ある少女の話


『ソレ』に名前はなかった。

 ただ、己の世界に従事するという使命だけがあり、そのためだけに生きていた。

『ソレ』らに、定まった姿形などはなく、ただそこにゆらゆらとあるだけだった。

 意思らしいものはなく、自分たちの世界の保全のためだけに生きていた。

 

 ある日。

『ソレ』らの世界に、違う次元の生物が迷い込んだ。

 その生物と直接交流することは出来ず、しかし、その生物は無意識に『ソレ』らの世界から何らかの力を持ち帰っていった。

『ソレ』らは、その生物の心を通じて、その生物の世界の場所を知り、その世界のことを調べるようになった。

『ソレ』らは理解し始めていた。

『ソレ』らの世界と、その生物の世界とが、何らかの事情で近づいてしまっていて、だからその生物たちは、時折こうして迷い込むのだと。

 

 だから、『ソレ』らの内の一体の『ソレ』に、その生物の世界に行き、対処を命じた。

 こちら側を脅かす可能性のある者の『殺害』。

 そのために、その生物の世界の情報を吸収し、その姿と心を真似ることで、まずは世界になじもうとした。

 姿と心は『ソレ』の世界に来る生物のものを真似ることにした。

 文化などは、ほかの迷い込んだ生物の心を覗いて学習することにした。


 そうして『ソレ』の、その生物たちの世界で活動するための準備が整った。

 ただ、ほかの生物を真似ると言っても、しかし、それはその生物に『成る』と言っても過言ではなく。だから、もう二度と自分たちの世界に帰れないという事でもあった。

 しかし『ソレ』は迷わなかった。

 否、迷うという感情も意思すらもなかった。

 ただ、機械的にタスクをこなし――


 そして『ソレ』は『空値真理』となった。


◆◆◆


 地球の日本の、とある都市にやって来た真理が最初にしたことは、設定の反映だった。

 姿も心も真似たのは良いが、人間として生活するための様々な手続きはもちろんしていなかった。

 だから、自分の活動範囲内の人間に偽の記憶を植え付け、家を手に入れ戸籍を手に入れた。

 家具や内装などは、行動に支障がないため不要と判断した。

 そうしてまずは足元を整えて、次に任務遂行の段取りを考えた。


 敵のことは知っている。山未宗蓮という男だ。

 そして、この男に子供がいることも知っている。

 だから、まずはそれに近づいて、宗蓮という男のことを探るべきだと考えた。

 

 子供の名前は宗助。

 

 彼の性格、趣味嗜好について情報を回収済みだ。

 とはいえ、どのように近づくかは未定だった。

 

 ただ、人間という生物は、同じことを知っていて、そのことを共有することで群を作るという事は事前に知っていた。

 また、異性に特定の行為で親睦を深めるらしく、その行為は未成熟の個体には刺激的で、精神的動揺が生まれるものであるらしかった。

 だから対象の子供にはこうしたもので迫り、関係性において主導権を握る方向で進めることとした。


◆◆◆


 宗助と接触した真理は、なるべく彼が好みそうな話題を選んで話していった。

 やはりというべきか、宗助の精神は未成熟であるようで、そのことを踏まえた上で行動していけば問題なく主導権を勝ち取れるように見受けられた。

 また、接する際には異性が喜ぶような行動を織り交ぜることで、彼の意識を自分に向けるようにしていった。

 それらを行いつつ、彼岸に現れた人々に接触し、山未宗蓮の出方を探ることにした。


 全て――全てうまくいったと認識していた。

 ゲームセンターであの出来事が起こるまでは。


 宗助はそこで不良に絡まれていて、真理はそれを助けた。

 彼は真理にとって庇護の対象であり、それは当然の行動だった。

 彼を害するものは、自分にとっても敵であり、それは排除すべき存在なのだ。

 だから力を振るい、それを実行した。


 それが正しいことだと認識しており、そして彼との距離がより縮まると予測された。

 けれど結果は異なり、彼は怯えた様子でこちらを見返していた。

 

 どうすべきか、分からなかった。

 何を言うべきか分からず、どんな顔をすれば良いのかも分からなかった。

 無様だっただろう。不気味だっただろう。

 

 けれど、空値真理という存在が始まったのは、その時からだったのだ。


◆◆◆


 遠くで鳥の鳴き声が聞こえ、目を覚ます。

 床で転がるように寝ていた真理は、むくりと起き上がった。


 ――背中が痛い。


 背中をさすりながら、ふとそんなことを『思う』。

 こちらでの活動には不要と思っていたが、しかしベッドというものは必要かもしれない。

 山未宗助と別れた日の夜。アノマリーとして彼岸に来ていた杉本という少女を探して、しばらく行動を共にした。

 その日の内には、何も起こらなかったが、どうやら夜のうちに、敵が動いたらしい。 

 昨晩の彼岸に、彼女は現れなかった。

 おそらく、敵に捕まり――。


 他世界の住人に対しては何の感情も抱いていないつもりだった。

 しかし、と。真理は自分の胸に手を当てて。ならば、今自分の中にある、この不快な感情は何なのだろうか、と。

 あのゲームセンターの一件から体の調子がおかしい。能力も前ほど上手く使えない。


 自分の能力は、自分の体を自由自在に操る能力だ。

 ゲームセンターでは自分の周りに巻いていた、微小の体液を相手の体に侵入させて事態に対応したが、今はもうそんな繊細な操作はできない。

 また、思考パターンでも不具合が生じ始めている。


 助けられなかった少女を、助けられた未来――。

 なぜ自分は、ありもしない可能性の未来を想像しているのだろう。

 この思考は何だろうか。


『これは』一体何なのだろうか。


◆◆◆


 夢女との戦いから、宗助と行動を共にするようになった。

 

 それは当初の計画通りではあったものの、真理としては少し怖くもあった。

 なぜなら彼は、自分が不具合を起こした時のことを知っているからだ。

 自分の事を彼がどんな風に思っているかは、推して知るべしだろう。

 かといって、あの時の事情を説明するつもりもないので、今までのふざけた態度で接することに決めた。

 

 仕事であるので当初決めたように彼との親密になるために、デートだのキスだの恋人の真似事をして遊んだ。

 そうしたことをする中、コロコロと変わる彼の顔を見て、自分もどこか満たされて、いったような気がした。


 彼と喋り、どこかへと行って、何かを見て、風を頬で感じ、食事をして。

 空っぽだった自分の中に、そうした思い出が溜まっていって、それが……どうしようもなく心地よかったのだ。


◆◆◆


 だから。


 だから、元の世界の仲間に彼を殺せと言われた時は、どうすればよいのか、まるで本当に分からなかった。

 

 心のどこかでは、任務達成に必要な情報と手段はそろったのだから、危険因子は消すべきだという自分がいて。

 また別のどこかでは、彼との日々を思い返して、迷い続ける自分がいた。

 

 ――決められなかった。

 

 こんなことは生まれて初めてだったかもしれない。

 殺すべきか否かを迷いながら拳を振り下ろし、そのまま彼のパソコンを奪って逃げた。

 

 気が付けば自分の家にいた。

 誰もいない、何もない、独りぼっちの家。

 ここを出るときに、全てを破棄したのだったか。

 元に戻そうかと思って、やめた。


 違うのだ。

 自分が居たい家は、ここではないのだ。

 彼の家。彼と共に過ごした、あの家なのだ。

 

 もう、何もかもが嫌になって、疲れ切って瞳を閉じた。


◆◆◆


 気が付けば、ワタシは彼岸に居た。

 

 ふと手を見ると、普段ならそこにあるはずの、ワタシの手は黒い靄のようになっていた。

 

 あぁ、そうか。

 おかしくなってしまったのだ、ワタシは。

 

 心を持たなかったものが、心を持ってしまって、ちぐはぐになってしまって、もうすっかり壊れてしまっていたのだ。

 その事実が、怖くて、気持ち悪くて、今にも泣きだしそうで、吐きそうで、どうしようもなくしていると――。


「――真理」


 彼の声が聞こえた。前をみると彼がいた。

 心臓が止まるかと思った。


 ここは彼岸だ。アノマリーとして、目覚めたものしか来ることが出来ない。

 だから、おそらく。

 彼は目覚めてしまったのだろう、アノマリーとして。

 もともと素質はあったのだ。

 彼の母親はアノマリーだ。夢女との戦いで傷を負った彼を、ワタシは自分の体で修復した。知識の共有も行った。

 潜在的には殆ど無かった彼のアノマリーとしての才能を、それらの積み重ねが、彼岸に至るまでに高めたのだろう。


 彼の目は、出会った時のような弱弱しいソレではなかった。

 覚悟と決意を秘めた、まっすぐな瞳だった。

 それに比べて自分はどうだ。

 ワタシはまだ、おぼろげな自分の体を見やった。

 彼は運命と対峙するために、ワタシの力が欲しいと言った。

 ワタシの心に迷いがあると見抜いていたようだった。


 ワタシは自分を恥じた。

 何者にもなれず、どちらにもつけず、ただこの靄のような己を。何物にもなりそこなった自分自身を恥じた。

 

 あぁ、でもしかし。

 彼は、そんなワタシに会いたいと言ってくれたのだ。


◆◆◆

 

 役目が終われば死ぬと、彼に言ったあの夜。

 彼は怖くないのかとワタシに問うた。

 ワタシは怖くないと返事をしたが、それは嘘だった。


 本当は少し、恐怖のような何かがその時すでにワタシの中にあったのだ。

 元居た世界では決して生まれなかった思いだろう。

 否、そういう考えにすら至らなかっただろう。

 

「お前に消えてほしくは、ない」

 彼の返事だった。


 ――その時は別にどうってことは無かったんだ。


 でも、時が経てばたつほどに、その言葉はワタシの胸の中で広がっていって。

 いつしか、山未宗助という少年が、ワタシという個の存在を許す免罪符のようになっていて。

 だから彼を守るために行動しようと思うようになって――。


 違う。

 違うな。

 あぁ、そうか、これが――。


 やっと追いついたぞ、人魚姫。

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