虹の彼方の何処かに

雪星/イル

0.Blue Bird.



 男になりたい。


 それが、僕の双子の姉の口癖だった。

 柔らかな髪。

 華奢な体躯。

 鈴の音のように透明な声音。

 そして何より、細く、長く、しなやかな指。

 何かに触れれば、手の方がはらはらと崩れてしまいそうなほど繊細な、白い指。

 ほぼ全ての女性が羨むであろう、可憐な少女として生まれ育った姉さんは、自分を構成する女性らしいもの全てを、疎んじていた。




 男になりたい。


 僕はなぜ、姉さんがそう口にしたのかを知っている。姉がその言葉を紡ぐとき、その視線の先にあるのは決まって僕か、あるいは祖父の姿だったからだ。

 僕らの祖父は偉大なジャズピアニストだった。

 2m近い長身で、誰よりも長く大きな腕と手を持っていた祖父は、その全身を、その全霊を音楽ミューズに捧げた人物だった。

 僕たちは祖父の全盛期を知らないけれど、家には祖父が手掛けた沢山のレコード盤が残されていたし、時折祖父が演奏してくれた音楽は、それに勝るとも劣らないものだった。

 祖父の指はまるで鉄鎚のように硬く、その太い指が鍵盤を力強くたたけば轟雷の如き重音が響き渡り、かと思えば、風に踊る羽毛のように柔らかなタッチで、水面に花弁が花開くような、穏やかな音楽をも奏でることができた。その指は万色の音色を奏で、誰もが祖父を偉大ヴィルトゥオーゾと褒め称えた。僕と姉は祖父が弾くパガニーニを聞き、リストを聞き、ラフマニノフを聞いて育った。

 姉さんに音楽の神が舞い降りた瞬間を、僕はよく覚えている。あれは僕らがまだ4歳だった頃、初めて立ち入ることを許されたコンサートホールでのことだ。ステージの上にはボールドウィンのグランドピアノが鎮座していて、燕尾服をまとい、スポットライトを一身に浴びる祖父の姿は輝いて見えた。

 そこは500人ほどしか入らない小さなホールだったけれど、祖父の演奏に感銘を受け、現役を引退して十数年を経た今でもなおその演奏を聴きたいと願う人々で埋め尽くされていた。かつてそこよりもずっと大きなホールで、ジャズピアニストとしては異例といえるほどに生産されたレコード盤やCDで、誰かの端末を通して撮影された映像クリップで、あるいは拡張現実Augmented Reality仮想現実Virtual Realityで、いつかどこかで、いつか誰かと聞いた祖父の演奏を再び聞くために。子供だった僕たちが祖父の偉大さを思い知るには、ホールを埋め尽くした人々の姿を目にするだけで十分だった。

 そして、音楽が始まった。

 その演奏の音色はとても筆舌に尽くしがたい。僕はその経験を一生涯言葉にすることはできないだろう。

 祖父の奏でる音楽は、まるで空にかかる虹のようだった。

 あらゆる音色を備えた光の橋。決して意識を逸らすことのできない、この世でもっとも美しいものの一つ。僕たちは、天のアーチを誰もが立ち上がり見上げるように、最前列の席で祖父を見上げ、天上に鳴り響く音楽を一身に受け続けた。

 驟雨の如く鳴り響く轟雷が全身を貫き、

 雪の如く舞い落ちる旋律が僕たちの心を包み込んだ。

 祖父の音楽の前には、舞台から客席までの距離などないに等しかった。

 息つく暇もなく降り注ぐ旋律の嵐。

 全霊を盤面に叩きつけるかのような、祖父の鬼気迫る表情。

 その運指一つ一つに至るまで澱み一つなく、完璧としか言い表しようのない音の螺旋。プリズムのように色彩を変える音色。ドラムのように注ぐオクターヴの連打と、チェンバロのように細かく刻まれる繊細なトレモロが、祖父のたった一つの身体から溢れだす。あらゆる音色がそこに生まれ、あらゆる世界が祖父の手から紡ぎだされた。その瞬間、祖父は間違いなく音楽ミューズだった。一瞬とも永遠とも思える至上の時間。気が付けば会場を満たす音は、音楽から喝采へと変わり、いつまでも止まぬ喝采とアンコールが僕たちを包んでいた。

 凍り付いたように動けない僕と、その横で僕の手を固く握りしめ、紅潮している姉さんの横顔。

 あの日確かに、姉さんは音楽ミューズに魅入られた。

 そうして僕の姉さんは、祖父のように偉大ヴィルトゥオーサとなる日を夢見た。


 けれど、音楽の女神は姉さんに微笑まなかった。


 ピアニストというと、繊細な――それこそ姉さんのように可憐な人物こそ華と思われてしまいがちだ。けれどそれは違う。同じ花でも、姉さんが咲かせた花は徒花だった。どれだけその音楽が認められようと、決して大成しえない茨の道。

 姉さんの身体は小柄だった。年をいくら重ねても、その背は日本人女性の平均以下で、腕の長さも、掌の大きさも、ピアニストとしては何もかもが不向きだった。

 81オクターブに届かせることが精一杯の小さな掌。

 それでも、女性にしては十分といわれる大きさ。

 男性用の曲を弾けばアルペジオで音を奏でざるをえず、そうした音楽は音色こそ優雅であれ、表現技法としては圧倒的に音圧に欠ける。姉さんの奏でるピアノは確かに美しかった。けれど全ての音を、全身全霊を叩きつけるようにして演奏しても、姉さんの軽い体では、どうしても祖父のそれには足りなかった。

 加えて、祖父はピアノを教えてくれなかった。

 教えることができなかった。

 姉さんが祖父のピアノに魅入られたその時、祖父は既にアルツハイマー症を患っていたためだ。人の顔を覚え、あるいは思考を論理立てて言葉にすることが困難だったからだ。

 祖父の家を訪ね、ピアノを教えてほしいと頼む度、祖父はよく同じ練習曲を教えようとした。過去にどの曲を教えたのかわからなくなった祖父に、姉さんは度々、本来のページを指し示さなければならなかった。

 僕たちが中学校に上がる頃には、僕たちが孫である事さえ忘れていた。

 家族認証で家に入ってきた僕たちを、まるで空き巣をみるような目で見つめてきたあの日の事を、僕は決して忘れることはないだろう。成長期に入っていて、多感な青年だった僕は、その日以来、祖父に会うことをやめた。

 アルツハイマー症は不可逆性の脳機能障害だ。βアミロイドが健全なシナプスを虫食み、記憶を徐々に、心を徐々に、殺していく。脳の中で進行していく死を食い止める術は、二十一世紀の半ばを過ぎた現代にだって存在しない。祖父の思考は、記憶は、心は、みるみる曖昧になっていって、祖父は自分の記憶が穴だらけになっていくことにひどく苛立ち、穏やかとはいえなかった性格はますます短気に、粗野に変わっていった。

 それでも祖父のピアノだけはずっと本物であり続けた。

 新しく記憶することができなくとも、祖父の過去が失われるわけではない。

 祖父がその生涯を捧げた音楽を、どうして忘れてしまえるだろうか。

 姉さんは祖父に何を教えられずとも、ピアノに向かう祖父の背中を眺め続けた。その姿を、その動きを、その指の運びを、その一切を記憶に刻み続けた。音色を耳に刻み、運指を真似び、家に帰っては、自らの肉体でそれを再現することに躍起になった。己の音色を少しでも祖父のそれに近づけようと、鍵盤に向きあうことをやめなかった。

 姉さんは、夢を決して諦めなかった。姉さんにとって、祖父の跡を継ぐことは自明だったのだ。たとえそのために必要なものが欠けていたとしても、なぜそれが諦める理由になろう。

 体力がないのならトレーニングすればいい。

 体格がハンデなら体重を増やすことも厭わない。

 姉さんは祖父の背中を追い続けた。あの日、姉さんの元に舞い降りた音楽ミューズに至るために、祖父の音楽を継ぐために。かつてのピアニストのように、親指と人差し指の間の皮膚にメスを入れて、掌を広げることさえした。そうすることで姉さんの指は、どうにか101オクターブと2音を抑えることができるようになった。

 けれどやはり、無理だった。

 姉さんの身体では、姉さんが求める領域にまでは至らない。

 姉さんのピアノは誰よりも繊細だった。

 けれど、ただ繊細なだけでは足りなかった。

 繊細であると同時に凄絶であること。

 時に花弁を包むように柔らかく、時に嵐の夜のように激しくあること。

 ppピアニッシモからffフォルティッシモではなく、pppピアニシッシモからfffフォルテッシシモまで、より広く、より優しく、より強く、あらゆる音色を奏でることが求められた。

 それこそが祖父の音楽で、姉さんに足りないものだった。

 それはおそらく姉さん自身が誰よりもよく理解していた。自分の奏でる音楽が、祖父のそれに到底及ばない事を、自分がピアニストとして恵まれずに生まれたことを、他の誰よりも悩み、苦しみ、そして多分、恨んでいた。望む音色を出せないままに、コンクールで賞をとることもできなくなり、やがて笑顔も消えていった。

 そんな姉さんを黙ってみていることしかできなかったのは、僕が臆病者だったからだ。人生をかけて夢を追い求め、その過程で傷つき苦しむ姉さんから僕は逃げ続けた。姉さんが音大に入ったのと同じくして、一般大の電子工学科に進み、そして大学を卒業すると僕は家を出て、姉さんはどこか、僕の知らない遠い世界に消えてしまった。

 姉さんと僕はもう何年も連絡を取っていない。姉さんが今、どこで何をしているのか、僕は何も知らない。けれど、姉さんが音楽の世界にいないことだけは確かだった。2年ほど前、芸能系のネットニュースに掲載された特集が僕にそれを教えてくれた。

 『偉大なるピアニストの孫、突然の失踪』。

 けれどニュースは、音楽の世界を少しだけ賑わせただけで、すぐさま日常の中に沈んでしまったようだった。僕たちの日常は情報過多だ。肥え太っているファジーな上に贅肉ノイズだらけで、意味のある情報なんて僅かなもの。質の悪い情報の山は大事な人のニュースさえ覆い隠して、僕たちを視野狭窄に追い込んでしまう。

 姉さんは諦めてしまったのだろうか。

 祖父のように偉大になるという夢を。

 僕にはわからない。わからないままに、僕は生きている。

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