「じゃぁ、何でわざわざそんな事を聞くのよ」
「面白可笑しい話じゃないよねぇ? どちらかと言うと、思わずホロッとくるような、胸が締めつけられる話だった筈だけど」
「そうね。で?」
「笑ってたよ?」
「は!? 誰が?」
「ヒ、ナ、が。ニヤニヤと、それはもう嬉しそうに。それで、本を読んでましたと言われても、ねぇ。嘘でしょう?」
私はムグッと口をつぐむ。言うべき言葉が見つからない。
本を読んでいなかった? や、最初はちゃんと読んでいた――はず。どこかで思考が脇道に逸れた。どこで? 私は何を考えていた? 何で笑ってた?
ポンッと、革ジャン先輩の顔が鮮明に脳裏に浮かぶ。
「あっ、またニヤけてる」
私は慌ててマキちゃんから顔を背けた。
ニヤけてない。何かの間違いだ。顔を覆った手に、熱を感じる。上気しているのがわかる。これじゃぁまるで、恋する乙女だ。
「ヒナ~、飲みに行こうよ~」
甘ったるい声で、私の背中に縋りつくマキちゃん。私は顔を押さえたまま、小刻みに首を振った。
「ねぇ~ぇ~? どうせまた、革ジャン先輩の事でも考えてたんでしょ~? ヒナって、男の事を考えながら本を読んでるフリをして、人を無視した挙句、親友の誘いを断っちゃうような子だったんだ~。違うよねぇ? そんな事、ないよねぇ? ヒナは、友情を大切にする子だよねぇ?」
「わかった。わかったから、もうヤメて。行くから、約束するから」
マキちゃんには敵わない。マキちゃんは、本当に私の扱い方を心得ている。敵ながら天晴だ。や、別に敵じゃないけど。
けど、いいや。たまにはお酒を飲みたい気分だし。やけ酒は駄目なんだよ。余計に心が疲弊するから。やっぱりお酒は楽しい時に飲まなきゃ、ね。
* * *
うん、マキちゃんを信じた私が馬鹿だった。
まだ二十歳の私は、お洒落な夜の繁華街の素敵なバーでお酒を飲む――なんて経験は一切がない。本やテレビで見た記憶を元に、妄想を膨らせてきただけ。今では滅多に見る事がない、気球くらいパンパンに。
現実は、まさに今いるような賑やかな居酒屋ばかりだった。や、ばかりも何も、お店に飲みに行くような事は殆どなかった。お酒を飲むのは好きなんだけど。
調理している店員さんと向かい合うように、六人がけのカウンターがあり、人一人がすれ違える程度の距離に、四人がけのテーブル席が三つ並んでいる。そんな狭い間口の、駅前の小さな居酒屋。奥にも座敷部屋があるらしいけど、入った事はない。
隣り合った四人がけのテーブルを二つ使った八人席の隅っこで、私は借りてきた猫のように、静かにジョッキを傾ける。
お酒と言ったらビール。しかもここのお店は、生ギネスが飲める貴重なお店だ。女の子が好んで飲むお酒じゃないなんて言われるけど、私は甘ったるいお酒が苦手だ。ワインなら白の辛口、日本酒も辛口、男を見る目も辛口。他の子達のように、甘い声なんて出せる訳がない。
マキちゃんが「飲みに行こう」なんて言うから、女子会か、サシ飲みで、どうせ革ジャン先輩の事を根掘り葉掘り聞かれるんだろうなぁと、思っていた。
「ハイハイ、そうですねー」と、軽くあしらっておけば済む話だと、高を括っていた。それがそもそもの間違いだった。
これは飲み会なんかじゃない。
合コンだ。
四人がけのテーブルの奥、壁側に男性陣、通路側に女性陣が座っている。
面子は同じ学部のミカちゃんもチヒロちゃんと、マキちゃんと私。男性陣はミカちゃんの知り合いの経済学部の人達らしい。
最初は男女交互に座ろうとしたみんなに、私一人が断固拒否をした。知らない子の隣で飲むお酒なんて、気の抜けた上にぬるくなった炭酸飲料よりも不味い。
四人並びの端っこの、私の隣はマキちゃんに座ってもらう。男の人の相手は全部、マキちゃんに任せた。私の「聞いてない」の一言で、マキちゃんは私の提案を飲む他なかった。「え~」なんて、可愛らしく頬を膨らませていたけど、マキちゃんはまんざらでもなさそうだった。
そんな初っ端の居合抜きばりの私の言動で、男の人三人は、私の向かいから自然と遠ざかった。当然だ。かの名刀、菊一文字則宗よりも切れ味バツグンなのだから。
男性陣は一人、用事があって遅れているらしい。可哀想に。結果、私の刀の攻撃範囲に入らざるを得なくなったんだから。
あっ、この軟骨の唐揚げ美味しいッ! 私、心刺頼んでいいかなぁ?
「ヒナちゃん、このジャーマンポテトどう?」
「あっ、はい。ありがとうございます」
私は合コンに来たつもりはまるでない。けど、いくら
普段から男の人が苦手なのに、こんなにグイグイ来られる合コンの場は絶対に慣れたりなんかしない。男の人たち、みんな優しいんだけど。
私は言葉少なめに、加えてお淑やかに、ちょこちょこっと料理をつまんでジョッキを口に運ぶ。
このお店の料理はとても美味しい。全国チェーンの居酒屋じゃぁないこのお店は、料理に定評があって、いつもお客さんでいっぱいだった。
揚げ物から刺身、衛生面の関係で他ではなかなか食べる事が出来ない生肉のあぶり。そしてギネス。言う事ないよ。言う事ない。料理や店の雰囲気は。
「ヒナ、飲んでる?」
「飲んでます」
「楽しんでる?」
「全然」
「またまたぁ~」
マキちゃんとのそんなやり取りが何度となく繰り返され、程よく酔いもまわり気分も高揚してきた頃、不意にお店の出入り口の引き戸が開いた。
「ごめん、遅くなって。急にバイト先に呼ばれて……」
「あーっ、ヒナ二ご……イタッ」
摩擦係数0なマキちゃんの口を塞ぐべく、私のひじ打ちが彼女の脇腹に直撃する。マキちゃんは両手で脇腹を押さえ、恨めしそうな目で私を睨みつけた。
そんなマキちゃんを無視して、見つめ合う私と男の子。この間、時計台の所で見かけた子。歩きながら本を読んでいた、ちょっとナヨナヨした感じの真面目そうな男の子。
男の子は零れ落ちそうなくらい見開いていた目を細めると、屈託なく笑って手を差し出した。つられて出した私の手を握り締め、ブンブンと上下に大きく振った。
「先日はありがとうございました。ボク、サカエって言います。市村サカエ。どうぞ、よろしく」
サカエ――くん、か……
ビックリした。こんな偶然って、ある?
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