06
改まった様子から、彼が何を言いたいか、何を問いたいのか、伝わってくるようだった。すうっと息を吸って、覚悟を決める。
「私の本当の名は、美織といいます。上条美織、それが私の名です」
「美織……」
「はい」
告げた名前を反復し返され、短く返事をする。何をどう話そうか。もうこうなった以上、彼にこれ以上の隠し事はしたくない。
「今から、突拍子もないことをいくつも言います。けれどそれは、私が見て体験して感じた、私の真実です。長い話になりますが、聞いて下さいますか?」
どうか、耳を塞いでしまわないで。この十年で彼を知ったのと同じだけ、彼に自分を知ってもらいたい。
静かに頷いてみせた音恒の反応を見てから、美織はゆっくりと口を開いた。
「私は……遠い、遠い未来からやって来ました。元々は医者ではなく、看護師という医師の手伝いをする職業――役割でした」
そしてもう一つの職。カイロプラクターは、異国では医者として認められていたが、ここ日本ではそうではなかったこと。だがその知識も技術も本場仕込みで、絶対の自信と誇りをもって働いていたこと。今持っている医者としての知識と技術のうち、「鳥羽も知らないもの」というのがそれら未来で覚えてきたことだ。
それから、原因は分からないが、眠りから目を覚ました時、時代を越えて来ていたこと。それから五十年近く経ち、今はもう
以前した『予言』は、本当にそういう霊的な何かで知ったことではない。ただ昔、学生時分に学んだことを覚えていただけだ。
元の時代に帰れるかどうかも分からない。老いないどころか、食事が摂れずとも衰弱さえしないのだ。怪我は人より早く治癒し、病にもかからず、死することさえ人よりも難しいのかもしれない。このままいつまで生き続けるのかも分からない。
自分のことなのに、分からないことばかりで、恐ろしくもあって。
だから自分には、医者として生きる道しかないのだ。女の医者が居ないなら男になる。そう決めることに何の躊躇いもなかったし、後悔もしていない。これから先も、医者として、男として、手の届く限りの人々を救っていきたい。帰れないというなら、意地でもこの生き方を貫いてみせる。
「…………」
「…………」
話し終えると、僅かな間、沈黙が降りた。ちらりと音恒の様子を見れば、まっすぐに視線は美織に向いていた。
「分かった」
「え……?」
「汝がそう望むならば、汝はこれからもずっと、『和臣』じゃ」
そっ……と、膝の上に置いていた手に彼の手が重ねられる。その手の優しい感触に、少しの冷たさに、美織はほっとしながら薄く笑みを浮かべた。
*
それからまた数ヶ月が経った。変わることなく美織は音恒のもとへ往診に通い、時折月の明るい夜に少しだけ屋敷の外へ出る。
そんなある日の、昼の往診の時間。いつも通り、美織は外で見聞きしたことや、女だと知られてから、未来から来たと話してから始めた、美織の知る未来の話をしていた。
「書物は、専門……医術に関わるのものを多く読んでいました。けれど時々、友人が勧めてくれる空想の物語なども読みましたね」
「空想の物語とな?」
「はい。私のように時代を超えたり、他にも遠い遠い世界の、魔法――妖しの術なんかが普通に存在して誰でも使うような所で、旅をしたり恋をしたり。あとは、普通の日常の中で色々な体験をする人のお話とか」
「ふむ、面白そうじゃ。吾も見てみたいの」
「ふふ。……あ、今の時代をもとに作られた物語もありましたよ。今からだともう少し先に生まれる筈の、凄腕陰陽師のお話とか」
「む……それは、和臣よりもすごいのか?」
陰陽師を褒めると少しむくれたようになる。どうしても『和臣』が一番すごい医者なのだと思いたい、といった様子だ。そんな言葉や仕草ひとつ取っても、美織には彼が可愛らしく映っていた。
「以前にも言ったように、それぞれの専門の話になりますから。優劣をつけるものではありませんよ」
「う、む……」
納得を、しているのかいないのか。口を閉ざす音恒に微笑んでみせる。
いつも音恒は、美織の話を楽しそうに聞く。それが美織にとっても、楽しみの時間の一つになっていた。次は何を話そう、明日は何の話をしようと考えることさえ面白い。
「恋、か……」
先に話した物語のことが気になるのか、音恒はぽつりとこぼす。
「恋物語でしたら、源氏物語も――って、紫式部は平安中期か」
この時代にもありそうなものを、と思うが、今はまだ平安初期あたりの筈だ。知っているものなどそうそう無い。そう思っていると、音恒がじっと美織を見つめて問うた。
「和臣。吾のこれは、『恋』か?」
「……え?」
恋を、しているというのか。この限られた空間の中で、限られた人にしか会えない音恒が。いや、喜ばしいことだ。外に出られず、決して恵まれているとは言い難い環境の中で、それでも恋が出来る程度には心豊かに育ってくれたということなのだから。
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