第30話 蛇の道は凪


 法話を終え、僧侶が退席する。


 ちょっとした体育館ほどの広さがある斎場さいじょうのため、姿が見えなくなるまでしばらく時間がかかる。

 その間ずっと、弔問客のすすり泣く声が聞こえていた。

 

 司会に促され、俺はマイクの前に立った。

 百人、いや、もしかするとそれ以上の人々の視線を浴びる。

 皆、黒い喪服姿。


「本日はお足元の悪い中、――――」


 喪主挨拶を始める。











 ここ数週間、この辺りでは呪われたような豪雨が続いていた。

 場所によっては冠水と浸水でかなりの被害が出たらしい。

 実家も雨漏りがひどかったらしく、母親から長文の愚痴メールが飛んできていた。


 新茶市も開催が危ぶまれていたが、当日になると見事に晴れた。


 だがそれは一時のことだった。

 茶市が終わった夜、再び豪雨がこの辺りの土地を襲った。

 雨を司る神が怒り狂っているのではないかと語られる程の、叩き付けるような雨だったらしい。

 俺はこの世にいなかったので、詳細は分からない。


 実家は田舎の一軒家だ。

 妹からの着信記録を見た俺は、雨漏りが酷くなったのだろうと考えながら折り返しの電話を入れた。




 土砂崩れだった。




 山裾が崩れ、幾つかの住宅が土砂に飲み込まれた。

 死者は七名。

 その内三人が、俺の家族だった。


 唯一無事だった妹は狂ったように俺に電話を入れ、メッセージを飛ばし続けていた。

 だが七夜の死闘のただ中にあった俺とコンタクトを取ることはできなかった。

 その間に、三人は息を引き取った。


 祖母と、父と、母。

 俺は家族をいっぺんに失った。


「――――、――――」


 親族と話し合った結果、通夜と葬儀は三人同時に行うことになった。

 俺は知らなかったが、人や場所の都合さえつけば一度に二人以上の通夜や葬式を執り行うこともできるらしい。


 手続きはすべて俺がやった。

 母に似て感情的な妹は赤ん坊のように泣き続け、大人らしいことができる状態ではなかった。


「――、――――、――――」


 俺の方は、ほとんど何も感じなかった。

 両親が死んだと告げられても、遺体を目の当たりにしても、泣き崩れる親戚の姿を見ても。

 強いて言うなら、感じていたのは虚無だった。


 頭も心も、現実に追いついていなかった。

 実際、俺は土砂に埋もれた家やサイレンの鳴り響く赤い夜空を見ておらず、悲鳴の混じる雨音も聞いてはいない。

 両親と祖母の臨終の瞬間にも立ち会えなかった。

 俺がその姿を見た時、すでに三人はマネキンのように硬くなっていた。


 両親と話をするつもりだった。

 父と喧嘩をして、母に文句を言って、淀んだ過去に決着をつけるつもりだった。

 その想いを頼りに、糸を手繰り寄せるようにしてあの七夜を乗り越えた。 


 もうそれは叶わない。


「……」


 挨拶を終えた俺が一礼すると、再びあちこちで嗚咽おえつが漏れた。

 涙を流さず、表情すら変えない俺は気丈な息子に映っているのだろうか。

 それともこの静かな動揺を悟り、誰もが憐れんでくれているのだろうか。


 斎場は不必要に明るく、光が目に染みるようだった。






 人数が多すぎるため、一斉に通夜振る舞いをするわけには行かなかった。

 俺は対応を妹と親族に任せ、斎場に残った。


 三人分の棺の傍に、三人の遺影。

 父も、母も、祖母も、柔らかい笑みを浮かべていた。


「……」


 通知音。

 ニュース速報だ。


 日本人メジャーリーガーの初登板。

 パンダの子どもが立ち上がった。

 女子アナウンサーが女優に初挑戦。


 様々な速報に混じり、例の殺人鬼の自殺が報じられていた。

 日本のどこかの田舎で起きた、土砂崩れのことも。

 俺はスマートフォンを胸ポケットの奥に突っ込んだ。


 視界の隅では喪服姿の弔問客が棺に納められた父や母の顔を見つめている。

 三人の顔は蝋製の作り物のようにやせ細っていた。

 

 父の職場のパート社員が棺の前で泣き崩れている。

 その後ろでは小太りの男や灰色の髪の銀行員、老いた経営者が手で目元を覆っている。


 母の棺には学生時代の友人と思しき同世代の女性たちが集まっていた。

 皆、泣いている。

 泣きながら笑い、棺で眠る母に語り掛けている。


 俺があれほど軽蔑してきた父母は、こんなにも愛されていた。

 そのことを想うと哀しみよりも罪悪感で目頭が熱くなる。

 俺はこの人たちの百分の一ほども両親を大切にして来なかった。


(……)


 最も多くの人々が集まっているのは祖母の棺だった。

 単に長く生きているせいではない。

 制服姿の高校生もいれば、祖母より年上の老婦人もいる。

 父母と同年齢の男女や、政治家と思しき男性まで。


 茶道か華道繋がりの人々だろう。

 祖母は昔から顔が広かった。


 吸い寄せられるようにして彼らに近づく。

 慎ましやかな話し声が聞こえた。




「――。――ですね。ええ。『   』ちゃんは白いお花が好きだったから……」




 一瞬、自分の耳を疑った。

 人の輪に近づくと、その場の全員が俺にお辞儀をする。


「あの」


 集団の先頭に立つ老婦人が俺を見上げた。

 背は低く、祖母よりずっと弱々しく見える。


「『   』というのは……」


 ああ、と婦人は品の良い笑みを浮かべる。


「私はおばあ様と同じ学校に通っていましてね。その頃の呼び名ですよ。ニックネームと言うのかしら?」


「呼び名……? ですが祖母は――」


 いつだったか、ロッコにも似たような話をした気がする。

 いや、直接口にはしなかったか。

 創作ノートを茶化すついでに、俺が心の中で独り言ちただけだ。


 俺の祖母の名は、弥生やよいだ。

 三月生まれだから、弥生。


「ええ。おばあ様の名前は三月生まれの弥生ですね。でも三月の呼び名は弥生だけではないでしょう?」


「?」


「三月は夢見月ゆめみづきとも呼ぶの」


「――――」


「おばあ様はその呼び方が大好きでね。自分のことはこう呼んでって」


 老婦人はくすりと微笑んだ。

 俺は震える唇を開く。




「ユメミ……」




 しばらく、俺は言葉を発せなかった。

 棺に納められた祖母の顔を見る。


 老い、死に化粧を施された顔。

 目を閉じたその顔に、見覚えがあるような気がした。


「私とユメミちゃんは同じ高校でね」


 聞いてもいないというのに、老婦人が語り始める。

 俺以外の聞き手たちが息遣いで続きを促した。


「ほら、新茶市があったでしょう? あそこで毎年お茶を点てている商業高校があるでしょう。とても歴史が古くて、80年以上前からある学校ね」


「――――」


「私とユメミちゃんは被服科だったの。今はもう無いのだけどね。――、――――」


 俺は後ずさるようにして人の輪から離れた。

 頭の中では過去の映像と音がぐちゃぐちゃに絡まり合い、めまいを催すほどだった。


 と、一人の男が斎場に駆け込むのが見えた。




「シュウ!!!」


 


 背の高い、日に焼けた男だった。

 土木建築系の仕事をしているのだろうと、ひと目で分かった。


「シュウ! シュウ!!! シュウ!!」


 オーバーリアクション気味の男はそう叫びながら、物言わぬ父へと駆け寄った。

 そして棺に追い縋り、身も世もなく泣き出した。


 俺は懐に収めていたカンニングペーパーを取り出した。

 そこには父の名が記されている。


 父の名は「鎌ヶ瀬かまがせ 羽白はじろ」。



 羽

 白



 しゅう



(――――!)


 今来た男は父の同窓生らしい。

 先に来ていた弔問客の何人かが、泣きながら彼を慰めている。

 父にも、俺の知らない呼び名があったようだ。

 男たちの口からは、シュウ、シュウ、という言葉がこぼれ落ちている。


 母の棺に目を向ける。

 同窓生とも職場の仲間ともつかない女性たちが大勢泣いている。


 皆、口々に母の名を呼んでいる。

 ツヅネちゃん、ツヅネちゃん、と。


 母の名は「鎌ヶ瀬かまがせ 鼓音つづね」だ。

 結婚する前の苗字は――


観六みろく……)


 母は「観六みろく 鼓音つづね


 

 観六 鼓音



 六鼓ろっこ。 






 俺はその場に立ち尽くしていた。


 人の声は聞こえない。

 ふわふわ、ぽわぽわと。

 ポンプの稼働するアクアリウムの中にでもいるように、音が曖昧だ。


 灯籠廻船に乗って間もなく、ユメミはロッコとシュウに本名を名乗らないよう口止めした。

 本人たちをどう言い含めたのかは知らないが、俺には「家を特定されたくないからだ」と説明した。

 その理由が今なら分かる。

 

 ユメミは俺より先にロッコやシュウと出逢っていた。

 そこでシュウの本名を聞いてしまったのだろう。

 彼女と同じ、「鎌ヶ瀬」という珍しい苗字を。

 もしかするとこの時点でユメミは記憶を取り戻したのかも知れない。


 そしてマムシとの戦闘中、密かにシュウの所持品を処分した。

 処分されたのはシュウの教科書と、金槌かなづち


 教科書にはもしかすると歴史に関する記述があったのかもしれない。

 俺の時代から見て数十年前で更新の途絶えた歴史の記述が。

 金槌の方にはシュウの名前が記されていたのだろう。


 ユメミはどちらも俺に見せたくなかったのだ。

 なぜなら、俺も「鎌ヶ瀬」と名乗っていたから。

 記憶を取り戻していたのなら当然知っているだろうし、取り戻していなかったとしても、聡明な彼女なら持ち物や言動で俺たちの関係性を察することができただろう。


 死者を運ぶ船に、自分と、自分の子と、自分の孫が乗っている。

 死者の年齢は外見と一致しない。

 なら、この状況は一体どういうことか。


 ユメミはすべてを理解し、俺にすべてを隠すことにした。

 打ち明ければ俺は動揺し、混乱する。

 そんな状態でヤツマタ様と戦えば命を落とす。


 なら、いっそ知らない方がいい。

 父と母と祖母が死に瀕していることなど。


(――――)


 シュウとロッコが記憶を取り戻した後も、その態度は変わらなかった。

 ユメミは自分たちの状況について口を噤み、二人もそれに倣った。


 そして、命を落とした。

 俺に素性を語ることなく、三人は彼岸へ渡った。


「……」


 俺は崩れ落ちるようにして、席の一つに腰かけた。

 どっと、疲労に似た納得感が肩にのしかかる。


「そっか……」


 ユメミと、ロッコと、シュウの顔が脳裏に蘇る。

 力なく弱々しい少年少女の顔ではない。

 最後の夜に見せた、力強く凛々しい三人の顔。


「ずっと一緒にいたんだな……」


 土砂崩れに巻き込まれた父と母と祖母は、救助された後、長時間昏睡状態に陥っていたと聞いている。

 その間、三人はずっと俺と一緒にいた。

 あの船の上で、俺と共に戦ってくれていた。

 俺がショックを受けないよう、自分たちの素性を隠しながら。

 俺を元の世界へ戻すため、死力を尽くして戦ってくれていた。


(言ってくれよ……)


 やるせない感謝の念が、いびつな笑みとなって俺の顔に浮かぶ。

 虚ろな胸の中を、暖かいものが満たしていく。


(言ってくれれば、俺だって何か言えただろうが……)


 主様の謎。

 ヤツマタ様との死闘。

 あの時の俺はいっぱいいっぱいだった。

 ユメミが祖母で、シュウが父で、ロッコが母。

 しかも現実世界では昏睡状態にある。

 そんな話をされれば、間違いなくパニックに陥っただろう。


 だが――――だが、ひと言ぐらいあっても良かったのではないか。

 自分たちの素性を匂わせるようなひと言ぐらい。


(婆ちゃんがキツめに釘刺してたんだろうな……)


 俺は遺影を見つめ、深く頭を下げた。


 受けた衝撃は小さくなかったが、大きくもなかった。

 このタイミングで気づけたのは俺にとって幸いだった。

 祖母はこうなることまで見越して素性を黙っていたのだろうか。

 だとしたら人殺し扱いしたことを死ぬまで謝らなければならないだろう。


「……」


 深い感謝の念に続いて湧き上がったのは、共感と後悔だった。


 シュウは――父は、父親の傲慢さに苦しめられていた。

 その当事者――つまり祖父は、既に他界している。

 父と祖父の間にそういった問題があるなんて、俺は知らなかった。


 父だけではない。


 ロッコ――母が、その母の意向と夢の間で苦しんでいたなんて、初耳だった。

 聞くこともできない。

 母方の祖母もとうの昔に亡くなっている。

 

 俺は自分の人生だけで手いっぱいだった。

 父と母が一人の人間としてどんな人生を送って来たか、どんな苦しみと対峙し、乗り越えて来たかなど知らなかった。

 いや、知ろうともしなかった。


 二人も、俺と同じように苦しんでいた。

 不完全な親を不完全なまま愛することができずにいた。

 そしてそのまま親になった。


 何もかも、俺と同じだった。


(――――)


 俺は相手が親とは知らず、偉そうに説教を垂れてしまった。

 ロッコとシュウの悩みを聞き、安いアドバイスまで送ってしまった。


 記憶を取り戻した二人はどう思っただろう。

 息子の未熟な見識を心の中で笑っていたのだろうか。

 それとも、少しぐらいは息子の成長を感じてくれていただろうか。


 生前の父と母がそれぞれの親と無事対話できたのかどうかは分からない。

 もしかすると俺と同じように胸に秘めたままだったのかもしれない。

 

 ただ、あの場で俺に想いを吐露してくれたことは事実だ。

 それで何かが解消されるわけではないが、誰かの理解を得られることは悩める者にとって救いになる。

 あの時、あの船の上で、幼い頃の父と母が抱えていた苦しみは少しは軽くなったのではないだろうか。


 結果的に死に別れる形となってしまったが。

 胸のうちに淀んでいたものを俺に吐き出し、二人は救われた気分で――――





 ――




 ――――




 違う。


 最後に二人が残した言葉は、「ごめんなさい」だった。




「ぁ――――」


 心臓がきゅっと縮むような感覚に陥る。


 今際いまわきわ、シュウとロッコの口は「ぁ」や「ぇ」の形に動いていた。

 もしかすると、「ありがとう」と言いたかったのではないか。

 だが、言えなかった。


 最後に二人は「ごめんなさい」と言った。

 なぜなら――――



 なぜなら、俺はシュウにすべてを話したからだ。

 

 いかに自分の父親が傲慢か。

 いかに古臭く、時代遅れか。

 いかに家族の愛に甘えているか。


 ――俺の時間はお前のものじゃない。

 ――俺はお前を喜ばせるために生きてるわけじゃない。

 ――家族の時間を消費しておきながら詫びも感謝もしないヤツのことは、もう手伝わない。


 ――「今日……ってか、昨日か? 帰ったら、親父がますます古くなっててさ」

 ――「頼んでもねえ人生訓垂れるわ、聞いてもねえ近況語り出すわ、何歳までにあれやってないとダメとか言い出すわ……」


 ――俺に「正しい道」を教えてくれた父は、凡夫だった。

 ――いや、それ以下だ。


 ――なぜこんなヤツが親なのか。

 ――なぜこんなヤツの言うことを真に受けていたのか。

 ――俺はこんなヤツへの意趣返しのために就職の機会をふいにしたのか。

 ――俺はこんなヤツのせいでこんな苦しい目に遭っているのか。


 ――俺は自分で自分を恨めしく思った。

 ――そして恥ずかしく思った。

 ――肉の下を走る血管に父と同じ血が流れていることを呪った。


 ――「まー……何だろうな。『父親』ってダメだよな」

 ――「偉そうなこと言うくせにちょこちょこ卑怯でさ」

 ――「自分だけはいつでもどこでも怒鳴り散らせると思ってるし――」

 ――「しかも世の中を舐めてる。大した稼ぎもないくせに」




 なぜなら、俺はロッコにすべてを話したからだ。

 

 いかに自分の母親が卑屈か。

 いかに視野狭窄で、短気か。

 いかに息子の人生に依存した俗物であるか。


 ――「俺の親は夢を持て夢を持て、ってうるさかった」

 ――母は常々俺に「夢を持つこと」を強いた。

 ――自分が思うように生きられなかったので、俺には不自由してほしくないと考えているようだった。

 ――息子を通じての自己実現とでも言うのか。


 ――自己中心的な父への愚痴、皮肉、嫌味が母の口からとめどなく溢れ出し、毒汁となって俺の耳に注がれた。

 ――お前は父と似ているから云々。社会がこうだから云々。

 ――俺は「良い子」だったのでただ黙ってそれを聞いていた。

 ――母はすっきりした気分で親子の会話を終え、当の俺は徐々に母を疎んじるようになった。


 ――俺にとって「夢」は母と母の罵詈雑言を連想させる呪いの言葉となっていた。


 ――そこに俺という個人に対する理解は感じられなかった。

 ――「私は『息子の夢を叶えさせた母』になれた」という強い自己肯定感だけがあるように感じられた。

 ――その頃にはもう、俺は両親に冷え切った感情しか抱いていなかった。




 俺は二人に、自分の胸の内を洗いざらいぶちまけた。

 異常な環境に置かれた不安と緊張を和らげるためか、心に秘めていたありとあらゆる不平不満を一方的に吐き出した。

 そしてそのまま死に別れた。


 ロッコとシュウ――父と母は、俺の吐いた毒を浴び、そのまま彼岸へ渡ってしまったのだ。

 俺と和解することも喧嘩することもできないまま。


 取り返しのつかないことをしてしまった後悔が、熱と寒気を伴って全身を震わせる。


「――――ッ!!」


 俺は俺をペットのように扱う両親を疎んじていた。

 聖人でもないくせに「正しい道」を無理やり歩まされたことを恨んでいた。

 だから、意趣返しをしたかった。

 幸せな家庭を築いて、立派な親になって、お前らとは違うと言ってやりたかった。


 だが、それだけだ。

 八つ裂きにしてやりたかったわけでも、不幸のどん底に叩き落としてやりたかったわけでもなかった。

 まして人生の終わりに、俺に詫びてほしいわけではなかった。


 死を悟り、人生の最後に息子に送る言葉が「ごめんなさい」。


 違うだろう。

 そうではないだろう。

 人生の最後に残したい言葉は、「ありがとう」ではないのか。


 俺はこの世を去る両親に、謝らせてしまった。

 俺は両親に一方的な悪意をぶつけたまま別れてしまった。


 俺は――


 俺は最低の子どもだ。




「は、はは……」




 なぜか、笑いがこぼれた。

 咳き込むような、乾いた笑いだった。


「何でだよ」


 恨みではなく、哀願するような言葉が漏れた。

 ほぼ同時に、俺の中で何かが切れた。


「何で言わないんだよ……! 言ってくれたら、最後に話せただろうが!!」


 水風船が割れるように大量の涙があふれた。

 次から次から流れ、頬を流れ落ちた。


「違うんだよ……! ごめんなさいとか、そんなこと言わせたかったわけじゃないんだよ!!」


 弔問客が集まって来た。

 何人かが俺の背中を撫で、慰めの言葉をかけた。


「ごめんなさいじゃないだろ!! あんた達は、何も悪いことなんてしてなかっただろ……!」


 差し伸べられる手を払い、俺はただ首を振った。


「悪いのは俺だろ……! 俺が逃げて、ちゃんと話をしなかったから関係がぐちゃぐちゃになって……!!」


 豪雨で溢れ出す川のように涙が溢れた。

 ぼたぼたと涙が落ち、分厚い絨毯に染みる。 


「謝るなよ……! ちゃんと育ててくれただろうが……! 俺を……!」


 俺は席から崩れ落ち、縋りつくようにして絨毯の上で身を丸めた。

 後から後から、涙がこぼれた。


「ごめんな……親父……お袋……!!」


 床に崩れた俺は哀願するように顔を上げる。

 鼻をすすり、顔を上げる。

 そこにあるのは柔らかい色彩の葬花と、三つの遺影だけだった。


「ありがとう……!」 


 俺は生まれて初めて、心からそう吠えた。

 遅すぎる言葉は父母の耳に届くことはなく、焼香の煙をわずかに揺らしただけだった。

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