撤退

 夜が深まる刻。


 ミシンが砦二階の窓から外を覗くと、一階裏手の方にこそこそと動く影がある。

 すぐに、ミルメコレヨンが部下らと三人だけで出歩いているのだとわかった。

 

「ミルメコレヨン! 何をしている。戻るんだ」

「もうだめだ」

「何……」

「もうここはだめだ。今の内に行くしかない」

 

 ミルメコレヨンは下を向いたまま低いトーンでそんなことを言うので、ミシンが何を言っている、とにかく戻れと再三言うと、驚いたことにミルメコレヨンは突如子どものように泣き出すのだった。

 

「頼むから聞いてくれ! あなたも早く、ここを抜け出すんだ!」

 

 ミシンはあまりの訴え方に異常を感じ、昨日の戦いで、彼が敵のことを何らか察知できるらしいことがわかっていたので、捨て置けないと思った。

 

「わかった。バッシガ殿に相談するから、少しだけ待ってくれないか?」

 

 ミルメコレヨンはすすり泣いてそこにうずくまった。

 部下らはただ不安そうにそれを見ている。

 

「すぐに戻る! 勝手に行かないでくれよ……」

 

 できれば砦の中に戻って待ってほしかったが、うずくまるばかりだった。

 ミシンは仕方なくバッシガの部屋へ走った。

 

「ミシンです!」

 

 ノックすると、すぐに「入られよ」と返事があった。

 

 暗がりの部屋で、バッシガは窓の傍らに腰かけていた。

 境界の夜明かりが薄っすらと差し込んでいる。

 

「定めなのやもしれんな」

「バッシガ殿? 何を……そうです、お聞きください。ミルメコレヨンが何かを感じ取っています。警戒を強めるべきと思いますが、場合によっては夜の内に――」

 

「時間がない!」

 

 外から声が聞こえる。

 

「ミシン殿! 時間がない!」

 

 待ちきれなくなったのか、ミルメコレヨンが窓の下から叫んでいるのだ。

 

 砦内部で、悲鳴が聞こえた。

 幾つかの悲鳴だ。

 ミシンは、廊下に顔を出して見渡す。

 バッシガも立ち上がって傍に来た。

 すぐに、兵が廊下の右から左から慌てて駆けてくる。

 

「て、敵です!」

「敵の襲撃を受けています!」

 

 ミルメコレヨンはこれを察知していたのだろうか。

 しかしあまりに不意打ちだった。

 どこから沸いて出たのか、外は全く何もない様子で、突如として内部に敵が現れたとしか思えなかった。

 

「イリュネー!」

 

 一階に下りたところで、ミシンは静養室からイリュネーが出てきているのに出会った。

 

「何が起こっている?」

「わ、わからない」

 

 その時、廊下の暗闇の中から飛び出してくるものがあり、それを見たイリュネーは「ぎゃああああ!」と酷い形相で絶叫した。

 

 真っ黒な、人の子ほどの大きさの、鳥のような生きもの……イリュネーを敗戦させた恐ろしい化け物の姿だった。

 

 イリュネーは「ひいいい」と我を失うように後ずさって壁に背をぶつけ、傍にいた兵にぶつかり走り去ろうとした。

 

「イイ、イリュネー様……」

 

 その兵の、包帯が巻かれた腕がイリュネーを阻んだように見えた。

 その腕が一気に盛り上がり、鳥が飛び出した。

 

「うわああ、た、助けて、イリュネー様!」

 

 イリュネーは再び後ずさって尻餅を付いて倒れ、ぎょっと目を見開いた。

 

 周りで、怪我を負った兵らの身体から、彼らの身体を破り、千切って、黒い鳥が這い出してきていたのだ。

 悲鳴がこだまし、兵がうずくまり、倒れていく。

 ミシンは剣を抜いて構えたが、出てきた鳥は物凄い勢いで飛び去っていった。

 

「き、きみは……? イリュネー」

 ミシンは恐る恐るイリュネーに問うた。

 

「私は、私は――」

 

 彼女の左腕に包帯が巻かれているのを見た。

 

「い、いや。いやあああああ」

 

 すぐに彼女の腕が盛り上がりだし、黒い頭と翼が見え始める。

 ミシンは剣を抜いたままただ戸惑うが、その剣を、いつの間にかミシンの後ろに来ていたマホーウカが奪った。

 

 剣を掲げたマホーウカが、無言でイリュネーを見下ろす。

 

「いや、や、やめ、……」

 左手を抑え苦悶の表情のイリュネー。

 

 ミシンも、「マホーウカ、や、やめ……ろ」言いかけるが、マホーウカは真っ直ぐ剣を振り下ろした。

 

「ぎゃああ!!」

 

 ぼてっ、と落ちたイリュネーの腕で、さなぎから脱皮しかかって果てた虫のように、鳥は息絶えていた。

 

 イリュネーは声を押し殺し、荒げた息を吐いた。

 

 腕を失ったが、イリュネーはそれ以上は何ともならなかった。

 ミシンはイリュネーを抱え、腕を縛って止血を行うとすぐに彼女を立ち上がらせた。

 選択の余地はない、もうここを離れるしかないのだ。

 

 砦内部は鳥との乱戦になっていたが、兵達はその勢いに立ち向かうこともできずに続々外へと逃げ出していた。

 内部には多くの兵の死体が散乱している。

 鳥は、斬れば脆く、仕留めることはできた。

 が、数が多すぎたし、人を引き千切ってしまうその腕力は凄まじかった。

 

 ミシンらも何とか外へ出て、馬屋に達した。

 

 鳥は既に砦の外をぐるんぐるん回っており、まるで気が違っているようにも思えた。

 近くに兵がいると思いついたように攻撃してくる。

 それを避けて、馬に乗って砦を離れた。

 

 少し先にバッシガが兵をまとめて、待っていてくれた。

 

「わしがしんがりを務めようと思ったが」

 バッシガは冷静に言った。

「敵は恐らく先にも待ち受けているのじゃな……わしが率先して切り抜けよう」

 

 バッシガは自らが先頭に立ち、古参の兵らが続いた。

 馬を馳せる。

 速く、速く……向かう先の森から、わじゃわじゃと勢いよく沸き出てくる黒い鳥。

 

「若者らのために道を拓けよ。若者らは、わしらの屍をこえてでも、卿の元へ辿り着くのじゃぞお!」

 

 こちらを目がけて、鳥が来る。押し寄せてくる。

 バッシガ隊が、それとぶつかった。

 

「うおお」

 

 バッシガは突っ込み、蹴散らして駆け抜けていく。

 しかし沸きだす鳥はまるで無数のようだ。

 ミシンも覚悟を決めて剣を構える。

 覆いかぶさるように、鳥が来る。

 それから――光が。

 

 後方から、境界の夜を払いのけるほどの眩い光が輝き、近づいてきて、黒い鳥を一挙に薙ぎ払っていく。

 黒は、高速の光の中に流されるように消えていく。

 ミシンも、光に飲み込まれる。しかしそれは、温かい光だ。

 

「ヒュリカ!」

 

 光を連れて、ヒュリカが来る。

 間違いない。ヒュリカだ。

 輝く馬に乗ったヒュリカ。

 

「待たせたわね」

 

「一体これは……」

 

「切り抜けるわよ!」

 

 先頭に立ったヒュリカに続いて、光の道を、光の中を、皆は必死に走り抜けた。

 

 

(第I部 了)

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