第98話

 次の日、マーズは自分の部屋のベッドで目を覚ました。となりにはすうすうと寝息を立てて眠っている崇人の姿があった。

 彼女は崇人の顔を撫でる。昨日あったことは彼女にとってとても嬉しかったことだった。

 ――お前の思いに気付けなかった。

 崇人の言葉は今も彼女の胸に残っている。そう言ってくれるだけでマーズは嬉しかった。

 崇人が目を覚ますと、マーズは笑みを浮かべて言った。


「おはよう、タカト」


 崇人はまだ寝惚けている様子で、うんうんと頷くだけでまた横になった。


「ダメよ、タカト。今日も学校でしょう? 用意しなくちゃ」


 そう言ってマーズはベッドから抜け出る。何もつけていない彼女の姿が窓から差し込む太陽の光に照らされ、神々しい美しさを放っていた。

 マーズは床に投げ捨ててあった衣類を身に付け、そして部屋から出て行った。

 部屋から出て行ったのを確認して、崇人は漸く起き上がる。そして、彼は昨日したことを思い出して顔を隠した。

 もともといた世界で三十五年間、こういうこととはまったく無縁だったというのに、この世界で僅か一年というタイミングで行為に及んでしまったこと。

 目を瞑れば、昨日の様子が鮮明に思い浮かぶ。マーズの声、顔、胸……そして。


「……あー、もう!」


 そんな邪な気持ちを払おうと無意味に叫ぶ崇人。起き上がって、脱ぎ散らかしたパジャマを着ると、彼はリビングへと向かった。

 リビングではマーズが珍しくキッチンに立っていた。この『立っていた』というのは調理をするために立っているわけであってレトルト食品を使っているわけではない。

 直ぐに崇人の鼻腔を焦げたような香りが擽る。そしてそれはウインナーを焼いている香りだと解った。


「ウインナー?」

「ぴんぽーん、大正解」


 そう言ってマーズはフライパンで焼いていたウインナーに焦げ目がついたことを確認して、皿に盛り付ける。皿には既に野菜が盛り付けられており、メインディッシュのウインナーがそこに盛り付けられるのを今か今かと待ち構えていた。

 そして、ウインナーが盛り付けられ完成、マーズは鼻歌を歌いながらそれをリビングへと持っていくのだった。

 崇人は既に二人分のトーストを焼き終えていて、バターを塗っていた。


「お待たせ」


 マーズはそう言って笑みを浮かべると崇人の前に皿を置いた。それを見た崇人は皿とマーズを何度も見返した。

 マーズは疑問に思って彼に訊ねた。


「……どうしたのよ。そんなに人の顔と料理を見返して」

「い、いや……マーズっていつもレトルト食品だったじゃん? だから手作り感溢れるこれを見ているとちょっとな……」

「違和がある、とでも?」

「いや、そういうわけではないぞ。ただ……女の子に手作りの朝食を作ってもらった機会が『向こう』じゃなかったからな……。いつまで経っても慣れないのはそのせいなのかも」


 それを聞いてマーズはほっと一息吐いた。


「なんだ。てっきり私は何か嫌なものでもあるのかと思っちゃったわよ」


 それはないよ、という崇人の言葉を聞いてマーズは自席に腰掛ける。

 そうして彼らは朝食に興じる事とした。

 暫く食事は他愛もない会話とともに続けられた。二人とも昨夜のような経験は初めてだったからか、お互いに顔を見てしまうと直ぐにそのことを思い出してしまうくらいだった。


「……あ、そうだ。私、今日は城の方に向かう予定があるから」


 思い出したようにマーズは言った。崇人はデザートのヨーグルトを食べようとするところだった。


「城? なんでまた急に」

「騎士団の再編計画……あれのまとめについて、最終的な案が出たとのことでね。まぁ、たぶんうちの方に来るんじゃないかなぁ……」

「またメンバーが……?」

「えぇ、一応二人って聞いてるけど……ただ、一人は精神の方に問題を抱えている可能性があるらしいわ。バックアップの唯一の生き残りらしいから」


 バックアップの身に起きた残虐極まりないあの出来事は、戦争終了後にヴァリエイブルだけではなく世界に駆け巡ることとなった。

 リリーファーを使うことなくリリーファーを倒すことが出来る存在――聖人。

 その存在はリリーファーを戦争の主だった手段として使用する国にとっては、まさに脅威の一言にほかならなかった。

 今まで知られることが無かった『聖人』の圧倒的な力と、それほどの存在を今までどの国にも隠し通した法王庁の力。他国はその二つに恐怖すら覚えた。それによってリリーファー一強だった戦争のシステムが変わってしまうのではないかだとか、まだ法王庁が何か大きな戦力を隠しているのではないか……そう考えるようになっていったのだ。

 しかしこれは法王庁にとっては非常に有利なものだった。何故ならこの前のヴァリエイブルのように戦争を仕掛けられる確率が大幅に減るからだ。

 とはいえ各国も聖人について対策を練らねばならないし、先ずは国力を増やす必要があった。その手段は国によって様々である。戦争を吹っ掛けて領地を奪い取ったり、国費中の軍事費率を上げたり、新しい兵器を開発したり、来るべき時に備えて国民用の保護施設を建設したりなどがある。


「そーいうわけで先ずは騎士団の抜本的改革を行っていくそうよ。その第一弾として、前回の戦争でほぼ壊滅状態になった騎士団の再編……ってわけ」

「ふうん」


 崇人はマーズの言葉を聞いて、小さく頷いた。あの戦争は彼が思っていた以上に甚大な被害があったのだった。


「まぁ、それもあるから当分戦争は無いだろう……ってのが各国の意見だね。だってヴァリエイブルとペイパス、それに法王庁が和平を締結したから、基本的にそれが破られることはないでしょう? そして他の国はお世辞にもヴァリエイブルや法王庁より強い戦力を持っているとは言えないわ。秘匿しているのならば……話は別だけれど、これまでのスパイ行動からしてそれまで強力な兵器は開発されていないことは確認済みだからね」

「そういうとこは抜かりないよな……。そりゃ、無駄に戦争したくないから、ってのもあるんだろうけど」


 崇人はそう言いながら残っていたヨーグルトをかっ込むと、立ち上がった。


「ごちそうさま。急いで行かなくちゃな」

「用意は?」

「もう済んでるよ、何の問題もない」


 マーズはそれを聞いて立ち上がると、崇人の前に立った。

 そして崇人の頬に軽く口づけをした。

 崇人は何をされたのかまったく解らなくてマーズの方を見たが、マーズは愉悦な笑みを浮かべながら頷く。


「いってらっしゃい、タカト」


 その言葉に崇人は気を取られてしまい、数瞬のラグが生まれてしまったが、そのラグの後、ゆっくりと頷いた。



 学校に着いてからも、崇人は昨日のことを思い返していた。ただ色惚けていたわけではなく、未だに自分のした行為に整理がついていなかったのだ。

 双方の合意とはいったものの、その行為に及んだ崇人の年齢が問題だった。

 十一歳……崇人の世界でいえば小学校四年生くらいだろうか。ともかく、『子供』或いは『小人』というカテゴリに入るのは間違いない。そんな人間が行為に及んだのだ。

 これは間違っているのだろうか? 崇人が居た世界なら、間違っているという世論の動きがあったかもしれない。

 だが、ここは異世界だ。アルコールを飲むのは二十歳未満でも問題ないというのなら、そういうことについても何らかの齟齬があるのでは……、そう思ってしまう。

 そして崇人は心にそんな疑問ばかりを浮かべていた。


「よう、タカト。どうしたんだ? そんなに考え込んでよ。実にお前らしくない」


 ヴィエンスにそう言われて崇人は我に返った。

 今は授業の合間にある休み時間となっていて、それぞれがそれぞれの休み時間を過ごしていた。


「うん……なんというかまぁ……大丈夫だ、何でもない」

「本当にお前、大丈夫なんだろうな? 進級試験での言い訳に使うつもりだとかじゃないよな」

「そんなことはあってたまるものか」


 崇人は笑みを浮かべる。

 そこで崇人はあることを思い出した。


「そうだヴィエンス……。今日の昼はいつものように時間があるか? 進級試験について、いい情報を持ってきたぜ」


 その言葉を彼が放った瞬間、教室がシンと静まり返った。そして教室の彼方此方では「進級試験の情報?」「いやいや、あれは冗談だろ。そんなものがあるとは思えないぜ」「でも確かに聞こえたぞ。えーと、それを言ったのは……」とひそひそ話が聞こえてくる。崇人はそれが耳に入って、何処と無く嫌な予感がした。


「タカト」


 その雰囲気を切り裂いたのはリモーナの言葉だった。瞬間、彼らはリモーナに視線を集中させる。


「……その情報を私たちに教えてくれることは出来ないかしら? 別に全部とは言わないわ。けど、何をするのか未だに発表が無い以上、クラスが不安になることはもはや当然なことなのはあなただって解ることでしょう?」


 崇人は頷く。

 リモーナの話は続いた。


「私が『全部』と言わないのは、あなたが手に入れた分かかった労力の対価を私たちが支払うことが出来ないからよ。労力を試算しづらいというのもあるんだけど、それでも少しくらい……教えてくれてもいいんじゃない?」

「別に……黙っていたつもりじゃないんだけどな……」


 そう言って頭を掻くと、崇人は時計を見た。未だ五分ある。多少説明をするには充分過ぎる時間だろう。

 崇人は立ち上がると教壇に立った。自然、視線が崇人に集中する。


「僕がみんなに情報を隠していたこと、本当に済まないと思っている。隠すつもりは毛頭無かった。だが……これが確実なのかどうか証拠がうまく見つけられなかった。でもまぁ、それも平たく言えば言い訳になってしまうのだけれど……」


 崇人は俯いたが、直ぐに前を向いた。


「僕が知っている情報は幾つかある。その中で真っ先に言わなくてはならないこと……それはきっと、今回の進級試験は『シミュレートマシンによってアスレティックコースを走破すること』からだと思う」


 淡々と告げられた事実に、クラスメートは沈黙した。


「それはほんとうなのか?」


 クラスメートの一人が崇人に言った。

 崇人はそれを聞いて、頷く。


「あぁ、アリシエンス先生から直接聞いたことだ」


 崇人の言葉に出てきた人物の名前は、崇人の言った情報の信憑性を急激に高めるものだった。そしてそれはクラスメートである彼らでさえ理解していた。

 崇人の言っていることは本当なんだ――多くのクラスメートがこの時そう思った。

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