44杯目 三月の不在
三月に入ってから初めて訪れた有栖川茶房では、いつもと少し様子が違っていた。
いつも弥生が立っているところに笑太が立っている。他に応援はなく、店内は笑太と桂の二人だけだ。太い猫もいない。
いつものカウンター席について改めて見渡しても、猫と弥生はいなかった。
「あれ? 弥生くん、また風邪とか?」
単なる休みという可能性は全く排除した質問を投げると、
「三月はちょっとね、用事があって一月まるまるいないんだ」
笑太から驚くべき回答が返ってきた。
「えーっ。一ヶ月会えないのー?」
「毎年そうなんだ。ごめんね」
「ううん。ご用事じゃ仕方ないもの。でも、一ヶ月は長いね」
彼がいない有栖川茶房は少し寂しいことを、先日ウサギが居たときに感じていたので、その寂しさが一月続くのかと思うと少ししゅんとしてしまう。
「その代わり、って訳じゃないけど――」
そう言いながら、笑太はカウンターの後ろに置いてあった紙袋の手提げを持ってきた。その中から取り出したのは、名前の書いた付箋が付いた様々なチョコレート。
「バレンタインのお返し。これが弥生、これがジャック、妃、エース、キング、後は環」
「環さんには何にもあげてないのに!」
しかも、一番豪華そうなチョコレートに環の名前が書かれた付箋が貼ってある。どう考えても貰うべきではないものだ。
「いいんじゃない? 受け取った気持ちのお返しなんだよ、きっと」
「そういう理屈でいいのかなぁ……」
環はあげたがりだ、という朝の話を思い出す。
納得はいかないまでも、突き返すのは流石に失礼なので頂くことにした。
「後これは俺から」
そう言って差し出してきたのは、猫の絵柄が描かれた箱。
「これは僕からだよ~」
桂から渡されたのは、ティーカップや紅茶用品が沢山描かれたパッケージの箱。
皆それぞれに個性があって、付箋がなくても誰からかわかりそうな程だ。
「ありがとう! 大事に頂くね!」
カウンターテーブルに一杯に広がったお返しのチョコレートを、受け取った紙袋の中に一つ一つ丁寧に納めていく。お返しが目的であげているわけではないといっても、貰えるとそれなりに嬉しいのが本音だ。今週は家でのティータイムも捗ることだろう。
家での楽しみは一旦横に置いて、メニューを手に取った。テーブルの上が片付いたのを見計らって、笑太が水とお手ふきを出してくれた。
ケーキを作る弥生がいない所為か、委託しているというショートケーキとモンブラン以外はマスキングテープで目隠しがされている。日替わりケーキは一応あるようだ。ショーケースを覗くといつもよりがらんとして物寂しい。
「今日はケーキ、なにがあるの?」
「今日はね、苺のロールケーキがあるよ」
「苺のロールケーキ! いいねそれ。じゃあ、それと……」
合わせる紅茶を決める為に再び視線をメニューに落とす。
出来ればミルクティーが飲みたい。メニューをよく見ると、茶葉の横にミルクポットの柄が付いているものがある。散々見ているのに気にしたことがなかった。マークが付いている中から一つを選び取る。
「紅茶はディンブラのミルクティーで」
「ありがとー。張り切って淹れるねー!」
注文と同時にカウンターの中がせわしなくなる。
食べ物が出てくるまで手持ち無沙汰になってしまった。今日は相手をしてくれる猫はいない。持っている小説は分厚いので、一度のめり込んでしまうと暫く抜け出したくなくなりそうでやめておこうと思う。
やることが思いつかず、カウンターの中を観察することにした。
――笑太くんは相変わらず細いなぁ。
痩せぎすなのは相変わらずで、突撃したら腰から折れてしまいそうなほど細い。ちゃんと食べているのか、という心配は恐らく無粋なので口にするまい。猫っ毛もいつも通りで、空気が乾燥しているからか跳ねた毛先が静電気で広がっているのが見える。
次に桂を見る。頭の上に音符が見えそうな様子で、やはり僅かに揺れながらお湯を注いでいた。特筆すべき事もない、いつも通りの桂だ。
「はい。お待たせ」
笑太が差し出した皿の上にはカットした苺が入ったクリームをピンクのスポンジでくるんだケーキがあり、その脇に生クリームを絞ってその上に丸ごと苺が載っていた。艶々で大きくて美味しそうな苺だ。
「おっきな苺!」
「有紗は苺、好き?」
「うん、大好き!」
大きく頷くと、笑太が笑んで返してくれた。
「こっちもお待たせ」
桂が張り切って淹れてくれた紅茶が届き、小さく手を合わせる。
「いただきます!」
艶々の苺は後でのお楽しみにすることに決めて、先ずはクリームとスポンジをフォークで切り取った。どちらからもふんわりと苺のいい香りがする。ぱくりと一口で食せば、香りが鼻から抜けていい塩梅だ。クリームにカットした苺が混ざっているので、食感も楽しい。味覚と嗅覚が苺で満たされたところで、ミルクティーを一口。口の中に残っていた苺の味と混ざって、苺ミルクティーのような風合いになった。
「美味し~」
嬉しくなって二口目、三口目と手が止まらない。半分ほど食べたところで、取って置いた苺をフォークに差すと、一口で頬張った。
甘酸っぱさが目一杯口内を浸食して、思わず目を閉じる。添えられていた生クリームをすくい取って舐めれば、甘さが勝ってそれはそれで美味しい。
好きなものが美味しいというこの状況は、語彙力を失くす。ケーキを口に入れて、出てくる言葉は『美味しい』ばかり。あっという間に食べ尽くして、皿の上は綺麗になってしまった。
冷め始めた紅茶を飲みながら、有紗は足をさすった。
――うう。冷えるなぁ。
三月に入ったとはいえ、カウンター席はまだ寒い。有紗はトイレに行きたくなって席を立った。
店の奥にあるトイレの中に、前回利用したときにはあった姿見は無くなっていた。用を足して出てきても、それは同じ事だった。
――あの鏡、何だったんだろう。
誰かが有紗を鏡の世界に行かせる為に作為的に置いたとしか思えない。
恐らく犯人は桂だろう。鏡の世界での出来事を思い返すと、答えは自然とそうなった。
あのときの話は誰にも出来ていない。鏡の中に入ったなどという滑稽な話を、誰が信じてくれるだろうか。暫くは龍臣としか共有できない出来事になりそうだ。
トイレから戻ると、カウンターの中は桂一人になっていた。
「あれ? 笑太くんは」
「笑ちゃんは休憩だよ~。十五分だけだけどね~」
「休憩は大事だね」
改めて席に着き、残っていた紅茶を飲みきった。
ふ、と有紗は桂に目を遣った。今、桂と二人きり。こういった状況は中々ない。
有紗は思い切って口を開いた。
「あの……。桂さん、この間はありがとうございました」
「うーん?」
「あの、鏡の中で、アドバイスを……」
通じなければ誤魔化せばいい。そんな思いで夢物語のようなあのときの出来事の断片を口にした。
すると、桂はニコリと笑んで、
「ああ。こっちこそゴメンね~。巻き込んじゃって。でも、おかげで助かったよ~」
「助かった……?」
「龍臣くん。あのままじゃあ可哀想だったからねぇ」
通じた、という不思議な思いと、向き合っている筈なのに何故か目線が合わない違和感に襲われる。
――やっぱり、鏡の中の桂さんとは別物なのかなぁ。
あの時彼はこちらをまっすぐに見据えてくれたのに。今の桂は、こちらの方向に顔を向けながらも、全く別の世界に焦点を合わせているようだ。例えば、今の有紗には見えない、向こう側の世界とか。
「ただ、役割を一つ、向こうに置いて来ちゃったみたいなんだよねぇ。でも、あれは鏡の中にある方が良さそうだから、別にいいけどね~」
「はあ……」
「とにかく、とっても助かったよ~。だって龍臣くんを連れ出すなんて、僕には出来ないからねぇ」
「どうしてですか?」
「僕らは縛られた存在だからね。でも、アリスちゃんは自由で唯一無二だからね。向こうに行っても、もう一人のアリスちゃんと出会うことはなかったでしょ?」
「確かに……」
わかるような、わからないような。桂と話をしていると、頭がふわふわとしてくる。主人公と言われながらも、余りにもこの世界を知らなすぎる。しかし、例え知ったとして、ついて行ける自信は無かった。
「ぶ、ぶ、ぶ、ぶ」
二回から、聞き覚えのある声が足音と共に降りてきた。てっさだ。頭にイトーくんを載せている。
「あれぇ。降りて来ちゃったの~?」
「ぶー」
勿論、と言いたそうに一声鳴くと、てっさは有紗の横の席に飛び乗った。イトーくんはテーブルの上に降りると、後ろ足で立ってちーちー鳴いている。
「イトーくん、久しぶりだねー。種、美味しかったかなぁ?」
「ちー。ちー!」
お礼を言われている。そう解釈して、有紗は指先でイトーくんを撫でた。
暫くイトーくんを構っていると、てっさが前足を伸ばして膝を叩いたり、身体を伸ばして頭を擦り付けてきたりしてきた。
「どうしたのかなぁ、甘えちゃって。ははーん。てっさもバレンタインのお返しかなぁ。可愛いなぁ」
「ゴロゴロゴロ」
撫でてやると目を細めて喉を鳴らしている。太い猫は冬毛なのか一層ふわふわになって太く見える。撫でながら毛皮に手を突っ込むと非常に暖かかった。
「てっさはアリスちゃん大好きなんだよね~。だってぇ~……」
だって、の先を待っていると、思った以上に時間が空いた。言葉を失った桂は、宙に目線を遣って考え込むようにしてゆらゆらしている。やがて桂は首を捻って、
「……なんでだっけ」
いつになく低い声で呟いた。
表情は真顔で、口元は一ミリも笑っていない。目はやや据わって、やはり一つも笑んでいない。
余りの落差に、有紗は身震いをした。こんな表情をする桂は見たことがない。先程まで手の中で甘えていた猫も、毛を逆立てて尻尾を引っ込めていた。テーブル上のイトーくんも、小さく縮こまっている。
「か、桂さん……?」
恐る恐る声をかけても、反応がない。しんとした店内で、自分の声が異様に響いて聞こえた。
――怖い……。
「ぐるる……ぶなぁ」
耳を寝かせたてっさが、絞るように鳴いた。その声に反応して、弾かれるように桂は顔を上げた。
「あ~、ごめんごめん。おかしくなっちゃったぁ」
どちらが正常かは置いておくとして、声のトーンもいつも通りで、元通りの桂だ。
有紗はまだ、自分の腕に鳥肌が立っているのを知っていた。静かな狂気のような彼の顔が、中々払拭できない。
自分の中の恐怖を取り除く為に、唇を湿らせた。
「桂さん。ミルクティーのおかわり頂戴?」
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