1-03.
高級そうな傘を恐る恐るカウンターテーブルへ掛けたら「ドアのとこに傘立てあるよ」とアルバイトの女の子に言われた。傘立てを映画でしか見たことがなくて興味津々で振り返ると確かにスチール製の傘立てが十本ほどの傘を支えている。
――傘!?
白、赤、黄、緑、青、透明、平然と置いてあった。一本だけでもひどく珍しいのに十本ほどの束である。傘ではからだが濡れる。場所もとる。第二次魔法期に入ってもう三百年近くなるというのにこの非効率的なものを複数まとめて立てるために傘立てが平然と配置されている。
「君が持ってるの、たぶんうちのじゃない?」
女の子はエプロンの紐を結びつつカウンターからこっちへ身を乗りだした。
「ふももももっ、み、見えない」
「お店のですか」
「うんそう。うちってお客さんが使っていいように傘置いてるからさ。どっかに『珈琲店アナログアンブレラ』って書いてあったらうちのだよ。ふももっ。こっからじゃ見えないけど!」
女の子の背丈は平均的だがカウンターが高いのと物が無秩序に置いてあるために身を乗りだすのは難しそうだった。次の手段として跳ねた拍子に肘で珈琲カップを叩き落とし、店中に派手な音が響き渡る。ずいぶんおおきかったけれど横の冴えない男性も後ろの学生二人組も気にしていないようだ。
落ちる前に〈浮遊〉か〈停止〉、〈クッション〉等を書けばあんな音はしないし、そもそも傘を見たければ普通に〈移動〉で引き寄せて見ればいいだけだ。そうおもって、先ほど手首を握っていたマスターの笑顔がおもいだされた。
――このバイトさんは咄嗟に魔法を出さないあたりここでの仕事を長くやっているのかもしれない。当然のごとくマスターは陶器を〈修復〉せず捨ててしまった。女の子はマスターが背後の棚から珈琲豆を選んでいる隙にゴミ箱を覗いてうなだれる。
ユーザー辞書起動。〈修復〉は五分以内に壊れた物体について有効だ。壊れ方の構造が単純であれば壊れた痕跡を残さずに直せる。コードや詠唱によって数億種類あるが効力はさほど変わらない。魔力使用量は約十レヴ。
ユーザー辞書リンク。レヴ。魔力のこと。その単位。平均的な成人が一日あたり無理せず使えるのは八十~百二十レヴ。
もう五分以上経ったので直しようがない。とアルバイトの女の子から思考をはずし少女は手にした傘を改めてじっくり眺めることにした。
挽いたばかりの珈琲粉へお湯がしみこみしたたる香ばしさが店内にかかったピアノのバラッドとまざりあって漂う。
夕方の地下で、外は雨で、手には傘を持って、このあとには締切の無い用事があって、少々。こんなときくらい少々ゆっくりしていっても許される気がした。自分とは別世界に住む人たちが怒ったり笑ったりしている優しい空間で、最後にあたたかい一杯を飲むことが、泣きたいほど贅沢に感じた。
「アナログ、ア、ン、ブ、レ、ラ」
傘の持ち手は木目のゆるやかな木があしらわれている。合成木材か天然木材かは判別がつかない。骨組みはちょっとやそっとの風では折れそうにないふとさがあり、だから重たいのだと分かる。広げたポリエステルの内側、ふちに沿って控えめな文字があった。魔法陣のコードではない。読むための文字だ。
アナログアンブレラは珈琲店の名。
「なぁんだ……」
いっきに全身からちからが抜けた。
――部屋は片づけた。
入学辞退届を書いた。
端末で交わしている幾人かとの会話を完結させた。
趣味用のアカウントは整理、もしくは退会した。
自分の氏名で簡素な葬儀の手続きを済ませた。
そのための料金も振りこんだ。
関係者への迷惑料を用意した。
できる限りの責任は果たした。
ゆえに、こんな高級なものを借りっ放しにして飛び降りるわけにはいかなかった。
少女はハイヒールを軽く床に響かせ、カウンターチェアーからすべるようにおりる。ちいさな店内だ。彼女の歩幅でも数歩で端まで着ける。
樫のドアの右に長方形のスチールがあるのを近づいていってよく見る。白、赤、黄、緑、青、透明、其処に黒を追加する。平然と置いてある傘が十本ほど、セピア調で撮るのがちょうどピントのあいそうな小洒落た風景に溶けこむ。
片づけと入学辞退届とその他もろもろと借り物返却がこれにて完了した。
震える。うまく笑える自信がなくてカウンターへ戻れなかった。困ってふと左側を向くと壁の一面に床から天井まで
高いところの本も取れるようスライド式の薄っぺらいはしごが天井からかかっていて、それを左右に動かすと木の本棚と木のはしごが音を立てる。数千冊ありそうだ。ハードカバーの絵本や学術書や文庫の小説などもなんの法則にもとらわれない順番でずらりずらり並ぶ。
「ねえ君、珈琲できたけどっ?」
「ありがとうございます」
微笑んでチェアーに戻ると湯気のたつカップが置かれていた。幅広い苦味が楽しめる中深煎りの、オーソドックスなペーパードリップで、砂糖とミルクも添えてあったが少女はそのままがいっとう好きだった。両手でカップを包みこんでみる。あったかぁい……。豆を
「あ美味しい……」
「ったりめえよ」
豪快に笑ったマスターが少女の前へ両腕で頬杖をついて座った。カウンター内にも椅子があるのだろう。
「……うまそうに飲む奴だなあ!」
「至福です」
この深さがほんとうの珈琲だった。
「こんなに美味しい非魔法珈琲は初めて飲みました。第一次魔法期以前の珈琲へ近づけるために魔法で加工した品は、お金を出せばいくらでも手に入りますが、ほんものにはやはり劣りますね。単独店の魔法抽出士たちが躍起になって魔法をかければかけるほど、不自然な人工物になるからです。でも非魔法珈琲は、苦味が刺々しくない。酸味はほぼ感じられないくらいやわらかくて、けれどしっかり存在してる。数多の要素が絶妙な均衡で溶けあい、複雑なのにさらりとまとまってます。香りは、砂糖を入れてないのにほのかに甘い。この香りも抽出士たちご自慢の〈フレーバー〉とは別物です。店内で魔法を使わないのはそのためですか? お店が地下にあるのも」
マスターが頷いた。
「まーな。あんた分かってんじゃねえか。そういう奴はいい。今日の客ときたら、珈琲の味なんざ分かりそうもねえ乳臭いガキ共とまともに注文すらしやがらねえ憎たらしい若造だけだったんだぜ」
「ちょっナモ! お客さまになんてこと言うの!」
もったいなくてもう一口慎重に飲む。少女は高級珈琲と名のつくものはあらかた試し済みだった。魔法で香味をコントロールしたものから魔法無使用を謳ったものまで金額問わず片っ端から飲み比べてきた。そして得たのは、安いものは不味いが高いものが美味しいとは限らないという予想通りの答えだ。
ほんとうのものは画面越しには見つからない、数字では判らない、現代、と名づけられたこの時間が、いくら機械化されようと魔法化されようとそうだった。
などと考えていて、
「あんたどうやってうちに来たんだ?」
問われて思考を中断した。
「はい? 歩いてですけど」
「看板も出してねえのにか?」
いや出せよ。
地図を起動してみるが何度見ようとも無骨なビルの群れに珈琲店の表示は無かった。不親切だしやる気の無い店だ。
傘は返却できてこれ以上別に気にする必要もなかったけど気になってなんとなく階段で会った美しい青年について話してみた。変な人に傘を押しつけられて慌てて階段を降りてきたのに、その人が店の、何処にも、いない、のだ……、と簡単な説明を終える頃にはマスターが渋い表情をしている。
「それって、一度見たらぜってえ忘れなさそうなべっぴんさんか?」
「え? はい」
「杖ついて」
「はい」
「話し方に愛想の欠片もねえ?」
「えっと、あの、はい」
「やたらと目立つ」
「そうですね」
「そんで皮肉っぽい?」
「あの、お知りあいですか?」
「はあああ」
盛大な溜め息をついてマスターがカウンターテーブルをノックする調子で叩いた。
「黙ってないでなんか言ったらどうだ、クォル。お前さんが人を連れてくるたあ珍しいじゃねえか」
少女はアナログアンブレラを見まわす。
樫のドアを出入りした人はいない。〈瞬間移動〉や〈透明人間〉などの魔法の気配も無い。気配を感じさせないほど高度な魔法を店内で書くことはおそらくこのマスターが許さないはずだ。手首を握ったときのマスターの冷たい目をおもいだす。
人間は自分含めて六名だった。後方奥のテーブル席でノートを開いてなにやら話しこむ男子学生が二名、自分の左側の席で読書するスーツ姿の冴えない男性、前のカウンターのおじさまと、アルバイトの女の子と、自分。人以外は一匹、カウンターの水槽にリクガメ。
少女はリクガメをじっと見つめた。カメのおおきさと比べると結構広めの水槽のなかを、のそ……、のそ……、緩慢に歩き、首を甲羅に引っこめてから、またにゅうっ、伸ばし、草だか野菜だか判らないものにぬぬぬと顔を近づけ、草を、
「おいおいおいクォル。俺はお前さんに話しかけているんだがなあ?」
ぱく。美味しそうに食べ始めた。清々しいまでの無視っぷりである。と。
「もしも私を探しているつもりなら左側だ。年齢と性別で該当しそうな人間は他にいない」
低く平板な声が左から聞こえた。探されていることなど実にどうでもよさそうで、スーツ姿の冴えない男性は、いっそ気味が悪いと言っても過言じゃないその美しい顔を、紙版本からあげもしない。白銀の髪が黒いスーツの腰までかかり、長いまつ毛を文字のほうへ伏せ、ただそこにいるだけでやたらと目立つ――
暴力的なほど美貌の青年が――
カウンター席で紙の本を読んでいた。
「おいおいおいおいクォルよお、俺はお前さんに話しかけているんだがあああ?」
不穏な笑顔で袖をまくりだしたマスターの、切創の刻まれた腕が、ぼきぼき指を鳴らす。首をまわしごきき小気味いい音を立てつつ肩もまわす。ひらり驚くほど身軽にカウンターを飛び越え、蝶ネクタイをはずしテーブルへ置き。
「……相も変わらず気が長いことだな、マスター。こんなに感じのいい人間も珍しい」
青年が淡々と述べた。
いや、そんなことより少女には訊きたいことがあった。
「すみません。失礼ですが、あなたはいつからそちらの席にいらっしゃいましたか?」
「最初からだ」
確かにその通りなのだ。
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