18ページ目 キャラメル
私は革ジャン先輩を引きずり工場に入ってすぐ、店にいる皆さんに頭を下げ静かにドアを閉めた。そして、狼狽える革ジャン先輩にニコッと優しく笑いかける。
「名刺、作ってくれるんですね? 上条さんがデザインを見せてくれました」
「おっ、どうだった? 気に入ったのあった?」
「はいッ! けど……」
「けど?」
革ジャン先輩の長い髪に手を突っ込み、指先で耳を探し当てると、それをグイッと自分に引き寄せた。
「イタタタタ……痛い、痛いって!」
「私の名刺にダメ出しするなら、まず直接言ってください。上条さんに渡しちゃったんですよ? 恥かいちゃったじゃないですか!」
革ジャン先輩の耳元で言葉を荒げる私。徹して大きな声にならないように。何故って、ここだとお店に聞こえちゃいますから。
革ジャン先輩は耳を抑え眉を八の字に歪める。
「いや、そんなつもりじゃ……よかれと思って」
「はい。それはわかってるんですけどね。ちょっとプライドが傷ついちゃったので、これくらいは言わせてください」
わかってる――何も言わないのに名刺を作ってくれるなんて、本当にありがたい事です。でも、私の努力も考えて欲しかった。
ネットでデザインペーパーを探して買ってはみたものの、実際に手にするとちょっと感じが違ってガッカリしたり、家にあった骨董品のようなプリンターなんて普段使う事もないから上手く印字されなかったり。少しは自分なりに勉強したんです。それを、完全否定されたようで。
「でも――本当にありがとうございます。凄く嬉しいです」
心の底からの本音。不満以上に喜びの方がずっと強いのもわかってます。
だって、こんなにも胸がドキドキ高鳴っているんですから。
わっ! 私ってば何考えてるの!? 耳を掴んだまま、目の前にいる革ジャン先輩を見ていたら、思わず頬にキスしそうになっちゃった。
ヤメッ! 変な考え、消えろッ! 私にそんなつもりはない! そんな感情も、絶対ない!
何かの間違いですから。ただ、それくらい嬉しかったって事で。
「ん? どうした?」
「は!? 何ですか!?」
「わかったから、もうそんなに怒るなよ。顔、真っ赤にしてまで」
「顔……真っ赤……ヤダッ!」
ドスッ!
「ウグッ……」
革ジャン先輩はお腹を押さえて体をくの字に曲げる。私の肘が見事に革ジャン先輩のお腹に入った証拠だった。
私は革ジャン先輩に背を向けて、両手でパタパタと顔を仰ぐ。
早く冷めろ、私の顔。
「そんな事より買い物って、何を買いに言ってたんですか? 仕事中じゃないんですか?」
「怒ったかと思えばいきなり肘鉄食らわせて、その質問!? 何なんだよ、まったく……訳わかんね」
「だって、それは革ジャン先輩がゴムッ?」
振り向きざまに私の口に放り込まれた、小さな四角い塊。クリーミーで甘い物。
革ジャン先輩は白いビニール袋を手に、ニヤニヤと笑っている。
「キャラメルれふよね?」
「舐めるか喋るかどっちかにしたら?」
「だって、いきなり甘い物を口に入れられたら誰だって……これ、買いに行ってたんですか? 仕事中に?」
「そっ。これが必要だったから」
そう言って、革ジャン先輩はオレンジ色のキャラメルの箱を、印刷物の隣――長机の上に置いた。
蓋が開いたキャラメルの箱から一粒のキャラメルを取り、革ジャン先輩もそれを自分の口に入れる。満足そうに目を細める革ジャン先輩。
「キャラメルが必要? 何に? 疲れた脳には甘い物が必要――とか? はっ!? まさか私の知らない印刷方法にキャラメルを使うやり方がある――とか?」
「あはははは、そんな訳ないじゃん」
「まったく見当が付きませんよ。意地悪しないでちゃんと教えてください!」
「それはね……」
革ジャン先輩はキャラメルの箱を握り締め、私の目の前に寄せる。そして、もう一方の手で箱を指差した。
「このメーカーのキャラメルの箱のオレンジ色で印刷してくださいって仕事が入ったんだよ。色の見本が入ってなかったから、買ってくるしかないじゃん」
「はぁ…………はぁ!? そんな注文ってあるんですか!?」
「あるんですかも何も、あったから買ってきたんだけど」
革ジャン先輩は困ったような顔で私を見る。
それもそうですよね。革ジャン先輩の言う通りです。けどちょっと、『へぇ~』って思っちゃいました。色の注文ってそんなに適当でもいいんですね?
「けど、そのオレンジ色で印刷ってどうするんですか? そんな色のインキがあるんですか?」
「ないよ。ないけど――ないなら作る! これ、印刷オペレーターの常識!」
「そういうもんなんですか!?」
「そういうもんなんです!」
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特色のプロフェッショナル、革ジャン先輩です。
折角、特色の話が出たので、色の注文に関しての面白いエピソードを少し。
印刷にはカラー印刷と単色(多色)印刷があります。
カラーはCМYKのプロセスインクを使います。これはまた後程。
では単色(多色)印刷のインキの色は何色だ? という事ですが、これは実際何でも構いません。
基準色と呼ばれる、インキメーカーオリジナルの色もあれば、それらを混ぜ合わせて使う特色インキと呼ばれるやり方もあります。
お客様からの色の注文も様々で、件のキャラメルの箱のオレンジという指定もあれば、コーラの赤という注文があった事もありました。その時ももちろん、コーラを買いに行きましたよ。
交通標識の青でと注文があった時なんかは、通勤途中に標識を写真に撮ったりもしました。すれ違う人達は、そんな怪しい行動を取っている私を、どんな風に見ていたんでしょうね? ただでさえ、格好も怪しいのに。
究極は薄いクリーム色の紙で印刷した物に訂正シールを貼りたいから、同じ薄クリーム色になるようにシール全面に印刷をお願いされた事ですね。
シールを貼って、シールと気づかないようなクオリティに色を作る。
そんな仕事が日常です。
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革ジャン先輩はエッチングの機械が載った棚の下からインキの缶を取り出した。そして、エッチングの機械の横にそのインキ缶を置く。
CDよりも一回りは大きい金色の缶にインキメーカーのラベルが貼ってある。このインキは中黄というインキらしい。つまり、黄色だ。この名前で黄色じゃなければ、私はメーカーに直接文句を言いに行く。
革ジャン先輩は手首にはめた茶色のゴムを掌に移動させると、両手で髪に手櫛を入れ、黒く長い髪を後ろで束ねた。そして、エッチングの機械の横のインキ缶を取り、思い出したようにポカンと口を開ける。
「そう言えば、印刷機の説明から自己製本の断裁、面付けの説明に移っちゃったから、印刷自体の説明はまだだったな。製版機の説明もしていないし。どうする? ヒナちゃん、何か知りたい事ある?」
「インキです!」
私は革ジャン先輩の持つインキの缶を指差す。
だって、キャラメルの箱の色はないんですよね? って事は、その色を作るんですよね? 俄然、興味を持っちゃいました。インキの事が知りたいです。
小学校や中学校の頃、誰だってやった事ありますよね? 絵を描いて絵具で色を塗るって。私、色を塗るのはちょっと得意だったんですよ。インキって絵具と同じ感じじゃないんですか?
革ジャン先輩は面を食らって、手にしたインキ缶に視線を落とす。そして、ポンッと缶を叩いた。
「うん、そうだな。印刷に取ってインキは必要不可欠なアイテムだ。これがないと印刷なんて出来ない。よしっ、インキの話をしようか」
「はいッ! お願いします!」
私は背筋を伸ばし胸を張り、兵隊さんさながら広げた片手を額に添えた。
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