30杯目 レディとお菓子にご用心
「疲れたぁ……」
五限が終わって外に出るともう真っ暗だ。
いつもならばまっすぐ駅に向かうところ、今日は有栖川茶房へと足が向いた。
鉛のような鞄を引きずってとぼとぼと喫茶店を目指す。
「今日は、絶対、ケーキ食べて帰るんだから……!」
特別嫌なことがあったとか、何か目標を達成したとか、そういう具体的な理由は無い。とにかくケーキが食べたい。そういう気分だった。
真っ暗な上に冷え込んできている。
そろそろ厚手のストールか薄手のマフラーが必要になってきそうな気候だ。今年は寒くなるのが早い。
心許ない薄手のストールを口元に寄せて、正面から吹き付ける風に対抗する。
「寒ぅい!」
もうちょっと。もうちょっと。
ケーキというご褒美を自身にちらつかせながら、座りっぱなしで浮腫んだ足を懸命に動かす。
漸く英国風のこぢんまりした建物が見えてきた。心なし、足の回転が速くなる。
鞄が重い。出来るならば放ってしまいたい。
有栖川茶房の扉の前に辿り着いたときには、少し息が上がっていた。
アイアンのドアノブを押し、店内に入る。
入ってすぐのカウンター席には忠臣がいた。カウンターの中には少し驚いた顔の弥生と、いつも通りの桂の姿がある。
「いつもは来ない曜日だよな? 珍しいじゃん」
「まだ、営業してるよね?」
「営業はしてるけど……」
弥生の語尾が濁る。彼の目線を辿ると、空のショーケース、そして、半分ほど無くなったタルトを載せた皿を前にしている忠臣を見ている。
「……もしかして」
嫌な予感が脳裏を過ぎる。
弥生は申し訳なさそうにハの字眉になると、
「ごめんな、アリス。ジャックが食べてるのでケーキ、最後なんだ」
「えええっ!」
あまりのことに大きな声が出た。
「今日はケーキ食べるんだって、頑張って歩いてきたのに~」
「ごめん、って。アリスももう来ないだろうと思って、ジャックに残りのケーキ、全部食わせちゃったんだよ」
「持ち越し分とかないの?」
「全部今日までのケーキだったからさ……」
「そんなぁ」
重たい鞄に輪を掛けて絶望がのしかかってくる。歩いていたときよりも数倍重たく感じるその鞄をカウンター席の椅子に載せると、そこへ手をついて項垂れた。
「私の、分……」
「ぶなぁ」
どこからかやってきたてっさがカウンター席に載って前足を伸ばしている。
どうやら慰めてくれているようだ。
有紗はてっさの身体を両手で掴むと指を動かし、ふかふかした。
「ねー、てっさ。なんで私の分、無いんだろうねー。来たのが遅すぎたんだよねー」
「ぶなぁ、ぶなぶな」
「愚痴言うだけならタダだもん。てっさなら聞いてくれるよねー」
「ぶーなー」
てっさはされるがままに揉まれている。
ケーキがあること前提に閉店近くにやってきた自分が悪い。それはわかっている。愚痴を言うのは嫌味でしかないとわかっていながらも、どうしても言わずにはいられなかった。
「忠臣さんが食べてるのは何ケーキなんですか?」
「……パンプキンタルトです」
「パンプキンタルト……」
忠臣の皿の上を見ると、三角形の鋭角部分が無くなった状態のタルトが一切れ。残った部分にはクリームを一絞りした上にパンプキンシードが一つ飾られている。
人のものを、しかも食べかけのそれを、有紗は思わずじっと見た。
「食べてなかったら差し上げるんですが……」
「お構いなく……。羨望の眼差しを送ってるだけなので」
「何だか申し訳ありません……」
謝らせる気などなかったが、結果そうなった。当然とも言える。
「ほ、ほーら、アリス。クッキーとフィナンシェならあるぞ!」
レジ横にいつも置かれている袋詰めされた焼き菓子を手に取って、弥生がこちらに示してきた。
「……」
気分はどうしようもなくケーキを欲している。だがそれは無い物ねだりというものだ。
「ほら、桂も美味しい紅茶淹れてくれるんだろ?」
「うん? 僕が淹れる紅茶はいつでも美味しいよぉ?」
「今日はアリスのために一段と美味しく淹れるんだろ」
「うん? 宇佐木くんがそう言うなら、とっておきの茶葉、出しちゃうけど」
「高い茶葉出せなんて言ってないじゃん」
「うーん? 僕が淹れる紅茶じゃ不満?」
「この状況でボケるのやめてくれるかな……」
桂以外の人に気を遣わせているのは確かだ。これ以上悪い空気を作るのは本意ではない。
諦めよう。どうひっくり返っても無いものは出てこないのだ。
「弥生くん。そのクッキーとフィナンシェ頂戴?」
「お、おう。フィナンシェはちょっと温めてやるからな。ほら、桂も紅茶淹れる」
「えー? オーダーされてないよ?」
「いいから淹れる」
「はぁい」
指定席に着いてからも、有紗は隣の席にいるてっさをもにもにと揉んでいた。太い猫はされるがまま、時々鳴き声を漏らしながら気持ちよさそうにしている。
立っていた気分が落ち着き始めた頃、弥生がクッキーと温めたフィナンシェを皿に盛ってカウンターの上に置いた。
クッキーは市松模様のアイスボックスクッキーと絞り出しクッキー、チョコチップのクッキー。フィナンシェはカリカリに焼かれたプレーンタイプだ。
「はーい。今日は指定が無いからアールグレイにしちゃったぁ。クッキーにも合うと思うから、召し上がれ~」
差し出された紅茶は、独特の華やかなフレーバーが香っている。クッキーを囓ってから一口飲めば、甘くなった口の中がリセットされ、同時に香りが鼻を抜けて二度美味しい。
「はぁ、あったまる」
フィナンシェは香ばしいアーモンドとバターがじゅわりと口の中に広がって、これも紅茶によく合う。
「な。悪くないだろ」
と、弥生。
有紗はチョコチップのクッキーを頬張りながら、
「いいもん。明日早く来てパンプキンタルト食べるもん」
「むぐ……」
変な音が聞こえた。同時に、弥生の顔が一瞬で引きつる。
「パンプキンタルト、今日までなんだ……」
「えーっ! 嘘でしょ!」
急いで忠臣の方を見れば、皿の上は更地。最後の一切れを差していたと思しきフォークを咥えて、硬直していた。
一口を貰うということも最早できない。パンプキンタルトは失われた。
本日二度目の轟沈。
食べかけのクッキーを皿に置き、有紗は項垂れた。
「パンプキンタルト……」
「ケーキはパンプキンタルトだけだじゃねぇから。な。明日から新しいケーキ出すから」
「だめ。衝撃が強すぎて、立ち直れない……」
「ぶなぁ……」
てっさがまた前足を伸ばしている。今日はずっと慰められっぱなしだ。
お手ふきで指先を拭くと、有紗は再びてっさを揉み始めた。
「今日はこういう日なんだねぇ……」
「ぶーなー」
「明日からどうやって生きていこう」
「ぶなっ? ぶな、ぶなっ?」
「食べ物の恨みは根が深いんだから……」
「ぶう……。ぶなぁ」
「はぁぁぁ。てっさ、柔らかーい。ふかふかして暖かーい」
「ぶなぁ。ぶなぶなぶな」
*
アリスは死んだ魚のような目をしてずっとてっさを揉んでいる。
暫くはこちらの世界に帰ってくることはないだろう。
仕方が無いこととはいえ、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
カウンターを挟んだ別方向では、居心地の悪そうなジャックがそっとフォークを置いていた。
アリスだけでなく、居合わせてしまった全員が災難といえば災難だ。無論、桂は除く。
弥生はアリスに掛ける言葉が尽きて、すっとジャックの方へ寄った。
「こうなるとわかっていたら食べなんだが……」
ジャックの目もかなり死んでいる。完全に貰い事故だが、食べた量が量だけに、やはり気が咎めるのだろう。
「誰も予想してなかったって」
「食べ物の恨みは怖いからな……。特に女の子は……」
「経験済みみたいな感じだけど、なんかあった?」
「以前、実家に帰ったときに葵の分のプリンを食べてしまってな……。名前が書いてあったらしいんだが気付かなくて」
「あー、そりゃあ、やらかしたな」
「買って返したんだが、長いこと根に持たれて大変だった」
「今回は買って返せねぇしなぁ……」
材料があれば作るが、それももう無い。アリスのために仕入れるのも何か違う気がする。
この状況を非難される謂われはないとはいえ、アリスの落胆も尤もだ。そして、皆、アリスには弱い。
「妹さんですか?」
てっさを揉み続けたまま、アリスがジャックの方へ顔を向けた。
「葵のことですか? 葵はクローバーのエースで、この間話題に出た女の子のエースは彼女なんですよ」
「葵ちゃん! そして女の子!」
「女子高生ですよ」
「女子高生!」
死んだ魚が、急に活気づいた。
――恐るべし女子高生。
「でも、なんで女子高生が忠臣さんのご実家に?」
「俺の従妹なんです。高校に通学するのにうちからだと近くて便利なので、居候させてあげてるんですよ。それに、クローバーのよしみというのもありますし」
「クローバーのよしみ?」
「うちの両親がクローバーなので」
「一家で物語に巻き込まれちゃってるんですね」
「巻き込まれて何かあるわけじゃないんですけどね」
「そういうものなんですか……」
へぇ、と首肯しながら、アリスはてっさから手を離すとお手ふきで手を拭いてから、食べかけだったチョコチップのクッキーを摘まんだ。
「葵ちゃんってどんな感じの子なんですか?」
「天真爛漫で我が強くて……懐っこい子ですよ」
「そうなんだぁ。いいなぁ、女子高生。会いたいなぁ」
「アリスも去年まで女子高生だったじゃん」
弥生は不思議に思って言葉にすると、
「そうだけど、やっぱ違うの、女子高生って」
やはり不思議な答えが返ってきた。
「何が違うんだ? 年齢?」
「歳もそうだけど、存在が、こう、キラキラしてるの。女子高生って」
「そういうもんかなぁ……。女子大生だって結構キラキラしてると思うけど」
「へっ。そ、そうかなぁ。えへへ」
散々拗ねた後にムキになったり照れたりと、今日のアリスは正直扱いづらい。
そして、アリスが言わんとする女子高生については終ぞ意味が分からなかった。きっと永遠に解らないだろうと、弥生は思う。
口の端を緩めながらクッキーを食べるアリスの様を見て、このままパンプキンタルトの事は忘れ去ってそのまま帰宅して欲しいと心から願った。
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