ⅴ-ⅱ.嵐の目 後編


 その日まで、世界は平和だった。

 ––––否、知らなかっただけだと、彼らは言うだろう。

 それでも、ごく一部の飢えた人々以外にとって、世界は確かに平和で、輝きに満ちていた。



「僕は、賢者になりたかったんだ」


 ぽつんとつぶやかれたひとことがあまりに唐突とうとつすぎて、少女は息だけで、え、と聞き返す。

 発音したつもりで、うまく発声できていなかった。


「でも、僕は賢者にはなれなかった。僕は論じるより、うたうほうが好きだったし、僕のうたをみんなは喜んでくれたから」


 雲の壁に刻まれた目が、一瞬だけ見えなくなる。まばたきしたらしい、と遅れて気づく。

 あんな、生きモノかバケモノか判りにくいナリしてるくせに、人間臭いなと思う。

 ボロボロの翼から幾枚かの羽毛が抜け落ちた。線の細い体躯たいくが揺れ、深いため息が押しだされる。


「僕は、うたうたいで、医者だった。誰かをいやして誰かに喜んでもらえることが、僕にとってのしあわせだったんだ」

「それは、世界が終わる前の話?」


 今度はうまく発声できたみたいだ。

 不可解すぎる空間にただ突っ立って、正体不明の相手に届いてるかどうかも危うげな言葉を向ける。そんな自分が、ひどく心許こころもとない。

 かたわらの相棒の体温がなければ、逃げだしてしまいそうだった。


 しん、と張りつめる湿った空気。

 ひどく長かったのか、わずかだったのか。脈をます不安感が汗となって吹きでる寸前、青年の身体がふいと傾いた。


「ううん。僕がまだ、天使だったころの話かな」


 青い両眼と薄い唇が淡白に笑っている。目の前にいるこのひとは、ほんとうに、昨日スカイチェイスを繰り広げたあの狼なのだろうか。

 心臓をつかまれるような恐怖がふいに迫り上がり、背中にどっと嫌な汗が噴きだす。

 隣のアズルが、喉の奥で低くうなり声を漏らした。


「リレイ君、あんた––––……」


 何者、という問いが、口の中に引っかかって出てこない。

 こんな、閉じた空間の中でいてしまったら、そのあとになにが起こるかわからないのがとてつもなく怖い、と思う。


 その不安感が顔色にも表れていたのだろうか。

 彼の双眸が、少しだけやわらかくなごんだ。


「ぜんぶ、過ぎたことだよ。僕は世界が壊れる前に、世界を捨てたから。ただ、時々こんな風に、思いだしちゃうだけでさ」

「……すてた、って?」


 どうやって、という言外の問いを彼は気づいただろうか。

 青い目に光がともる。



「天外のはての空の向こうには、なにがあると思う?」



 笑うように問うてきた。抽象的すぎて意味のわからない謎かけを。

 どんな答えを期待されているのかレイチェルにはさっぱり分からないのに、リレイの方はひどく楽しそうだ。


「……リレイ君、さっきからキミ、あたしのギモンに答えてくれてないじゃない」


 これはきっと話をそらそうという魂胆こんたんに違いない。

 賢者セージだか詩人バードだかわからないけど、子どもだと思ってはぐらかそうとしているのなら、その手に乗ってやるわけにはいかない。


「ねぇ、キミは、何者なの?」


 勢いのままに吐きだした。そこをまず知らないと、話が前に進まない気がしたのだ。

 天使の姿をした正体不明の彼は、愉快ゆかいそうに、だけれど少し寂しそうに、笑った。


「僕は、おばけ、かな。……この〝目〟と同じく」





 遠雷をいたのは、いつ以来だったろう。


 少女は茫然ぼうぜんと、目の前に立つ「天使の姿をしたおばけ」と、周囲を取り囲む「雲の形をしたおばけ」を見つめる。

 汗ばむ手でぎゅっとアズルをつかめば、痛いほどに早鐘はやがねを打つ心臓が少しだけ休まる気がした。


「大丈夫、人を食べたりはしないから」


 飄々ひょうひょうと笑う人懐ひとなつっこい瞳。

 わずかに動いた翼から、白い羽がはらりと落ちる。


「こいつも、害意を持って嵐を連れてきたわけじゃない。ただ、」


 すうと音もなく、青い光が、リレイの右手に幻出げんしゅつする。


「さみしかったんだろうね」


 差し伸べただけの右の手が示す先には、巨大な嵐の〝目〟。

 真白い雲の壁にぎょろりと刻まれた、不気味なだけのソレからは、寂しさどころか、怒り喜び悲しみそんな感情をいっさい読み取ることはできないのに。



「もう、〝悪夢〟は終わったんだ。世界のみていた夢は、世界と一緒に。だからもう君の役目も、終わってるんだよ」



 まるで旧知の相手に対するような、語りと言葉が不思議でしかたない。

 彼は、いったい何を知っているというのか。


 〝目〟は瞬きを返すわけでも、涙を流すわけでもなかった。ただ、確かに変化が起きていた。

 白くぬるい空間に、ふいに乾いた風が割り込む。思わず瞬きをしたら、明度の変化に気がついた。

 雲間から光がさしこむように、白い壁のあちこちに亀裂ができている。


「え、……え!?」


 それは例外なくレイチェルの足もとにも広がってきて、あわてた彼女は必死にアズルにしがみついた。

 賢い相棒はすでに翼を広げ、不測の事態に対し万全の態勢だ。


「ちょっとリレイ君、何が起きてるの!?」


 空間をひきさく風の勢いがましてゆく。力強く二度三度アズルがはばたくと、その勢いで雲がちぎれて散っていった。


「嵐をほどいたのさ。つづり合わせていた運命の糸を切り離した、それだけのことだけど」


 強烈な太陽が、わずかにただよう雲の残滓ざんしを蒸発させてゆく。

 あとに残ったのはいつもの空と、自分を乗せてはばたく相棒と、雷をまとって宙空ちゅうくうに突っ立つ天使のおばけ。

 彼の手には一枚の黒いカードがあった。



「黒い稲妻、って名前だったと思う」



 ぽつんとつぶやき、彼はそれを両手の指でつまんでなんのためらいもなく破った。

 途端、彼を取り巻いていた雷が消滅し。


「––––あ」


 浮力を失ったように体勢を崩して落下したリレイを、レイチェルは思わずただ見送ってしまったのだった。







 たぶん神様は、世界を壊したかったんだと思うよ。


 おばけのくせに、翼がいたみすぎて飛べなくなったリレイと一緒にアズルに乗って、今は村への帰途についている。


 あれは、昔、神様が偉い人たちにあげた諸刃もろはの剣の、なれの果て。

 きっと神様はあれで偉い人が世界を壊すのを、期待していたんだと思うよ。



 独白とも歴史がたりとも言えないつぶやきに、どう応じていいか分からなくって、レイチェルは黙ったままアズルを抱きしめる腕に力をこめる。


 ほんとうなんてどっちでもいいのだ。

 自分はいま生きていて、生きている仲間たちがいて、生きるためすべきことがたくさんあるのだから。


 彼自身も分かっているのだ。

 本人がつぶやいた通り、ぜんぶもう。

 過ぎたことなのだから。






 村に着くと、待ちかまえていた子どもたちにわっと囲まれた。

 心配が笑顔に、不安が希望に変わっているのを見て、嵐がほんとうに消え失せたことを知る。

 自分はなにひとつしていないのに、口々に感謝の言葉をかけられるのが居心地いごこち悪くて、レイチェルは用事をいいわけに早々にその場を立ち去った。




「本当に、止めてしまいよるとはのう」

「できないなら、はじめから行きませんよ。僕は、濡れると溶けちゃうんですから」


 立ち聞きするつもりはなかったのだが、耳に入ってきた。

 レスターとリレイが神殿の入り口に立って会話している。

 痛々しいほどにボロボロだった白い翼がいつの間にか、新品と取り替えでもしたかのように綺麗に治っていた。


「でもこれで、フィーの分の食べ物と衣類は提供してもらえますよね。なにせ、嵐を止めたんですから」


 どこか挑戦的にも聞こえる言。

 レスターが困ったように笑って、口を開く。



「もちろん、必要とする者に対し寛大かんだいでありたいと思っておりますよ。しかし、わしらがあなた方の正体を知りたいと望むのは、当然のことだと思われませぬか?」






 to be...



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