七夕
風が心地よい夜だった。
彼女はベランダに出て、笹をくくりつけた。
ゆらゆらと、飾られている短冊が揺れる。
「お母さん、短冊飾れた?」
家の中から、幼い少女の声が聞こえた。
彼女の1人娘である。
「ええ、飾れたわよ」
「今夜、晴れてるかな」
「心配しなくても大丈夫よ、よく晴れてるから」
「そっか……よかった」
安堵し、ため息をつく娘の姿が、ありありと目に浮かぶようだった。
晴れているというのは、彼女の嘘だった。
夜空に星など何一つとして見えない。
曇っていた。
別に曇っていようと、織姫と彦星は空の上で出会っているのだろう。
空の上は晴れなのだから。
しかし、短冊に書かれた願い事は、雲に阻まれて天まで届かないのではないか。
そんな不安を娘に抱かせてしまわぬよう、彼女は嘘をついた。
「大丈夫、願い事はちゃんと天に届くから」
「うん。そうだね……ありがとう」
短冊に書かれた願い事。
それは、
『元気になって、また学校でみんなと遊べますように』
というものだった。
彼女の娘は昔から病弱だったが、近年特にそれがひどくなった。
もう2ヶ月近く学校も休んでいる。
友達は心配して、よく見舞いに来てくれているが、それでも寂しさは消えないのだろう。
ベッドの上で寝ている娘は、彼女によくこう言っていた。
「お母さん、私いつ学校行けるようになるのかな」
その言葉に、彼女はいつも気休め程度の言葉しか送れない。
なんとも歯痒かった。
だから彼女は夫と共に、短冊にこう書いた。
『美希の病気が治りますように』
『美希が元気になりますように』
彼女も夫も、願い事などを信じる年ではない。
それでも書かずにはいられないほど、娘の病状は悪化している。
自宅で療養中の今はまだいいが、入院しなければならなくなるかもしれない。
確実に進行する病気に対する恐怖感は、並のものではなかった。
だから、書いた。
純粋に、ただ純粋に娘が元気になる姿を求めて。
願いは、叶わなかった。
一年後、彼女は夫と2人で朝食をとっていた。
娘の姿は、もうどこにもない。
去年の秋、突然発作を起こし、亡くなった。
冬の頭にある誕生日を楽しみにしていた矢先のことだった。
カチャカチャと、食器の音だけが食卓に鳴り響く。
娘が亡くなった直後に比べれば、まだ雰囲気は明るくなった方である。
「今日は、七夕だね」
夫が彼女を気遣うように、声をかける。
少し前までは、お互い会話をすることもなく食卓が終わってしまっていた。
「ええ、そうね」
彼女は相槌を打ちながら、窓の外を見た。
今年も笹は飾りつけた。
無駄だとは知りながらも、天に届くようにと願って。
ところが、
「あら?」
窓の外を見ると、昨日飾り付けておいたはずの笹が見当たらなかった。
「どうしたんだい?」
「ないの、笹が――」
妙な焦燥感に襲われて、彼女は窓を開け放ち、ベランダに身を出した。
朝風が妙に寒い。
どこにも笹は見当たらなかった。
「風に飛ばされたのかな」
「そんな……」
それだけのことなのに、彼女は妙に悲しくなった。
娘がいなくなってしまったときと、同じような感覚が身を包む。
そんな彼女の肩を、夫は優しく掴んだ。
「大丈夫みたいだ、ほら」
夫が指し示した先には、1人の若者がいた。
夏らしく半袖のシャツを着込んで、頭にはバンダナを巻いていた。
その若者が、手に笹を持って彼女たちの方を見上げていた。
「これ、そちらのですかー?」
夫と目が合った若者は、笹を持ち上げて呼びかけてきた。
「そうです、すみませんがそこで待っていてもらえませんかー? 今から取りに向かいますのでー!」
「あー、分かりましたー」
会話を打ち切り、彼女と夫は2階から1階へと駆け下りて、玄関の扉を開けた。
そこに若者が待っていた。
「どうもすみません、どちらで拾いましたか?」
「すぐそこの公園で。通りかかって、短冊が飾り付けられていた笹があるもんですから、どうしようと思いました。いや、持ち主が見つかってよかったです」
と、若者は笑みを浮かべて笹を彼女に手渡した。
まるで我が子を抱くように、彼女は笹を抱きしめた。
その様子を見て、若者はふむ、と首をかしげた。
「失礼ですが、短冊の内容を見させてもらいました……なにか、あったのですか?」
「ああ、いや、それは……ええ、まあ」
2人は言いよどんだ。
この若者に語ったところで仕方のないことだと思ったからだ。
ところが、次の瞬間若者は驚くべきことを言ってのけた。
「願い事があるなら叶えてさしあげましょうか。僕は、彦星ですから」
目覚めると、目の前に娘の顔があった。
看病していたまま寝ていた状態なのだろうか……と、彼女は記憶を探る。
なにしろ1年と1日前のことだ。
思い出すのは容易なことではない。
それでも、安らかに眠る娘の顔を目にしたら、どうでもよくなった。
寝ている娘にそっと触れ、静かに抱きしめた。
「――また会えたね」
「ううん……」
抱きしめられたせいだろうか。
娘がゆっくりと瞼を開けた。
その瞳を見て、彼女はようやく娘が生きていることを実感した。
「おはよう、美希」
「あれ? お母さん、おはよう……どうかしたの? なんで泣いてるの?」
「願い事が叶って、嬉しかったのよ」
「……おかしなお母さん。七夕は今日なのに、もうおねがいかなっちゃったの?」
不思議そうに母を見つめる娘は、くすぐったそうに笑った。
巻き戻された時間が“今”に追いついて、彼は眠りから目覚めた。
場所はある一軒家の前。
目の前には笹が落ちている。
「また『空にいる娘に会えますように』なんて書かれてないだろうな」
相棒の魔道書が、軽い口を叩く。
彼にとってはついさっきの出来事だが、あの夫妻にとっては1年前のこと。
彼らは巻き戻された1年で、どれだけ世界に抗い、結果を返ることができたか。
「――大丈夫だよ、ほら」
秋人は、笹に飾り付けられていた短冊を見た。
そこには――――
「『ひこぼしさまに会えますように』だってさ。これってひょっとして……」
「あ、ひこぼしさまー?」
と。
ベランダから声が聞こえてきた。
ふと視線を上にやる。
そこには、幸せそうに立ち並ぶ3人の家族がいた。
全員が秋人に向けて、笑顔で手を振っている。
「……どうやら、2年連続で願いを叶えてしまったみたいだね」
「世界視点からすれば1年だけだろが。けちけちせずに、会ってこい」
相棒が照れているのを悟って、魔道書ナナシはちゃかした。
「やれやれ。まぁ暖かい家族というのは見ていて悪い気はしないし、ちょっとだけ付き合ってくるかな」
そう言って家の方に向かう秋人の背中を見ながら、ナナシはない口を歪ませて笑った。
「あいつ気づいてないのかね、もう1個願い事書かれてたのを」
ナナシは確かに見た。
『おりひめさまになって、ひこぼしさまとけっこんしたいです』
普段は飄々としている相棒が珍しくうろたえる様を想像して、ナナシは笑った。
ちなみにナナシの願い事は、秋人の困った姿を見ること。
どうやらこれも、叶いそうである。
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