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もういいかい。と、少年は目を覆った。
もういいかい。耳をすませても、音は何も聞こえない
声を待つ。聞こえない声。探した声は、まだ聞こえない。大きな大きな千年樹の木陰の中で、彼は視界を閉ざし言う。
もういいかい。
朝だろうか。夜だろうか。明るかろうが、暗かろうが。彼は知らない。知る必要もない。彼はただ、あの子の声を待っている。
もういいかい。と、少年は歌った。
柔らかい小鳥の応う声。微笑む。そして、涙。
ごめんねと、一言。両手の隙間から見える小さな唇が呟く。
ごめんね。でも、待っているのは君じゃない。
君じゃあないんだと繰り返して、赤黒い闇の中瞳を閉じる。夢想。幻。幻想。夢。夢幻の彼方の桃源郷。胡蝶の夢にたゆたって。溺れる。喘ぐ。水に溺れて空気を欲し、されど水なしでは生きられぬ。
君の空気になりたかった。君の水になりたかった。君の夢でありたかった。君が溺れる幻でありたかった。
なんて、戯れ。
もういいかい。を、繰り返す。
応えはない。無音が応え。当然だ。そんなことわかってる。分っていても、望むのが。それが人の業なのだろうか。
もういいかい。もういいかい。
繰り返して、耳をふさぐ。聞きたいはずなのに、聞きたくなくて。聞きたい声は、きっと。そんなの、分ってるはずなのに。
彼の後ろに歪な影。人のようで、人でないもの。人でないのに、人なもの。
神と呼ばれるそれは、少年に応えた。
もういいよ。
美しい声。甘い音。天より下る聖なる託宣。閉じた瞳を見開いて、彼は肉肉しい闇を見た。
あなたはだれ。
わたしはナニカ。人でないもの。人のようなもの。聖なるもの。邪なるもの。そしてなにより、君を迎えに来たもの。
悪魔と呼ばれたソレは、歪なその手を少年に伸ばした。
さあ、迎えに来たよ。一緒に行こう?
誘う者の声はひたすら甘く、少年の瞳は揺れる。楽園と地獄の区別などわからず、階段の上下も理解せず。
少年はそれでも、首を振った。
ごめんなさい。ごめんなさい。それでも、待っているのはあなたじゃない。
ちぢこまり、手のひらを顔に押さえつけて、彼は囁く。
ぼくがあいたいのは、あなたじゃない。
あなたではないと繰り返して、少年は顔を覆う。絞り出す声は酷くかすれていて。それでも違うと繰り返す。
君の会いたいあの子はもういない。
冷たい声だった。優しくもあるけれど、残酷な声だった。微笑みをたたえた誰でもない声は、震える少年を柔らかく撫でる。
真珠貝で墓穴を掘って、星の欠片を墓標にしても。日が幾度昇り、沈んでも。墓の傍で百年待ったとしても。
吐息を伴わない唇が、少年の耳元で蠢いた。形のない掌が、そっと少年の肩を引き寄せる。
もういいよ。と、もう一度声がした。
君の隣りには百合は咲かない。
咲かないんだよと繰り返して、温度のない手が少年の手の上に重なる。柔らかな力が小さな手のひらを包み込む。空気のような体が、小さな体を包み込んでく。
小さく息を吐いた。空気は、他の酸素と混じり合い存在を失くす。いや、最初から、そんなものはなかったのかもしれないと。また大きく、空っぽな息を吐き出して。
となりに百合が咲かないのなら。それならきっと、ぼくが百合になりましょう。墓標を飾る、白い花に。
空気が、揺れた。陽炎がざわめくように、背後の気配がゆらゆら揺れて。ゆれて。空気が悲鳴のような音をたてた。
百年でも、千年でも。那由多のときを無為にして。何度枯れて、何度も咲いて。ぞれでも。
ぼくは、ぼくとして。あのこのこえを、まちたいのです。
音がなる。割れる。皹。悲鳴。高音。音のない悲鳴は見知った泣き声に似ていて。抜ける力。それでも少年は、もう一度小さな手のひらを瞼に押し付け続けた。
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