第19話 希望の世界6 幸福
夜空に影が現れた。影は大きく羽ばたき、月にそのシルエットが浮かび上がった。ケイが羽ばたきの音に気づいて辺りを確認したときには、もうすでに影は急降下を始めた。ポケットに手を入れ、ケイはハンカチを出そうとしたが、降りてきた影はポケットに手を入れようとする前に、隣で寝息を立てていたえぬを捕まえ飛び去っていった。
わずかに確認できたのはそれが巨大な蝶の仕業だったということだけだった。
えぬが異変に気がついたときには既に空の上だった。巨大な蝶はえぬの身体より遥かに大きく、羽ばたく度に風が揺れる音がした。落ちたら痛い思いをするだろう。痛いのは嫌だ。ケイともう少し一緒にいたかったし、アンナやショウのことも気になったがとりあえず身を任せてみることにした。
暗闇の中に点々とオレンジ色の光が煌めいている。焚き火だろうか。やがて灯りが集まっている場所が見えてきた。それは、大きな塀に囲まれた街で、塀には等間隔で灯りがともっている。塀の上には見張りと思われる人の影が見える。
蝶が降りたったのは町の高台の上にある飛行船の発着場と思われる場所だった。飛行船がいくつも並んでいる。人々も寝静まっている頃だからか、物音もしない。
ぽつりと人影が現れた。髭を蓄えた恰幅のいい男だった。蝶に抱えられたままのえぬの姿を見て「やあ美しい蝶に連れられて、これまた美しい少女が現れましたな」と呑気なことを言った。ケイとの話を思い出した。何かこの街は変だ。早めにここを離れないと。
「希望の街ホルプへようこそ。もうすぐ夜が明けて日が昇ります。新しい1日に、未来に溢れる希望に感謝しましょう」
巨大な蝶はえぬをその場に残し、輝く鱗粉を撒き散らしながら去っていった。蝶が去った後には甘いもの香りがした。昨日の紫色の花と同じ香りだった。頭がくらくらした。
「さあさ、お嬢さん、今日は午前中からパレードですよ。今日も楽しみましょう」
立ちくらみのような感覚が治った。
パレード、楽しそうだなとえぬは思った。
その後、えぬは街の広場にあるレストランで朝食をとった。お金はなかったけど店主はそれでいいと言ってくれたし、えぬもそれでいいと思った。犬の散歩をしている少年が通って、えぬも散歩がしたいと思った。なので、その犬の首輪に繋がれた紐を少年から奪いとった。少年は「しょうがないな。僕も新しいの見つけよっと」とにこにこ笑って去っていった。
犬は新しい主人にまだ慣れないのか、吠え続けて、しまいにはえぬの足に噛み付いた。痛かったがそれだけだった。噛まれた拍子に紐を手から離してしまった。犬はあっという間に去って行ってしまった。犬がそれで幸せならそれでいいとえぬは思った。
足からは血が出て止まらなくなったが、すぐに道を歩いていた白いワンピースの女性が包帯を巻いてくれた。昨日広場で出会ったマヤだった。マヤはえぬの目を覗き込むようにして言った。
「あら、幸せそうねえぬ。それでいいのよ。何があっても希望を、絶やさず。どんなことがあっても明日は来るんだから。今日何があっても幸せよね」
明日への希望を、次への希望を持っていれば、何があっても大丈夫。その通りだ。幸せとはそういうことなのかもしれない。えぬは全身が暖かく満たされた気持ちになった。鼻の奥には、甘い香りがまだ残っていた。
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