55杯目 赤の王の夢
カレンダーも六月になったある昼下がり。
いつもの英国風に戻った有栖川茶房のカウンターの中には桂の姿しかなかった。
珍しいこともあるものだと店内を一望すると、一番奥のソファ席で腕を枕に突っ伏している瑛がいた。いびきこそ掻いていないが、どうやらすっかり寝入ってしまっているようだ。
店の扉は閉まるに任せ、有紗はカウンターの指定席に腰を下ろした。
「今日は桂さん一人なの?」
「宇佐木くんはお昼休憩で二階に居るよ。てっさも一緒。呼ぶ?」
「ううん。折角のお休みだから邪魔しちゃ悪いよ」
言いながら、桂の後ろを盗み見ると、例のエスプレッソマシンがまだ鎮座していた。どうやら撤去は免れたらしい。
「ああ、これ?」
視線に気がついたのか、桂が身体の向きを変えて背後を見せてきた。
「困っちゃうよねー。勝手に買うんだもん。でも、便利だし高価だからぽいって訳にもいかなくってねー」
「ぽいされてないかちょっと気になってたんです」
「コーヒーでもお茶会は出来るからねー。僕は断然紅茶派だけど」
コーヒー派を疎んでいるわけではないことがわかり、一安心。胸を撫で下ろしている間に桂はまた正面を向いていた。
「あっ。お水出さなきゃね」
いつもは気付かないのに、今日は気が回るようだ。出された水とお手ふきを受け取って、メニューを手に取り眺めた。特に内容に変化は無い。
「桂さん、この間は仕入れに行ってたんですよね。何仕入れたんですか?」
「ダージリンとかアッサムとかあの辺だよ~。そうだ。今日は仕入れたてのアッサムでも淹れようか。ミルクティーにする?」
「今日はストレートでお願いします」
「いいよ~。デザートも良かったら考えといてねー」
「はーい」
ケーキに関してはメニューを見るよりもショーケースを眺めた方が早い。身を乗り出して覗き込むと、いつものショートケーキとモンブラン、それとレモンメレンゲケーキがあった。目新しいものがあると、ついそれを頼みたくなってしまうのが性だ。
「ケーキはこのレモンメレンゲケーキでお願いします!」
「はぁい。紅茶に良く合うと思うよ~」
紅茶の蒸らし時間の合間に、既に切り分けてあるケーキをひょいと取って、フォークを添えて桂が出してくれた。レモンのすっとした酸味を、微かに香りで感じることが出来る。口内に唾液がじわりと染み出るのを感じた。
不意に、眠りが深くなったのか、瑛の寝息が強く聞こえてきた。ちらと目線を遣ると、有紗が入店したときと同じ状態で突っ伏している。以前弥生が、瑛は偶に昼休みに来ると言ってたのを思い出し、静かなところで休みたいのだろうと想像する。それならば、声量も少し控えめがいいか。
「キングのこと、気にしてる?」
「ぐっすり眠ってるから、何だか悪いなって」
「大丈夫。夢の中だからね」
桂が言うと何故か意味深に聞こえる。
夢の中。ユメノナカ。
単に瑛が眠って夢見ているだけと取るのが自然なのに、まるでこの空間自体が夢のような物言いにも聞こえる。
そんなことを考えていると、
「ねぇ、アリスちゃん。この現実が誰かの夢だったとしたらどうする?」
心を見透かしたかと思う投げかけをしてきた。
「あ、それ知ってる。胡蝶の夢だ」
「でもそれは、自分が夢か夢が自分か、だけど、〝誰か〟の夢だったら?」
「……難しいね」
「例えば、今眠っているキングの夢、とか」
「今ここで瑛さんが目を覚ましたら私は消えちゃうのかな。ふっと、灯火みたいに」
「逆にアリスちゃんの夢だったら僕らが消えちゃうね」
「あの……この話って、どういう話なんですか?」
「この現実が誰かの夢だったら、っていう話だよ」
短く一周回って堂々巡りしてしまった。ここで話は終わるのかと思いきや、抽出が終わった紅茶をカップに注ぎ、カウンターの上に置きながらまだ桂は口を動かした。
「誰かの夢だとして、夢見るのをやめたとき、消えるのは果たして登場人物なのかな」
「どう……でしょう」
「夢見てた当人が居なくなるって事も有り得るよね。だって、夢見てた人はもう夢の中に居なくなっちゃうんだから」
「うーん……」
まだ熱い紅茶を遠慮がちに啜りながら、有紗は今日の桂に違和感を覚えた。
いつになく口が回る桂は別人のようだ。話の内容が現実離れしているのは、彼らしいと言えばそうとも言える。
食べ物を口にする前から消化不良になったような感覚に襲われたまま、有紗はケーキの先端をフォークで切り取った。一瞬だけさくっという感触の後、フォークはすっと沈んでいく。
「頂きます」
レモンカードの甘酸っぱい味が再び唾液を呼んでくる。メレンゲも含めた程よい甘さがあって、紅茶が進む。夢中になって交互に食べ進めていると、目の前で桂がゆらゆらと揺れ始めた。
――いつもの調子に戻ったかな?
揺れている桂の方が見慣れているので、どうしてもこの方が安心してしまう。今日の桂が饒舌なのか、一人になった今が本来の桂なのか。その点は判別がつかない。
紅茶を口に含みながら考える。
今こうしているのが誰かの夢で、誰かが夢を見ることをやめてしまったら。自分という自我はどうなってしまうのだろう。消える、という感覚はどうやっても想像が付かない。消える。死ぬ。そうした消失を、かつて想像したことはなかった。しようともしなかった。
桂は、そんな問いを投げかけて、何を得たかったのだろうか。相手への興味本位か、それとも自身が答えを探しているのか。
――桂さんなら答え出してそうだけど。
昼行灯は見せかけで、実は深い思考を色々としているのではないか、と今日を含め偶に見かける片鱗からそう思う。
そこまで思考したところで、バイブレーションの音が静かな空間に割って入ってきた。音の出所は瑛がいるテーブルの上で、ムニャムニャ言いながら持ち主がゆっくりと顔を上げた。そして目が合った。
「あれ。アリスちゃんじゃん。来てたらな起こしてくれれば良かったのに」
「お休みの所起こしちゃいけないと思って。あと、瑛さん。おでこに痕、付いてますよ」
「マジ? やっべ」
瑛は慌てておでこを擦るも、そんなことで痕が消えるわけもなく、余計に赤くなってしまっている。
「んー。まいっか」
おでこの痕については早々に諦めると、大きく伸びと欠伸をした。
「さーて、戻るか」
「遠いのにわざわざここに来て休むことも無いと思うんだけどな~」
「気晴らしも必要なんだよ。いくら好きでも籠もりっきりじゃ息詰まるし」
「僕はここに引き籠もりだけどね~」
「桂はそれでいいんだよ」
「そうだねぇ。ここが僕の居場所だからね~」
何気ない一言が、異様に含みを感じて聞こえるのは、今日の桂が通常仕様ではないことに由来しているのかもしれない。瑛は気にした様子は微塵も見せなかったが、有紗にはそうではなかった。
「そんじゃまたな」
「またね~」
「また遊びに行きますね!」
手を振って瑛と別れを告げる。扉が閉まり、ドアベルの音が鳴り止むと、いよいよ桂と二人きりになった。
心なしか、桂の揺れ幅がいつもよりも小さいように思えた。
――気の所為、かな?
その揺れ幅は徐々に狭くなっていく。やがて彼の身体がぴたりと止まったとき、漸くそれが気の所為ではないことに気がついた。
内心落ち着かない気持ちを抑え、ケーキを切り取る作業を続ける。
フォークに刺した一口を口に含もうとしたとき、ふっと微風を感じた気がした。
起こる筈のない風。それを頬に受けたとき、何かが変化したのを直感的に感じた。その変化の内容を知ったのは、ケーキを食んだその瞬間だった。
「わっ……」
甘酸っぱい味の筈が、苦みと塩気に入れ替わっていた。とても食べられた味ではないが、吐き出すわけにもいかないので無理矢理嚥下する。酷い目に遭ったとティーカップの取っ手を持つと、その内容が氷のように冷たくなっていることを知った。きっと飲めばまた酷い目に遭う。
――まるで鏡の中の世界みたい……。
とても食べたり飲んだり出来る代物ではない。そして、どうして鏡に触れてもいないのにこんなことになったのか。
首を傾げながら顔を上げると、真っ直ぐに背を伸ばして立つ桂の姿があった。
その様に、有紗は思わず息を呑んだ。
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