ある家族の話―八月一日(II)~八月二日(II)―

 ――――――――/契約の時間


 家族ってなんだろう。

 血筋が繋がっている者同士の共同体?

 否、それだけが家族じゃない。

 助け合い支えあっていく関係?

 否、そうするのは家族同士とは限らない。

 一つ屋根の下に暮らす間柄?

 否、そんなわけない。

 それなら何か。

 家族とはなんなのか。

「君はなんだと思う、水渡ちゃん」

 月光によって神秘的に照らし出される地。

 そこに、さすらいのマジシャン――――飛鳥井さんがいた。

 彼はどこか神がかった存在感を示しながら、私の前で軽やかに語る。

「僕にはもう久しく持ってないからよく分からない。だからこの問題に解答を出すのは君だ。なぜならこの物語の主人公は水渡ちゃん、君なんだからね」

「……私、が?」

「そう。僕はその問題を提示し、ほんの少しの手伝いをすることした出来ない。シンデレラで例えるなら魔法使いさ。下地は作ってあげられるけど、君じゃなければこの話は終わらせられない」

 飛鳥井さんはそう言って三本、指を立てた。

「僕が用意したのは三つの契約。どうだい、魔法使いらしいだろう?」

「魔法使い……」

 マジシャンではなく、魔法使い。

 幻想の物語に登場するような、現実離れした存在。

 だと言うのに、今の飛鳥井さんはまさにそんな存在のように思えた。

「この三つは君たち家族の人数だ。僕は君たちに欠けていたものを、一週間だけ貸し与えることにしよう」

 一週間。

 その数字が長いのか短いのか、私には判断がつきかねた。

「その一週間以内に答えを導き出す。それが契約だ。果たせなかった場合、君はもう一度同じ運命を辿ることになる」

 そこで私は気づいた。

 今はまだ七月三十一日。

 その一週間後は、

「八月七日。……私が、海へ向かった日」

「そういうことだ。今、水渡ちゃんはやり直す機会を得た。でも、きちんとやり直さなければ……世界は、元のように繰り返すことを望むだろう」

 飛鳥井さんの言っていることはサッパリ分からない。

 ただ一つ確信を持てることがあった。

「やっぱり、あれは夢じゃなかった……?」

「僕の存在がそれを証明してると思うんだけどね」

「それじゃ、これは飛鳥井さんが……!?」

「ふふ。驚いたかい?」

 嘘のような話だった。

 この人は時間を巻き戻したとでも言うのだろうか。

 そんなの、本当に物語の中にいる魔法使いそのものではないか――――!

「けれどこの方法は世界の望むものじゃない。進路を決めた人を無理矢理押し戻すのと一緒なんだ。だから人は当然、また同じ道を行こうとするだろう。その心を、何かで変えられない限り」

「……それを変えるのが、私ってことですか?」

「そういうことさ。でも君自身が、僅かな道しか知らないからね。答えを見つけられない限り、君には他に選択肢なんてないと思うよ」

 さらりと残酷なことを言われた。

 要するに、何か"答え"を見つけない限り……私には死ぬ以外ないということ。

「ひどいこと言ってるように聞こえるかもしれないけどね。君の問いかけにはそもそも正しい答えなんてない。ないが故に不安、不満が募り続けていく。折り合いをつけ、君自身の答えを得ない限り、君はずっとこのままだ。それは――――君にとって、どうなのかな?」

 その言葉と共に、私の意識は不意に崩れ落ちる。

 ベッドの上に倒れこむ寸前、彼と目が合った。

「契約には代償が必要だ。得るものもあれば失うものもある。……その中で、じっくりと悩んでみるといい」

 ……ひどく眠い。

 彼の声が、とても遠いもののように思えた。

「それじゃ、おやすみ。また明日、君が望むなら会うとしよう」

 それが最後の言葉。

 その瞬間、再び眩しい光が部屋を包み込み、

「あ……」

 私の意識は、闇へと落ちていった。




 ――――――――/八月一日(II)


 目覚めは快適だった。

 こんなに目覚めが良いものだと思ったのは、随分と久々だ。

 ベッドからゆっくりと身を起こす。

「あれ?」

 そこに、意外な人がいた。

 ベッドの横。

 私の椅子に腰掛けながら、すやすやと寝息を立てる男の人。

「……飛鳥井さん?」

 一瞬そう思ってしまったのは、彼があまりに印象強い存在だったから。

 私はすぐに、その男性が誰なのかに気づいた。

「……お父さん」

 まるで寄り添うように。

 ベッドの横に座って、私を見守っていたのだろうか。

 お父さんの寝顔には泣き腫らした跡のようなものがあった。

 どうしよう。

 このまま起き上がれば、お父さんを起こしてしまいそうだった。

 なんだかとても疲れているようだし、休ませてあげた方がいいのかな。

 そんな風に悩んでいると、小さな唸り声が聞こえた。

 お父さんがゆっくりと瞼を開く。

「む……」

 微かに身動ぎしたかと思うと、お父さんは私を見て硬直した。

少し照れ臭そうにしている。

「……お、起きていたのか」

「うん」

「そうか」

 それきり、お父さんは口を閉じてしまった。

 だんまりを決め込んでいるわけではなく、何か言いたいけど言えない、といった様子だった。

 視線をあちこちへと動かしながらも、私の方に意識を向けているらしい。

「……お前は信じないかもしれないが」

 ふと、お父さんが窓の方を見ながら言った。

「お前が死ぬ夢を見た」

「……」

「朝からすまん。ただ、やけに鮮明に覚えている夢でな。目が覚めたときは末恐ろしかった。だから急いで帰ってきたかったんだが……その、仕事がな」

 ……また仕事か。

 お父さんの中では常に仕事が一番。

 家族のことは二の次で、家族内においても私のランキングは最下位みたい。

 今は何とも思わないけど、昔はよく浅海に嫉妬した。

 ちょっとだけ、懐かしい思い出。

「……いいよ、お父さんが仕事好きだって言うの、よく分かってるから。いらない心配かけて御免ね」

 自分でも吐き気がするほど白々しい言い方だった。

 予め用意されていた文をそのまま読み上げるような感覚。

 そこに感情なんてものはなく、ただ表面上のやり取りがあるだけ。

「今、こうしてお前が生きてることが一番だ」

「……ありがと。それから、おかえり」

「ああ、おかえり」

「――――」

 おかえり、とお父さんは言った。

 普通お父さんが言うべき言葉は『ただいま』のはず。

 なんで『おかえり』なんて私に言ったのだろう。

 お父さん自身も口にしてから気づいたらしい。

 困ったように頭を掻いて、

「なんだか、あの夢は本当のことでな。お前がまたここに帰ってきてくれたんだと……そんな気がした」

「……そう」

 それは夢じゃないよ、と言ってみたかった。

 お父さんが家族をおざなりにして、浅海が何もしないくせに口だけは達者で。

 そんな家族に愛想をつかして、私は一回死んだんだ。

 そう言ってみたかった。

 けど、そんなの信じてもらえるはずがない。

 私自身だって、まだ半信半疑。

 それに、安心しているお父さんにその事実を突きつけるのは……さすがに惨い気がした。

「それで、心配して横にいてくれたの?」

「あ、ああ。帰ってきたときには水渡、もう寝てたみたいだからな。お前の顔見て安心したら、急に眠くなって」

 変わらないなぁ。

 昔からお父さんは、どこかのんびりしてたり、気づけば寝てしまったりするようなところがあった。

 良くも悪くも鈍いのだ。

「そんなところで寝てたら風邪引くよ」

「はは、いっそ風邪でも引けば、家でゆっくり出来るのにな」

「その冗談、お父さんらしくないね」

「そうか? 俺は割と……本気で言ったんだが」

 声色が変わる。

 それは確かに、冗談ではないく本気のものだった。

 でもそれはおかしい。

 仕事第一のお父さんが、あんな言葉を口にするはずがない。

 私の疑問にお父さんも気づいたのだろう。

 力の抜けた笑みを浮かべ、

「正直な、あの夢は俺への警告だと思ったんだ」

「警告?」

「ああ。夢の中のお前は、人が良しとするようなことを抱え込んで……とても辛い思いをしていた。他人から見た善は、人にとてつもない負担を与えることもある。……俺は家族なのに、それに気づいてやれなかった。俺は仕事ばかり見ていて、家族から逃げてたのかもしれない」

「……それは」

「水渡。お前は何か悩みがあるのか?」

 問いただすようなものではなく、温かく包み込むような視線。

 それと共に送られてきた問いかけは、久しく感じ得なかった温かさを思い起こさせた。

 それはあまりにも懐かしいもので、私は少し抵抗感を抱いた。

「……ないよ。お父さんが心配してるようなことなんか、何もない」

「そうか」

 深く追求するようなことはしない。

 それは昔からお父さんの特徴の一つだった。

 ガミガミと口うるさい浅海とは正反対。

 その代わり、お父さんは一旦決めたことにはこだわる。

「実はな、父さん……今の仕事場を止めようかと思ってるんだ」

「――――え?」

 一旦言い出したら、なかなか聞かない。

「なんで? その夢のせい? 私なら大丈夫だよ?」

 お決まりの文句ばかりが口から出る。

 本心とは全く関係ない、偽装の言霊。

 そんなものでは、お父さんは動かない。

「家族ってのを、思い出しちゃったんだよ」

 と、お父さんは照れ臭そうに笑った。

「夢の中でお前が死んでから、俺は何度も自問自答した。何がいけなかったんだろう、何がまずかったんだろう、って。でもほとんど思い浮かばなかったんだよ。――――当たり前だ、俺の記憶はほとんど仕事で埋め尽くされてたんだから」

「……」

「思い出すらないんだ。ずっと昔、最後に花見に行ったのが最後の記憶だ。春も夏も秋も冬も。正月もクリスマスも、家族と過ごした時間はあまりに少ない。それに気づいたとき、すごく怖くなった」

「怖い?」

 私の問いかけへの答えはなく、その代わりにお父さんの手が伸びてきた。

 私が反応する間もなく、その手は私の頭をそっと撫でた。

「さすがにさ、ワガママが過ぎたんだよ、俺は。娘に面倒ごと押し付けて、自分勝手にやり過ぎた。そのせいでお前にはろくにワガママさえ言わせてやれなかったな」

「いいよ、そんなの」

「俺にとっては良くない。だって――――」

 お父さんは少し物悲しそうに告げる。

「――――水渡、俺や浅海の前で笑ったことないしな」

 ……子供の笑うところも見れなくて、何が親か。

 お父さんは何かを決めた表情で、静かに言う。

 私はどういった言葉をかけるべきか、よく分からないまま黙っていた。


 今朝は珍しくお父さんも朝食の準備を手伝った。

 いつも一人で使っていた場所に二人入るのだから、かなり狭く感じる。

 おまけにお父さんは料理に不慣れらしく、何に関しても手際が悪い。

 味噌汁を作るために豆腐を切ってと頼んだら、ぐちゃぐちゃに潰れた豆腐が返ってきた。

 ウインナーでも焼いてと言うと、飛び散る油から逃げ回っていた。

 その結果出来た朝食は……その、普段とは少し違ったものだった。

「……すまん」

「別にいいよ。こうなるの予想ついてたし」

 これまで全くやらなかったことをやろうとする。

 それは良いこととは限らない。

 最初のうちははっきり言って足手まとい。

 それでも続けていけば、そこそこやれるようにはなる。

 けどそれが出来なくて、途中でリタイアする人も多い。

 今までやらなかったことをやろう、なんて言うのは――――所詮、一時の気まぐれだから。

「しかし水渡は料理上手くなったな。もう浅海より大分上なんじゃないか」

「そりゃ、子供の頃からずっとやってるから」

 自然と声色が険悪なものに変わっていく。

 浅海と比べられたのだから無理はない。

 文句ばかりが一人前の駄目人間。

 あんなのと比較されたら気分が悪くなる。

 だいたい、子供の頃からやるはめになった原因は浅海のあるというのに。

「あ、あー……そうか。それより、学校の方はどうなんだ?」

「普通だけど?」

「やっぱり、友達と遊びに行ったりするのか。どんなとこだ?」

「遊びに行く暇なんて滅多にないし。私を誘う友達なんて、もういないけど」

「……ゴホン。それじゃ、普通っていうのは?」

「成績」

「そうか」

 ぎこちない動きで腕を組み、唸り声を上げる。

 この後どんな話題を持ちかけるべきか迷っているらしい。

 私は嘆息一つ。

「お父さん」

「む、なんだ?」

「無理に話さなくてもいいんじゃない? なんか不自然だよ」

「……そうか?」

「うん。私たちは別に、今まで通りでいいんじゃないの?」

 少なくとも、こんな風にわざとらしい会話をするのは家族らしくないと思う。

 なんだか居心地悪いし、苛々するし、これならまだ不干渉の方がマシな気がする。

 こんな取ってつけたような家族らしさは、何か違う。

「食べ終わったら浅海のところに持ってってあげて。そろそろ起きるだろうから」

「……水渡はどうするんだ?」

「私は朝食の片付けやってから家の掃除と洗濯。それが終わったら出かけてくるから」

 会話を打ち切るようにお父さんに背を向けて、食器を手に台所へ向かう。

 後ろからお父さんが何か言おうとしたのか、息を呑む音がした。

 けど、結局言葉が出なかったのだろう。

 それ以上の音は何も聞こえなかった。

 ……何年もかかって作られた隔たりは、そんな簡単には消えないんだよ。お父さん。


 浅海はまだ寝ていたらしい。

 私は朝食の片づけをはじめとする片付けを済ませると、渋るお父さんを仕事に送り出し、自分もその足で出かけることにした。

 今までとは別の意味で、あの家は居づらい。

 天気はあの日と変わらない。

 飛鳥井さんと出会った、あの日と。

 強い陽射しが麦藁帽子越しに感じられる。

 けど海が近いからか、潮風が気持ちよくて、そんなに辛くはなかった。

 私はいつもの道を歩き続け、あの場所へやって来た。

 堤防から身を乗り出して、あの船の方を覗き込む。

 けれど、そこに飛鳥井さんの姿はない。

 ……やっぱり夢だったのかな、と思う。

 あの日々も、昨日の夜も。

 私自身、なんだか信じられないことばかりだった。

 砂浜に降りて、私は海の方へと歩き出す。

 いつかの日と同じように、真っ直ぐと。

 そうすることで何かが変わるわけではないし、今はさほど海へ還りたいという衝動はない。

 けど、なんとなく歩いてみようとして。

「あら、麦藁帽子を被ったまま水泳ですか?」

 ……不意に、声をかけられた。

 砂浜の方を振り返ると、そこにはワンピースを着込んだ女性がいた。

 暖かな雰囲気と、涼しげな白い肌。

 長い黒髪を束ねて肩から前へと垂らしている。

 なんとなく時代錯誤な美しさがあるように思う。

 その人とは、不思議と前にも会ったような気がした。

 波の動きを足に感じながらも、私はその女性に釘付けになっていた。

「……あなたは?」

「私は通りすがりのマジシャンです」

 にっこりと笑い、そんなことを言う。

 まるで、あの日の飛鳥井さんのようだった。

「マジシャン、ですか」

「はい。これでも私、それなりに腕はいいんですよ」

 そう言うと、彼女は手荷物から一冊の本を取り出した。

 小さな文庫本サイズの、ひどく古そうな本だった。

「はい、これが私の相棒。喋る本のナナシさんです」

「よう小娘、よろしく頼む」

「ナナシさん駄目ですよ、初対面の人にそんな言葉遣い」

 彼女はそう言うと本を鞄へと押し込んだ。

 ……本の腹話術?

 変わった芸風だと思った。

 普通、ああいうのは人形でやるものじゃないのかな。

「申し遅れました。私、夏名と申します」

「カナ、さん……ですか?」

「はい。夏の名と書いて夏名と言います。秋の人につけていただいた名です」

 ……秋の人?

 飛鳥井、秋人。

 いや、まさか。

 確かに同じ場所にいて、同じマジシャンを名乗ってるけど。

「どうかしましたか?」

 気づけば彼女は、私のすぐ側で顔を覗きこんできていた。

 少し驚いて後ろに身を引きながら、

「だ、大丈夫です。なんでもありません」

「……そうでしょうか。今のあなたは、とても大変なことになっているようですけど」

 全てを見透かすような澄んだ瞳。

 そこには、戸惑いと偽りに満ちた小娘の顔が映し出されている。

「よければ、占いましょうか」

「占い、ですか?」

「私、これでも占いも出来るんですよ? マジシャンですから」

 マジックと占いは別物のような気がしたけど、本人が出来るって言ってるんだから出来るんだろう。

「えっと……お代は?」

「いりません。私がちょっと気になったのでしたいだけですから」

「そ、それなら……お願いします」

「分かりました」

 夏名さんは私の額に手を当てて、そっと目を閉じた。

 他に何をするわけでもなく――――、

「っ!?」

 ……一瞬、妙なものが見えた。

 そこには三人の人影と、夕陽が沈む海。

 楽しげに笑う声が聞こえたりしたけど、私にはとても悲しい風景のように思えた。

 その光景が頭から消え去る頃には、夏名さんは既に手を離していた。

 にっこりと、夏というよりは春の陽射しのような笑顔で、

「あなたは見失ったものを探すために、ここに来ているのですね」

 きっぱりと、そう断言した。

「え?」

「あなたはここに来た理由が説明出来ないでしょう。なぜ海が好きか説明出来ないでしょう。それには理由があるのです。でも忘れているのです。そして思い出すことを恐れている。だからここで潮風や波音を感じることはしても、考えるということはしない」

 スラスラと占いの結果を連ねていく。

 それは適当にでっち上げた答えを言うにしては明瞭で、何か当たり前のことを言っているような声だった。

「だから考えましょう。あるがままを受け入れ感じるだけじゃなく。自分から求めるんです。考えることで」

 考える、か。

 でも、何を考えればいいのか、私にはさっぱり分からない。

「何を求めればいいのかは簡単なことです」

 と、私の心を読んだように夏名さんは告げる。

「欲しいものを求めればいい。あなたが今一番欲しているのは……なんですか?」

 なんだろう。

 暖かな家族?

 普通の家族?

 幸せな家族?

 ……分からないよ、そんなの。




 ――――――――/八月二日(II)


「水渡、父さん今日はお休みだ」

 何を寝ぼけてるんだろう、家の父は。

 今日は平日なのに。

「お父さん、いいから仕事行って」

「いいんだよ。ちゃんと休み貰ったから」

 これまで休みなんてものとは無縁だったお父さんがそんなことを言うなんておかしい。

 昨日に引き続き、今日の我が家はおかしい。

 仕事人間のお父さんが仕事を休み、浅海はなんと昨日から眠ったまま。

 口うるさい浅海が起きないのは別にどうでもいいけど、お父さんは危ない。

 このままでは近いうちに、本当に仕事を辞めてしまいかねない。

「お父さん、どうしたの?」

「なにがだ?」

「昨日から変だよ」

「……そうか?」

「そうだよ。仕事休んで、今日一日何するつもりなの?」

「浅海を、医者に診せようと思ってな」

 どうせ何も考えていないんだろうと思っていたら、お父さんは意外にもしっかりと返答した。

「浅海を?」

「ああ。今更俺が何を、と思うかもしれないが。やっぱり浅海がこのままだと、水渡も辛いだろう」

「……今更だよ、そんなの。いっそこのまま引きこもってればいいのに」

「そう言うな。浅海だって大変なんだ」

「……その言葉も今更。分かってる、浅海は被害者で、私たちは家族として浅海を助けなきゃいけない」

 お決まりの文句だ。

 こう言っておけば、大概の大人は満足する。

 偉い子だね、と当たり障りのない褒め言葉を使ってくる。

 口で言うのは簡単だけど、実際につき合わされたらどれだけ大変か……それを知らない人でも、そう言ってくる。

 なんて――――無知なことか。

「お前からすれば……偽善に聞こえる言葉かもしれないな」

 寂しそうな笑みを浮かべるお父さん。

 私の考えてること、少し見透かされたのかもしれない。

「とりあえず、父さんは医者を呼んでくるから。その間、留守番よろしく頼む」

「分かった」

 お父さんは時間を確認して家を出て行った。

「……でも、わざわざ来てもらわなきゃならないなんて大変」

 浅海はあの部屋から出ることを極端に拒む。

 だからわざわざあの部屋にトイレや風呂まで設置したのだ。

 それにどれだけのお金を費やしたか知れたものじゃない。

 そんな浅海が、病院まで行けるわけがないのだ。

「……予め、医者が来るって言っておいた方がいいかな」

 突然の来訪と言う形になると浅海はパニックを起こす。

 私やお父さんでさえ扱いが難しいのに、普段見知らぬ先生が相手ではどれだけ揉めるか分からない。

 そんなことになって先生にまで迷惑をかけたら一家の恥だ。

 そう思って、私はすぐさま浅海の部屋へと向かう。

 何回かノックをし、入ることを告げてから室内へ。

 ……浅海は起きていた。

 ベッドの上できょとんとこちらを見ている。

 いつもより反応が大人しいのはいいけど、やっぱりあの顔を見ただけでも腹が立つ。

 ちっぽけな楽園で気楽に生きる無気力人間。

 それが私の母親、蒼井浅海だった。

「おはよ。もうすぐ病院の先生来るから」

「……」

「お父さんが仕事休んで呼んできてくれるの。分かった? 暴れないで、大人しくしててよ」

「……あの」

 おずおずと、申し訳なさそうな声をあげる。

 それは普段の浅海の声ではなかった。

 普段はもっと、何かに憑かれたような甲高い声を私に投げつけてくる。

 口だけ達者な浅海が、とうとう口まで大人しくなった?

 そんな馬鹿なことを考えているうちに、浅海は、

「すみませんが――――――――あなた、誰ですか?」

 ……は?

「何……つまんない冗談言ってるの?」

「え、いえ、その」

「いい加減にしてよ。あんただって私が嫌いでしょうけどね、私だってあんたが嫌いなの。だから無意味に怒らせるような真似はやめて」

「……あの」

「何よ」

「……」

 私の言葉が刺々しかったせいか、浅海は身を竦ませた。

 その様子は、明らかに普段の浅海とは異なる。

 ……まさかとは思うけど。

「まさか、記憶喪失なんて言うんじゃないでしょうね」

「……」

 沈黙。

 それは――――この場においては、肯定を意味するもの。

 刹那、私の中で何かが爆ぜた。

「っ……この、馬鹿ッ!」

 ベッドの上に飛び掛り、浅海の胸倉を掴みあげる。

 顔中に力が入り、目がぎょろりと開くのを自覚した。

 この女は、こともあろうに全てを放棄した。

 あれだけ何年も何年も私やお父さんに迷惑ばかりかけ続けて、挙句にそれを全て放棄した!

 なんて無責任。

 なんてワガママ。

 なんて、最低なことか――――!

「あれだけ迷惑かけて、好き放題生きてきて、挙句の果てにそれ全部忘れたわけ!? あんたのせいで、私がどれだけ苦労したか分かってるの!? 分からないでしょうね! あんたそういう人間だったもの!」

「ひっ……」

「泣いても喚いても無駄よ! 絶対許さない。私がどれだけあなたが嫌いか知ってる? 何年も何年も、三六五日を何度も繰り返して溜まってきたのよ苛立ちが! 記憶を失うなんて半端なことしないで、どうせなら――――」

 駄目。

 その先は、言っちゃ駄目。

 でも……止まりそうにない。

 今まで抑えてたものが、いきなり溢れ出した。

 ずっと溜まり続けていたものが、とうとう抑えを失った。

 一旦流れ始めたものはそう簡単には、

「――――死んじゃえば良かったんだ!」

 ……止まらなかった。


 あれからしばらくして、お父さんが医者を連れてきたみたいだった。

 私は会ってない。

 あの言葉を吐き出してから、ずっと自分の部屋にいたから。

 お父さんが仕事へ向けていた情熱が消え失せて。

 浅海が今まで溜めてきた記憶が一切消え失せて。

『契約には代償が必要だ。得るものもあれば失うものもある。……その中で、じっくりと悩んでみるといい』

 不意に、あの晩飛鳥井さんが言ったことを思い出す。

 これが、代償なのか。

 この代償を支払った契約で、私は何を得られるのか。

 うんざりだ。

 私はただ普通でいたかっただけなのに。

 普通が良かったのに。

 普通の家族が良かったのに。

 なんでこんな家に生まれて、こんなことになってるんだろう。

 ……考えても、答えなんか出そうになかった。

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