懐かしい歌(前編)
今日も今日とて旅暮らし。
住所不定・無職の青年――自称旅人の飛鳥井秋人は、薄暗い宵の道を歩いていた。
周囲に、人はおろか電気の光すらない。秋の夜長を思わせる虫の鳴き声がそこかしこから聞こえてくるばかりだ。
「~、~」
秋人の横でふよふよ浮いている女性――幽霊ではなく、一応八百万の一柱である――が鼻歌を奏でている。どこかで聞いたことのあるような、懐かしい音だ。
「夏名さん、その歌は?」
「これはですね~、私の故郷にあった童謡なんです。弟とかによく歌ってあげてたんですよ」
「へえ。何か、どこかで聴いたことあるような感じがするな」
「軽妙でありながら、どこか寂しい印象の歌だな」
と、ここで秋人の鞄から、ナナシが現れて口を開く。
「……あれ、誰だっけ君」
「おい」
あんまりな秋人の言葉に、ナナシが間髪入れず突っ込む。
「いや、最近影薄いじゃん、ナナシ」
「じゃん、ではない。失礼な奴め」
「近頃は電子ブックが流行っているらしいね。ナナシの出番もそろそろ終わりかな」
「何だと……!? まさか新キャラでテコ入れするつもりか! 電子ブックの魔道書など、雰囲気ブレイカ―にも程があるぞ!」
「元々魔道書が喋ってるって時点で無茶苦茶だと気付きなよ。ねえ夏名さん」
「まあ、最初はちょっと引きましたけど」
「引いたのか!」
「だって本が意志持ってるなんて普通じゃないですよ。不可思議・摩訶不思議・普通じゃありません」
割と辛らつな意見を吐く夏名。一緒に旅を始めて結構経つからか、彼女も遠慮がなくなってきている。
「普通じゃないというならお前だって普通じゃないだろ」
「神なんて普通ですよ。探せばこの辺りにも一柱か二柱いるんじゃないですか?」
「そうそう。まあでも神が神として顕在するのは大抵意味があるから、特に理由もなく僕らと一緒にふらふらしてる夏名さんは、ちょっと普通ではないと思うけどね」
さらっと毒を吐く秋人。もっとも、常日頃からこんな言動なので、互いにいちいち腹を立てたりはしない。
「――しかし、童謡か」
どこか感慨深げにナナシが呟く。
「……どうかしたんですか、ナナシさん」
「少し昔を思い出していたのだ。たまたま――夏名の歌があれに似ていたのでな」
時は江戸時代後期。
ナナシはその頃、何度目かの来日を果たしていた。
……今度の滞在は長くなりそうだ。
これまでは日本を訪れた諸外国の人間がマスターだった。しかし今回は違う。『出島』とか呼ばれる場所を経て、日本国内に売り払われる形での来日となったからだ。
書店に置かれたナナシに対してアプローチをかけてきたのは、人間でもなく、モンスターでもない、一風変わった連中だった。
所謂『妖怪』たちである。
「変な奴が来た、変な奴が来た」
そう言って、天井から顔を覗かせる家鳴り、往路で寝転がっている猫又たちなどが囃したてる。悪意はないようだが、とにかくこの連中は騒がしかった。普通の人間には見えていないし聞こえていないのだが、ナナシには見えてもいるし聞こえてもいるから、最初は大いに戸惑った。
人々の幻想によって顕在しているという点で、ナナシの知識にある『幻想種』のようだった。もっとも幻想種というのは大雑把な括りで、文化によって実に様々な特徴・名前を持つ者たちに分類されている。
妖怪は戒めであり、説明であり、そして何より――娯楽だった。
恐ろしげな風貌をしているが、何が何だか分からないモノというわけではない。人間を驚かせたり、不気味なことをしたりする一方で、人間に退治されたり、人間を面白おかしくおちょくったりする存在でもある。
……見た目モンスターで中身はフェアリー。ドワーフやホビットにも似ている、か?
妖怪たちに馴染みのないナナシは、しばらく自分の知っている存在に置き換えて彼らのことを理解しようとしたが、そのうち無駄だと思い諦めた。他の言葉で説明してしまったら、それはもう妖怪とは言えまい。
ちなみにこの頃、ナナシは日本語をほとんど話せなかった。日本語圏で活動をしたことがほとんどなかったからだ。オランダ商人と日本人のやり取りをこっそり聞いて、いくつか言葉を覚えたにすぎない。
だから、妖怪たちがあれこれ話しかけてきても応えられなかった。
「やれやれ、まだ蘭書様は口が利けないのかい」
艶っぽい猫又のお銀が溜息をつく。
「蘭書様はこの国の言葉を知らぬのだろう」
したり顔で話しているのは、古びた和書から生じた付喪神である。ナナシが売られてきた書店の顔役を自負しているが、そもそも妖怪たちは人の言うことなどろくに聞かない輩が多いので、自称・顔役と言った方が正確だろう。
ちなみに、ナナシに蘭書様というあだ名をつけたのもこの付喪神だった。
「誰か教えてあげればいいじゃないのかぇ。付喪神の爺様、あんたどうなのよ」
「残念ながら無理じゃ。なぜならわしの元になっている書には、蘭語のことなど書いておらぬからな」
「でも爺様、あんた蘭書様を見て『これは蘭書様じゃ』と断言したじゃないか」
「それはそうじゃ。和漢いずれにも属さぬ奇体な字句。これ、蘭語で書かれたもの――蘭書様であるとしか考えられぬわい」
「難儀だねぇ、それじゃ。大陸渡りの連中も蘭語について知ってる奴なんていないだろうしねぇ」
こんな妖怪たちの言葉も、ナナシはほとんど理解していない。なんとなく『ランショサマ』というのが自分のことなのか、と推測している程度である。
そのとき、書店の奥の方から、小さな子供の歌声が聞こえてきた。
「おやまあ、今日もおりんは歌ってるねえ」
「歌うことしかできん子じゃ。あの子も不憫なものじゃのう」
「歌妖怪みたいなもんだよねえ」
ナナシは、妖怪たちの言っていることを理解しているわけではない。
ただ、聞こえてくるその童謡の響きが、何か悲しげに思えただけである。
ナナシは意志を持つ稀有な魔道書である。魔力を使えば自由自在に動き回ることも可能だ。
もっとも、それはマスターとなる者がいてこその話である。ナナシは魔力を自ら生産することができないので、マスターから絶えず魔力供給を受けなければ、ほとんど行動できなくなる。
喋れなくなるし、意志も途絶える。人間が眠っているのと同じ状態になるのだ。
このときのナナシは、売り払われたことからも分かるように、マスター不在の状態だった。一年前に前マスターが急死し、その遺品整理から流れに流れ、極東に辿り着いたという次第である。
節約していれば何年かは意志を維持することもできるのだが、動き回ったりするのは難しかった。
だからナナシは――いつもその歌を聞いているだけだった。
歌っている子供については、何も分からないままだ。
ただ、寂しげな歌だけが聞こえてくる。
相変わらず妖怪たちはがやがやと騒がしい。幸か不幸か、書店自体はあまり繁盛していないため、人間の喧騒までは入り込んでこなかった。
ナナシの日常にはもう一つの側面があった。ここの書店の主との睨めっこである。
実際はナナシに睨む目がないので、一方的に睨まれているだけの格好ではあるのだが。
……どうも私のことを読み解こうとしているようだが。
実際のところ、ナナシの本体である書物には、ろくな内容が書かれていない。ナナシは意志を持ち、記憶し、語りかけることで情報を伝える魔道書だからだ。
ナナシの本体である書物に書かれているのは、歴代マスターが空白部分を暇つぶしに埋めようと書いた戯言ばかりだ。
気の毒なことに、この書店の主は書かれている内容が理解できていないらしい。それでも食い入るように、毎日ナナシのことを睨みつけているのである。
何か、切実な様子だった。
そんな折、別の男が現れた。もう老人と言っていい年の男だ。
その男は、いつも書店の主がしているようにナナシを開いた。そして、ナナシにとって慣れ親しんだ言葉を、一つ一つ噛み締めるような慎重さで読み上げたのである。
「この本は……」
老人はナナシの中身を読み上げて、難しい顔をしてみせた。
「ご店主。この本、少し預かってもよろしいだろうか」
「ええ。先生のお役にたてるなら喜んで。……ですが、何か良い方法が見つかりましたときは」
「分かっています。おりんちゃんの病を治す方法が分かれば――すぐにでも」
そんなやり取りにナナシは気付かない。老人の懐にしまいこまれたとき、自分が買われたのか、と気付いただけだ。
歌が聞けなくなる。それがほんの僅かな心残りだった。
中川と、老人はそう名乗った。さる藩の蘭方医だという。
そう。老人はナナシに向かって、語りかけてきたのである。
『君のことは、前に読んだ蘭書で目にしていたんだ。単なる巷説の一種かと思ったけど、不思議と頭から離れなくてね』
もっとも、すぐにナナシの正体を看破したわけではない。もしかしたらと思い話しかけたところ、反応があったので当たりだと断ずるに至ったのである。
『見事にしてやられたな。しかし中川、ハンとは何だ。ランポウイとはなんだ』
『ああ、すまない。君はこちらの文化をよく知らないのだね。……ううむ、一つ一つ説明しなければ駄目か』
『……いや。それはあとでいい。それより、一つ聞きたいことがある』
ナナシは、あの書店のことが気にかかっていた。あの歌のことが頭から離れない。
それを聞くと、中川は静かに頷いた。
『私もそれを君に説明しようと思っていたんだ。君はなぜあの書店に流れ着いたか分かるかい』
『さっぱりだ』
『あのご店主はね。君のことを医学書だと思い込み、藁にもすがる思いで大枚はたいて手に入れたんだよ』
『タイマイ?』
『要するに苦労して手に入れたということさ』
成程と、ナナシはそこで事情を察した。医学書を必死になって買う。考えられる理由は、そう多くない。
『しかし読めないのに買ったのか』
『買った後、すぐ読める人間を探し始めたと言っているよ。漢方では、おりんちゃんはどうにもならないらしいからね』
『オリン?』
『名前さ。あの店でときどき童謡を歌っている子の。生まれつき身体が弱くてね。何年か前に歩けなくなったらしい』
『フム。ではあの店主は、オリンを救う手段として私を必要としていた。しかし私を使いこなすことができなかった。そこで使える人物を探して――選ばれたのがそなたということか』
『まあ、そうなる。まさか喋る蘭書とは思わなかったがね』
『……それでどうだ。私とそなたは、そのオリンを救えるのか』
『まだなんとも言えない。君を彼女に引き合わせてみないと。……正直、私にはどうしようもなくてね。あの子の病については、正確な説明ができない』
ナナシは一般的な医学書とは違う。聞かれたことに応える書物だ。それはつまり、聞く側と応える側の両方が、ある程度知りたいことについて知っていないと、正確な情報を引き出せない、ということでもある。
『ま、明日にでもまた店を訪れよう。その前にやっておいた方がいいこともある』
『何だ?』
ナナシが尋ねると、中川は大真面目な顔つきでこう言った。
『君に我が国の言葉を教えなければならぬ』
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