魔法使いの旅―根無し男と無題の魔導書―

夕月 日暮

終わりの鐘と始まりの陽射し

 何台かの車が数分おきに走り抜ける。

 周辺には森ばかりがあり、家を始めとする建物が一切見られなかった。

 さらに雪が降りしきっている。

 あまり多くはないが、それでも雪の存在は周囲の光景を幻想的に飾っていた。

 そんな道を、一人の男が歩いている。

 名は飛鳥井秋人。

 法的には無職。

 しかし、ある側面から見れば彼は魔法使いであった。

 もっとも大きな杖を持っているわけでもなければ怪しげな黒衣を纏っているわけでもない。

 防寒用のコートと、いくらかの着替えと食料の入ったバッグを持っているだけ。

 外見は普通の人間とまるで変わらない。

「うーん、困ったな」

 頭に少し積もった雪を払い落とし、フードをかぶりながら彼は一人腕を組んで立ち止まる。

 このところ野宿ばかりしているせいで体力が落ちたのか、全然進んでいないような気がした。

 始めて通る見慣れない道だからそう思いがちになるのかもしれないが、先程からまるで進んでいないように思える。

「今日中に泊まるところのある場所まで行けるだろうか」

「行けなかったら凍死するんじゃないのか、さすがに」

 バッグの中から声がする。

 秋人はバッグの中に手を入れて、それを掴む。

「おい、お前まさかこの俺を外界に出すつもりか」

「ナナシが悪い。まるで他人事のように言ってくれるじゃないか。凍死するなら共に死のう」

 抗議の声を無視して秋人は一冊の本を取り出す。

 するとすぐさま本が秋人の手から逃れるようにして、バッグの中へ戻ろうとする。

 だが一瞬早く、バッグは閉じられてしまった。

 空中に浮かんだままその本はやがて、秋人の顔に体当たりをした。

「寒い、早く俺を中に入れろ」

「嫌だ。そもそも僕だけがこんな寒い目にあうなんて不公平じゃないかな」

 何度も体当たりをしてくる本を片手で掴むと、秋人は手の中にいる自身の相棒に語りかけた。

 秋人の相棒は題名のない古い本。それ故秋人はナナシと呼んでいる。

 古代の魔法使いが自身の知識を永遠のものとするために創造した魔道書だと本人―――もとい、本書は語っている。

 見た目は普通の文庫本程度。しかし計250ページ程度ある中身には何も書かれていない。

 彼は自身の得た知識を形なき口で語り伝える、無限の知識書。

 一度でも記憶したことは、何万年経過しようと正確に記憶し続けることが可能。

 故に半永久的に知識を吸収し続け、伝え続けることができる。

 これほど万能な書物は世界中を探し回っても他にはない。

 ただ一つの欠点は性格がやや悪いということだった。

「私はお前たち人間と違って寒さには弱いのだ。性質の違うもの同士には公平も不公平もない。サッカー選手と野球選手の優劣を測るような愚行をお前はするか、いやしないだろう」

「本なのに暑いだの寒いだの言うナナシが一番愚かだと僕は思う」

 彼を創った魔法使いは何を考えて人間のような感覚を用意したのだろうか。

 いろいろと考えることは出来てもその答えは永久に分からないだろう。

 その魔法使いは彼を完成させ、題名を与えようとしたところで死んでしまったのだから。

 だから彼は永久に名無しなのである。

「我が著者に関しては俺もよく分からない点が多い。ところで秋人よ、いい加減俺をバッグに戻したまえ」

「次の町に着いたら入れてあげるよ。暖炉の傍にでも置いてあげようか」

「それは実に悪質な嫌がらせだな。私を燃やすつもりか」

「ここ数年で十回はそれを考えたことがあるよ」

「そして計三回実行しようとしたな。お前は恐い人間だ」

「僕は君のほうが恐いよ、夜中に部屋を浮かびまわらないでくれ」

 雪は相変わらず降り続け、立ち止まって話し込む二人にどんどん積もっていった。


「いらっしゃいませ、一名様ですか?」

「ええ、一週間ほどでお願いします」

 不毛な言い争いが終わるまで1時間。

 それからこの町の旅館に到着するまで2時間。

 既に疲労困憊の秋人は、受付をすますと早々に部屋へと向かった。

 座布団の上に座り込み、予め用意されていたお茶を飲むとすぐに横になってしまう。

「いやぁ、生き返るね。やはり人里は落ち着くよ」

「だらしがないぞ、秋人。町に到着したら観光だろうが」

「君一人で行って来てくれ。僕は疲れたのでテレビでも見ながら存分に休ませてもらう」

 約一週間ぶりのテレビをつけ、ごろんと横になったまま秋人は茶菓子を食べ始めた。

 その様子にナナシは不満を持ったのか、嫌がらせにテレビの画面前を独占する。

「ナナシ、暇なのかい」

「悠久の時を生きてきた俺は常に暇だ。俺を満たすのは新たな発見のみ、こんなテレビなど……」

 と、段々声が小さくなっていく。

 どこに目があるのか知らないが、なんらかの手段をもってナナシはテレビに夢中になり始めたらしい。

 ナナシはこうなると何を言っても動かない。

 それを知っている秋人は嘆息すると、浴衣に着替えた。

「ちょっと出てくるよ」

 その言葉への返事はない。

 相当テレビに釘付けになっているようだった。

 仕方なく秋人は部屋の外に出る。

「とりあえず身体でも洗っておこうかな」

 三日ほど入っていないのを思い出し、大浴場へ向かう。

 丹念に汚れを落として部屋に戻ろうとすると、ロビーのテレビ番組が秋人の視線に飛び込んできた。

「紅白歌合戦か。懐かしいな」

 そこまで言って秋人ははっと気づいた。

(そうか、今日は大晦日か)

 旅ばかりの生活をしていると今が何月何日かということを忘れてしまう。

 彼は今の今まですっかり年末ということを忘れていた。

 だが一旦気づいてしまうと気になるのか、そそくさと早足で部屋まで戻るとナナシを呼び出す。

「ナナシ。今日は大晦日だ」

「このアホ。お前その様子だと今まで忘れていたな」

「否定はできないが、それより早速旅館の人に聞いて付近の寺へ行こう」

 その言葉にナナシは怪訝そうな表情を浮かべたつもりになる。

 それはあくまでナナシの意識内のことであり、ナナシは相変わらずの文庫本のままだが。

「お前、先程は疲れたなどと言っていたように記憶しているが」

「風呂に入って疲れは取れた。それよりも僕は一度でいいから除夜の鐘をついてみたかったんだよ」

「短き人生を送る人間ゆえの興味とこだわりか。仕方ないから付き合ってやろう」

 そう言いつつもナナシの意識はテレビの紅白歌合戦に向いている。

 しかしそんな事情を知らない秋人は早速行こうと言わんばかりにナナシを手で掴む。

 ナナシは未練を断ち切れないのか、微動だにしない。

 魔力によって自身を移動させたりするナナシは、こうなるとプロレスラーが10人いても動かない。

 そこで秋人は両手でナナシを押さえながら、テレビを足で消した。

「お、お前…紅白を返せっ、俺の紅白をっ!」

 ナナシに目があったら大量の涙が流れていたことだろう。

「まぁまぁ。除夜の鐘なんてナナシもついたことはないだろう? いい機会だと思わないか」

「ついたことがないのは当たり前だ、俺には人間と違って手足がないっ!」

「屁理屈はいいから。ほら、もう23時過ぎてるじゃないか。早く行くよ」

「この鬼…あ、待てこら。そのまま持ち歩くな、バッグの中に俺を入れろ」

「いいよ、バッグ重いし。コートのポケットでいいだろ」

 無造作にコートのポケットにナナシを突っ込む。

 ナナシはポケットの中から抗議の声をあげるが、それも何かに夢中になっている秋人には届かなかった。


「で、ここか」

 そこは見事に何もない廃寺だった。

 旅館の人の話ではもう随分前に処分が決まったものの、なかなか取り壊しの作業がはかどらずそのままになっているらしい。

 どうも工事の際に不自然な事故が多発しているらしく、不気味がって町の人は誰も近づこうとしなかった。

「何か出そうな雰囲気だな、ナナシ。恐いかい?」

「恐れるかアホ。俺たち自身普通の人間からすれば幽霊みたいなものだ。仮に幽霊だとして99%俺のほうが年配だ。逆らうなら叩きのめす」

「一昔前の先輩風吹かした人みたいなこと言わないでくれ。それに直接やるのは僕だろ」

 などと話しながら除夜の鐘がないか探す。

 取り壊し作業はほとんど行われていないのでまだ残っている可能性はあった。

 辺りは既に真っ暗で、宿の女将から手渡された懐中電灯だけが頼りである。

「ああ、あったあった」

「おお、いたいた」

 除夜の鐘を発見する秋人の声と、その下にいる小さな子供の幽霊を見つけたナナシの声が重なった。

 特に驚く様子もなく秋人は視線を除夜の鐘から子供の幽霊に移した。

「やぁ、今晩は」

 突然話しかけてきた普通人に、その少年の幽霊はどう答えていいか分からなかった。

 少年が黙っていると、ナナシがコートのポケットから脱出して少年の前にやって来た。

「俺はナイスガイの究極魔道書ナナシだ。こいつは俺の相棒の秋人。あっきーと呼んで欲しいらしいぞ」

「あっきー……」

 ぽそりと呟く少年を前に秋人は困ったような笑みを浮かべた。

「出来れば魔法使いのお兄さんと呼んで欲しい」

「魔法使いなの?」

 不思議そうに呟く少年の幽霊。

 それに秋人は笑って答えた。

「論より証拠だ。ほら、搗く棒がないだろう。それを僕が今から取り出してあげよう」

 確かに除夜の鐘は鐘だけしかない。

 鐘を搗く棒は取り外されてしまったのかどこにもなかった。

 秋人はナナシを右手に持ち、左手を虚空にかざす。

 やがて秋人の周囲に光の粒子が現れ、さながら竜巻のようなうねりが起きたかと思うとそこには除夜の鐘を搗く棒が現れていた。

「わぁっ」

 無の空間から現れた棒を幽霊の少年は面白そうに眺める。

(おそらくこいつは無意識的にここにやって来る人間に自分の存在をアピールしようとしていたんだろう)

 少年の様子から、ナナシは事故の原因を推測していた。

 少年が纏う霊気には圧力は感じないし悪意も見られない。

 むしろ久々に人と会話が出来たことを素直に喜んでいるように見えた。

 そのとき、秋人の腕時計が鳴った。

 驚く少年に、

「時間がきた」

 とだけ告げて秋人はこの寒い中袖を捲くり、除夜の鐘を搗く体勢に入った。

「除夜の鐘、搗くの?」

「ああ、僕は前から一度やってみたいと思っていた」

「僕も一緒に搗いていい?」

 その少年の問いかけに、秋人は笑って、

「いいとも」

 と答えた。

 二人は一斉に構える。

「いいか、私がカウントを数えるからそうしたら搗けよ」

 ふわふわと浮かびながら、ナナシはカウントを数え始める。

「いいか、10」

 少しばかりの雪が降り積もる中。

「9」

 もう暗くなった景色の中。

「8」

 待ち遠しさに胸が踊るとき。

「7」

 きっとあちこちのテレビで盛り上がっているであろう時間。

「6」

 もうその役目を終えたと思われている鐘の前で。

「5」

 死んだ事情も、名前さえ知らない少年と。

「4」

 どこからかきた素性不明の魔法使い。

「3」

 カウント数えるは魔法の本。

「2」

 その手に再度力を込めて。

「1」

 ナナシの声が強く。

「0」

 響いた。


 ごぉーん。


 重く静かに。

 しかし確かな音を発して、除夜の鐘は沈黙した。

「―――除夜の鐘、初体験完了」

「やったね…」

 ガッツポーズを取り合う二人。

 そこには何かを達成した人の顔があった。

「ちょっと待てぃ」

 その達成感を吹き飛ばす声。

 先程までカウントを数えていたナナシだった。

「お前らそれで満足するな。除夜の鐘は108回搗かないと意味がないんだぞ」

「え、そうなの?」

 秋人はそれを知らないのか、少年に尋ねている。

 しかし少年のほうも尋ねられてもどう答えていいか分からない。

 その様子に業を煮やしたナナシは、魔力を用いてもう一度鐘を搗いた。

「本当に108回搗くんだ。俺をたまには信用しろ」

「考えて見るとたまにしか信用できない書物って凄いよな」

 普段適当なことばかり言っているナナシに対する皮肉をたっぷりと込めた言葉である。

 これには日ごろの行いを自覚しているナナシは何も言い返せない。

 しかし、秋人は一応ナナシの言葉を信じることにしたらしい。

「じゃ、やってみるか。正直体力がきついが…」

「ううん、その必要ないみたいだよ」

 少年の言葉に秋人は寺の入り口付近を見る。

 そこには、先程の鐘の音を聞きつけた町の人間たちがやって来ていた。

「あれ、皆さんいらっしゃったのか」

 やがて町の人間たちがぞろぞろと集まり、その中の一人が進み出てきて挨拶をした。

「今晩は、あなたが先程の鐘を?」

「ええ、そうですよ。なかなかいい感じでした」

「ここには危険な悪霊がいると聞いていたのですが、大丈夫なのですか?」

 どうやら町の人間たちには少年は見えていないらしい。

 肝心の少年は除夜の鐘に夢中になっていたので、特に町の住民に気を取られなかったようだが。

「除夜の鐘に満足したんじゃないですかね」

 その様子をちらりと見ながら秋人は町の人たちに告げた。

 やがて町の人間たちも頷いて、ようやく笑顔になった。

「それでは我々も久々に搗いてみますか。やはりこれがないと年明けは落ち着きませんで」

「108回はこれで達成できそうだな」

 コートのポケットに潜り込んでいるナナシが小声で告げた。

 秋人は頷くと、町の人間たちが除夜の鐘を搗いている隙に少年を連れ出した。

「どうしたの?」

「もっと良い席から見よう」

 そう言うとすぐに、秋人は呪文を唱え始める。

 今度は光の粒子が少年の周りにも現れ、次の瞬間空を飛んで寺の屋根の上に辿り着く。

「わぁ、やっぱり魔法使いだから空も飛べるんだね」

「箒は使わないけどね」

「う~む、良い空だ」

 再びポケットから出てきたナナシの言葉に二人も空を見上げる。

 雲ひとつない、星が綺麗に見える空だった。

 下のほうからは町の人々が鐘を搗く音が聞こえる。

 夜風が気持ちよく、涼しいはずなのに心はどこか熱くなっていた。

「不思議だねぇ、大晦日って」

「そうだな。ありきたりなことのはずなのだがいざ体験するとどうも高揚感で満たされる」

「ああ…今年もいろいろあったなぁ」

 だがやがて、秋人の瞼は下がっていく。

 そして、町の人間たちが108回を搗き終える前に、屋根の上で眠ってしまった。

「魔法使いのお兄さん、寝ちゃったね」

「こいつは今日まで野宿生活をしていたからな。疲れていたのだろう」

 それからもう暫くして、除夜の鐘が搗き終わる。

「終わったな」

「うん」

 そう言う少年はどこか寂しげだった。

「そろそろ行かなきゃ」

「そうか。お前も新しいところに行くのか」

「うん、年も変わったから」

 既に少年は顔だけになっている。

「魔法使いのお兄さんに宜しくね。面白かったよ、って」

 それが最後の言葉だった。

 少年は瞬く間に光の塵と化し、どこへとも分からない場所へと消えていく。

 一人残されたナナシはため息をついた。

「結局初日の出は俺一人で見るのか」


 朝日が昇る中、秋人は目を覚ました。

「こんなところで寝てたのか…どうりで頭痛いはずだよ」

 そこまで言っておや、と周囲を見回す。

 どこからともなくふわふわとやって来たナナシに秋人は少年がどこに行ったのかを尋ねた。

「成仏した」

「それはまた急だな。僕が爽やかに成仏させてあげようと思ったのに」

「おそらくあの少年自身が満足したのと、除夜の鐘の効果が合わさったのだろう。余計なことをしなくて正解だったな」

「…除夜の鐘が成仏に何か関係あるの?」

 何も知らない様子の秋人に、ナナシは呆れながらも説明した。

「除夜の鐘。これの除夜とは闇を除くという意味でもある。この場合の闇とは人の怨念、欲望などだな。そしてあの少年はなんらかの念を持ってこの世に留まっていた。それが除夜の鐘によって心の闇が晴れたんだろうよ」

「そうなのか。じゃあ彼は今頃新しいところに行ったんだな」

「我々も、ある面では新しいところにきたようだ」

「そうだな、一応言っておくか。あけましておめでとう、これからもよろしく頼む、ナナシ」

「ああ、こちらこそな」

 素っ気無い会話。

 新しい年が来た時、あちこちで交わされるであろう会話。

 それでも彼らは十分だった。

「―――あ。初日の出見損ねた」

「クックック。俺はしっかりと見たぞ、実に見ごたえのあるものだった」

 途端、勝ち誇ったように笑うナナシ。

 秋人は悔しそうにうなだれていたが、すぐに起き上がった。

「よし、じゃ代わりに初詣に行こう」

「構わんが、俺は新年の特番が見たい。時間帯はこちらに合わせて…っておい。まさかもう行くのかっ!?」

「当たり前だろ。思い立ったらすぐ行動ってのは僕のポリシーだ」

「ま、待て! 俺はもうすぐ始まる駅伝ニューイヤーが見たいんだっ…」

 遠くなる声。

 少しずつ溶け始める雪。

 一つの年が過ぎ去りて。

 新たな年が、始まろうとしていた。

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